第三章 クジラとまばゆい星の輝き①
スマートウォッチのディスプレイはローマ数字の「III」とアラビア数字の「06:17」が表示されていた。
残り時間をカウントダウンし続けて、八時間が経つと数字がゼロになり、次の班に交代だ。
時間を確認したあと、私は足早に左右両側の古い修理工場を超えた。人の多い場所にたどり着くと、通り過ぎる人間が様々な噂話に花を咲かせていた。
──群青の歌姫がまた出たらしいよ。
──やっぱりこれは煙雨楼の呪いだろう。
──女の執念は怖いね。
気のせいなのかはわからなかったが、いつもよりも姉に関する言葉が多かったような気がした。
私は、噂話がこの小惑星基地ではお金を使わない気晴らしであることを知っていたが、今は煩わしく感じる。南エリアにつく前にコースを変えると、道路が徐々に狭くなり、住民の数と噂話をしている声が大幅に減った。
カールおじさんはその男が南エリアにいたかもしれないと教えてくれたが、あそこは情報収集には向かない場所だ。
基地が改築、修理を繰り返すため、内層に位置するにも関わらず人が近寄らない地域がある。
「闇エリア」と呼ばれる場所は構造が複雑で、隅には全く価値のない廃棄部品や大型金属のゴミが堆積されていて、物を隠したり、密談を行ったりするにはもってこいの場所である。もし、本気で姉に関する情報を探っているなら、必ずここに来るはずだ。
全く身寄りのない子供も闇エリアで誰にも気づかない隅で寝泊まりする。厳密に言うと、その環境は最低ランクの巣枠より酷くはない。ただし、警備隊や悪巧みをする住民に遭遇するだけで厄介なことになるだろう。
私は長いことここに足を踏み入れていなかった。
換気をしていない薄い空気にはもう慣れていたが、頭の片側は未だにジンジンと痛みを感じた。
足早に人の集まっているエリアを何個通過しても、予想通りの人物を見かけることがなかったので、私は情報屋たちに話を聞くことにした。確か、スーツ姿の男は「天穹姫」ゾイの情報を聞きこんでいた。カールおじさんが聞いた噂は本当にあったことだ。しかし、詳しい情報を知るためにはお金を払わなければいけなかったので、進展は得られなかった。
一シフトの時間をかけて闇エリアを動き回ったのに成果が得られなかったが、巣枠に帰ろうとすると、異状に気づいた。
道路沿いに堆積しているゴミにしてはそれが大きすぎるからだ。
私は片手でナイフの柄を握り、用心深くそれに近づいた。俯くとエーデルが隅で倒れていることに気づいた。スーツは破けていて、肌が露出している部位も怪我やあざがたくさんあったが、少なくとも息はしている。
「生きてるか?」
そう聞くと、エーデルの体が微かに動き、辛そうにこちらに視線を向けた。彼は十数秒かかってやっと私が誰だかわかった。彼の右目が腫れあがっていたから、その表情がひどく滑稽だった。
やっぱり、月の貴族ではないのでは。
私は再び左右を確認したところ、辺りに護衛の姿は見つからなかった。
「僕は強盗に遭った」
エーデルは起き上がろうとしたが、手で床につくと体の重心が不安定のため、すぐそばに倒れてしまった。その顔が再び地面に叩きつけられ、低い悲鳴を上げた。
私はいつでもナイフを抜ける姿勢を保ちながら、様子を観察した。
「……月人が強盗に遭うなんて聞いたことがないわ。視察に来た時に護衛たちがついていなかったの?護衛たちは同じく小惑星基地出身で、避けるべき場所と人をわかっているのに、なんでこうなるの?」
「護衛なんてつけていません」
「なんで?」
「それでは自由に行動できませんから」
エーデルは苦笑いして、何度も起き上がろうとしてようやく起き上がった。スーツの皺を伸ばし、礼儀正しい態度を保ったまま言った。「すみません、お水ありますか?」
その贅沢な質問に対して、私は思わず笑ってしまった。
「あなた、本当に月人かもね。水は好きな時に飲めるものだと思ってるの?」
この嘲りの言葉に対して、エーデルは眉をひそめたが、会話を続けることはなく、ただ俯いてボロボロになったスーツを整えていた。
「どうして、南エリアで姉のことを調べてるの?」
「南エリア?」
エーデルは質問で返した。
私は質問したい衝動を抑えてから、もう一度聞いた。「なぜ、姉のことを調べているの?」
「あなたは本当にゾイさんの妹なんですか?『
「今、私が質問してるのよ」
「でも、恐らく間違いないですね。髪と目の色はゾイさんが言っていた通りです。性格も……」エーデルは独り言を口にする途中、痛みが残る右目を抑えながら、それ以上何も言わなかった。
私は仕方なくため息をついたあと、次にどうするか考えていた。
✥
少し休んだ後、私とエーデルは闇エリアを離れた。
エーデルはゆっくり歩きながら、時折、片手で胸を押さえた。私と目が合ってから苦笑して言った。
「さっき蹴られたとき、肋骨が折れちゃいましたかもね」
「……骨が二本に折れて、内臓に刺さったか、体の外に出たってこと?」
「え?もちろん違いますよ」エーデルは唖然としながら苦笑すると、傷を押さえて顔をしかめながら言った。「肋骨にひびが入っただけでしょう。数週を経てば自然に治るから治療は要らないですね」
死ななければいい。私は自らそう結論して、前に進み続けた。
エーデルは慌てて追いかけて、先の謝意が好奇心にとって代わられて、まるで小惑星基地に初めて来たように左右を見ながら聞いた。
「地元のガイドとして、この基地について教えてくれませんか?」
──何時ガイドになったのよ?
内心そう突っ込みながらも、私は小さい声で説明した。
「今、私たちがいる場所は内層といって、用途に応じて五つのエリアに分かれている。中央エリアは政府職員と金持ちが住んでいて、北エリアは一番賑やかな繁華街よ。この二つのエリアの住民になることができたら、基本的に他のエリアに足を踏み入れない」
「そうなんですね」
「南エリアは普通の居住エリアで西エリアが資源エリア……設備エリアとも言える。そこには水資源、食糧の貯蔵庫とこの基地の中枢システムがあるから、一般住民は中に入ることを厳禁している」
「気をつけます」
「東エリアには宇宙船の格納庫と修理工場のほか、宇宙港の出入口のゲートもあるわ。この小惑星基地は辺鄙なところにあるから、そこもとても賑やかな場所で、様々な品物がそこから次々積み下ろされている」
「このエリアなら問題ないですね。そこで船を降りましたし」
私は思わず横目でちらっと彼を見た。
「あなたは自分で宇宙船を操縦してここに来たの?」
「他人の船に乗ってきました」
「だったら、何でそんな路地にいたの?」
「部屋から追い出されて……この基地では『巣枠』と呼びましたっけ?ゾイさんとあなたの巣枠から追い出された後、ホテルを探していたんですが見つからず、何人かに聞いても役に立つ答えが得られなかったから、この街角で少し休んでいたんです」
金持ちや上級役人が着るような奇妙な服装を着て、一人でこの闇エリアの路地で夜を過ごそうとする者は、悪者にとってもってこいの標的だった。軽く怪我しただけで済むとはすでにラッキーだった。
「なんで姉のことを聞いて回ってるの?」私はまた聞いた。
この質問に彼は返事をしなかった。
エーデルは本当に聞いていなかったか、わざと無視したのかもしれない。
もう第一班が出勤する時間であり、街中には人の流れが現れるようになった。あちこちから喧噪の声が聞こえてきたが、第三班のメンバーが自分たちの巣枠に着いて、第一班のメンバーが仕事場所に到着したあと、程なくして静けさが戻るだろう。
エーデルは突然動きを止めて、高さ数メートルの金属製フェンスを見ていた。
「あそこが、ゾイさんが昔住んでいた場所ですか?」
「姉の家はあんたが勝手に侵入したあの巣枠よ。煙雨楼のトップ歌姫になってもこの事実は変わらないわ」
「なるほど」
私は、エーデルが私の言葉の意味をわかるかどうか知らなかったが、補足説明をしなかった。
「それがこの基地の売りですね」
エーデルが面白い言葉を一つ使った。
──売り。
この基地の規模は比較的狭く、人口も十万人程度しかない。旧時代の遺産も乏しく、保有している大型船の数も二桁未満であるため、基地の運営を維持するには他の基地や月からの人の消費が必要だった。
「行ったことありますか?」
「……そんな場所になんて行かない。北エリアの境界すら絶対近づかない」
「なぜですか?」
エーデルの口調は落ち着いていた。質問することがさも普通のことのようだった。
私はすぐ答えなかった。ただ力を込めて拳を握りしめ、密かに深呼吸をしてから話を続けた。「一番料金が安い楼閣でさえ、入場料が何週間の生活費くらいかかるから、一般住民が払える額じゃない。喉が乾いて死ぬか、餓死してでも歌姫の歌を聴きたいというバカは多分とっくに外の宇宙に送られたわ」
「だから、この小惑星基地に移住しようとする人はいないのですね?」
私は思わず言葉が詰まった。エーデルが見た目ほど愚かではないことに今更気づいた。
エーデルは遠くを眺めながら、確信を持って聞いた。
「ゾイさんはかつてこの基地で一番有名な歌姫だった、そうですね?」
「……ええ」
北エリアで最も有名な九人の歌姫は「九姫」と呼ばれ、それぞれ唯一無二の称号が与えられた。
姉はかつてトップに君臨していた。彼女はその青い瞳から「天穹姫」と呼ばれ、最大規模を誇る楼閣、煙雨楼でも最高のステージと自分のフロアが与えられていた。遠くの小惑星基地の人たちも金と時間を惜しまず彼女の生歌を聴きに来ていた。
他の八人の「歌姫」が共に盛大なディナーパーティーを開催しても、観客数と投げ銭の総額はたった一人で歌った姉のほうが多かった。
これによって「天穹姫」の名声が高まり、宇宙の隅々まで知れ渡っていた。
数週間後、月から来た貴族たちに姉があのガラスの宮殿へ連れ去られた……
「──歌姫の歌を聴いてみたいか?」
「機会があれば。ゾイさんよりランキングが下の他の歌姫でも歌を聞く価値がありますよね」とエーデルが話した。
「それなら、奇跡を祈るわ。月の貴族じゃなければ、九姫の生歌を聴くことは宇宙船を買えるくらいお金がかかるもの。しかも、楼閣のステージで、一人で歌姫たちの歌声を聴くことは、月から来た貴族だけができる権利よね」
「僕は貴族じゃありませんが、月から来ました者です」
「はいはい」
私はそっけない返事をして頭を傾けながら補足説明した。「ちなみに、さっき見ていた方向は東エリアよ」
それを聞いて、エーデルはきまりが悪そうに視線を逸らして、それ以上何も話さなかった。
私は一瞥して前に進んだ。
知らないうちに、道路が二人で通っても狭いくらいの小道になっていて、周囲も他の住民の姿が見えなかった。錆びた配管と知らない大型機械が時折、長年の汚れが蓄積して黒くなった路面を占拠していて、道を通る方法や迂回する方法を考える必要があった。
足音が無数の壁に響き渡り、その音はしばらく消えなかった。
エーデルは何度も言葉を呑んだが、ついに聞いた。
「ここはどこですか?」
「外層だ」
それを聞いてエーデルが訝しげな表情をして、小さい声で言った。
「基地の外層は無断で出入りできず、足を踏み入れるだけでも面倒な手続きが必要だと思っていました」
「それは理論上間違っていない。だけど、警備隊は長年人手不足で、交代制で中央エリア、北エリアと西エリアの警備で精いっぱいだ。外層へ続く通路はただ閉鎖されているの。大半の住民もわざわざこんな何もないところに来たりなんてしない」
現在、どこの基地の技師でも初めから宇宙船を製造することができず、粗雑な方法でできるだけ修理、メンテナンスするしかない。体積や構造が大きく複雑な小惑星基地だと尚更だ。
住民たちはいつか外層に突然穴が出来てもおかしくないといつも笑いながら言っていた。基地自体が正常に機能することが既に奇跡だ。地球から再び宇宙領域のエンジニアと技師が派遣されない限り、新しい基地は恐らく建設されないだろう。
このため、基地の外層には存在しない構造の空間とパイプが多数存在した。
私は歩き慣れた道をさらに進んだ。
エーデルは早くも興味津々な表情を取り戻して周りを見渡し、面白そうな物を見かけたらすぐ足を止めた。私はエーデルがついてきているか毎度振り向いて確認する羽目になり、最後には直接スーツの袖を掴んで無理矢理歩かせた。
狭くて複雑な通路が続き、表面に亀裂のあるパイプもあった。どこから流れているか不明なねばねばした液体が通路脇に堆積していた。稼働中のシステムから絶えず色んな音が聞こえ、内層よりも騒音が酷かった。
耳に響く爆音が聞こえることもあって、体が飛ばされるほど強い風が感じたこともある。
それは、格納庫の大型ゲートの開閉や宇宙船が離陸する際に発生するものだ。
「しばらくここにいたら慣れるよ」
私はエーデルが力を入れて手すりに掴んでいることに気づいて、軽く言った。
「あと、念のため、私が手を上げたらすぐ防毒マスクを着用すること」
エーデルは不思議そうな声を上げ、スーツに手を伸ばして少ししてから言った。「僕、防毒マスク持ってませんよ」
「巣枠を出るときはスマートウォッチ、IDウォッチ、防毒マスクを用意することは常識でしょ?」
「今、IDウォッチしか持っていません」
「奪われたんじゃなかったの?」
「僕たちのIDウォッチは手術で直接腕の中に埋め込みます」
それは、ごく少数のハイクラス小惑星基地の住民や金持ちが使う方法だ。私は彼のボロボロのスーツを見て、この話を打ち切った。
「……じゃあ、言わなかったことにしよう」
「本当に大丈夫なんですか?」
「ここは一応巣枠があるエリアと繋がっているから、命に係わる危険なガスは発生しない。変なガスを吸ったら眩暈・頭痛、吐き気になるけど、半日横になれば大丈夫よ」
「それは大丈夫に聞こえないですが」
私は絶えず不平をこぼすエーデルを相手にせず、複雑な金属の通路を進んだ。
小惑星基地の最外層は特殊合金製の外殻を使用している。色は目立たないメタリックグレーだと言われる。その一部にはソーラーパネルが設置されていて、微量の太陽光を吸収しているという。とはいえ、その太陽エネルギーがどこで利用されているか知っている住民はいなかった。
基地の稼働を支えているのは西エリア深部の核融合反応炉と異星の鉱物を宇宙船の燃料に製錬する工場だ。
最外層と外層の間には基地の各エリアを支える多くの大型鉄筋コンクリートのフレームであり、放置や廃棄されているエリアもある。酸素供給システムの配管がここに設置されていないか、破損しているか、空気が薄かった。
それを考えると、私は突如エーデルが手すりを掴んでいるのは肋骨が痛いだけじゃないかもしれないと思った。
低酸素の環境に慣れていなければ、眩暈や吐き気を感じて、酷い場合、その場で倒れることもある。
私は隔壁の扉の前で振り向いて彼の状況を確認した。
エーデルは少し千鳥足になったが、周囲を見渡す余裕があったから、私は彼の体調について聞くことをやめて、前に進み続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます