第二章 私たちの暮らす世界③

 ヘルメットを脱ぐ時に、私はもう疲れ果てて息を切らしていた。


 目も指も脳も限界に達し、ハッチを開けることを何度もやった後に成功し、よろめいて外に出た。


 カールおじさんは既に仕事を終えたようで、肩に油まみれタオルをかけている。おじさんは今、リフトの横にある金属製の箱に座って、配給された硬い乾パンを噛んでいる。


「お疲れ」


 私は頷いて返事して、倒れないように急いで巡視艇の船体に手を伸ばした。


 カールおじさんは軽く笑うと、起き上がって壁際から折りたたみ式の椅子を引っ張り出した。


 私は好意に甘えて椅子に座り、硬くなっている指の関節をほぐそうとグーとパーの形を繰り返した。


「今日は何回小惑星にぶつかったんだ?」


「今日は事故ってないもん!」私は不機嫌そうな声を荒げ、「ただ、慣見知らぬ宙域でフリーチャンネルをつけ忘れたとき、他の船からのメッセージに応答するのに間に合わなくて、敵船扱いになって撃沈されちゃった」と、目を泳がせながら付け加えた。


「実際に出航するまでには、まだまだかかりそうだな」カールおじさんは満面の笑みで、「ところで、今日はデザートを出さないよ」と言ってきた。


「毎回ここに来る時、おじさんにデザートをおねだりしたわけじゃないでしょ?猫じゃあるまいし」


「猫ってなに?」


 カールおじさんは困惑して眉をひそめた。


「地球の動物の一種だよ。お姉ちゃんが言ってなかったかな?小さくて毛が生えてて可愛い。狭い場所に籠るのが好きで、いつも人間に食べ物をねだるらしい」


「見たこともない動物を『可愛い』と言われてもなあ。よくわからんし、ゾイの主観も混ぜてるだろ?」


「お姉ちゃんはその動物のことが一番好きなんだって」


「そう、問題はそこなんだ。歌の天才なんだけどさ、それ以外の美意識は平凡なんだよな……地球から来た動物といえば、ネズミや犬をよく見かける。中央エリアで孔雀を何羽か見たことがある気がするんだが、そもそも最初はどういう基準で基地に連れてきてるんだ」


「孔雀って、尻尾が大きい鳥だよね?中央エリアにいるのか?」


「警備隊の宿舎ビルの横に庭があり、そこで半分放し飼いされているぞ」


「それならお姉ちゃんも見たことがあるのね」


「まあ、ゾイはいつも中央エリアに呼ばれていたからな」


 私は心の奥底にある感情の温かさを感じながら、しばしば頷いた。


 修理工場に通い続けている理由のひとつは、カールおじさんとだけが姉のことを語れるということだ。


 毎日過去のことを考えても、記憶はどんどん薄れていき、本物と見分けがつかないキラキラした断片だけが残る。


 姉は巣枠の隅に座り込んで、目を伏せてうつむき、白いロングスカートは赤い血と青い絵の具で乱雑に染まれた。彼女は動かず、床についた右手で日記帳を強く握りしめ、紙をくしゃくしゃに丸めていた。


 口角からの血が既に息をしていない彼女の胸元、腰のあたりを流れ、金属製の床には鮮やかな青いシミが出来て――


 ――いや、人間の血が青いわけがない。


 私は指を強く握りしめ、頭を振ってそのありえないイメージを振り払った。


 その時、カールおじさんが突然手を叩いて、何かを思いついたかのように言った。

「ゾイがクジラという動物の話をしていたな。体がとても大きく、一部の種は地球上で最も大きな哺乳類で、海に生息しているらしい」


「じゃあ、クジラは海の中で呼吸ができるってこと?」


「それは……人間と同じく、肺で呼吸しているようだぞ」


「そんな魚がいるの?」


 私は眉をひそめながら尋ねた。


 小惑星基地の中には、養殖の深海魚や貝類を缶詰として販売し、人気を博しているところもある。


 それは数百年前、地球から小惑星への宇宙航海に欠かせない食料だと言われていた。何年、何十年と続く宇宙航海では、宇宙船に大量の食料を保管するにはスペースが限られていたため、極限環境で生きられて、素早く繁殖する手段を持つ深海の生物が最適の選択肢だったということだ。


 いわゆる海を自分の目で見たことのある住人はいないとしても、魚は身近で高価な食材である。


「――いや、ゾイはあれが哺乳類だと言っていたのを覚えている」


 カールおじさんは確信を持ってそう言った。


 私は姉がそのことを言っていたかを思い出そうとしたが、何も思い出せなかった。


 ただ、姉が動物図鑑を持っていたことは覚えていた。あれはお客さんからもらった高価なもので、月に行くときに持って行かれた。その中にクジラのことが書いてあった可能性はある。


 カールおじさんはあごひげを掻きながら、その話題について会話を続けなかった。彼は一本の未開封の乾パンを手に取って差し出してきたが、私は顔を横に振って断った。


「東エリアはいつまで封鎖されるんだろうな?」


「どうせ、ジャンクがいっぱいで、壁が押しつぶされそうになったら、解放されるんじゃないの」


「……こっそり入ったりするんじゃないぞ」


 私はこの警告を聞かなかったふりをして、床から拾ったネジで弄んだ。


 先端から頭部に走る極めて細かい等間隔な螺旋状のくぼみが、どのようにして作られたのが興味深かった。


 カールおじさんは「しょうがねえな」という表情でため息をつき、包装を開けて二本目の乾パンをかじった。


「そうだ、南エリアの境界に怪しい男がいて、ゾイに関することを聞いているそうだ」


「……お姉ちゃん?」


「厳密に言うと、男は『天穹姫てんきゅうき』について聞いているらしい」カールおじさんは正確に言葉を言い換えて、こう続けた。「ゾイが帰還して間もない頃、そのような人間が少なくなかったんだ。その中には楼閣の常連客も他の基地から来た物好きもいたが、ここ数年そういう噂を聞かないので、なぜまた突然そんなことを聞く奴が現れるのかわからん」


「それは誰だかわかる?」


「詳しい情報がないんだよ。その近くに巣枠システムの修理を担当している店主がいて、たまたま南エリアに住んでいるんだ。偶然彼に会った時にこのことを聞いた」


 それを聞いて、スーツ姿の男が私の脳裏に浮かんだ。


 この小惑星基地の居住者は中間層にあたり、人口は約十数万人であるが旅行者が多いため、多種多様な噂が常に広まる。特定の一人の旅行者に関する噂を偶然聞くということは、ほとんどないだろう。


 私は論理的にそうだと思っていたが、自称月から来た男「エーデル」がなぜ人の巣枠に勝手に侵入できたのか……なぜ姉の名前が出たのか、まだ全部わかっていないことに今更ながら気づいた。


 やっと落ち着きを取り戻したのに、不安が、再び胸を締め付けた。


 弱い痛みが体を疼かせた。それは微かではあったが、確かに存在した。


 何かのぶつかる音が聞こえたような気がして、我に返ったとき、私は自分が立っていることに気づいた。


 折りたたみ椅子は真っ黒な金属の床に倒れていた。


「その手の物好きはいつでもいるもんだよ。何しろゾイの評判は知れ渡っていたな。でもまあ、何も聞き出せず、そのうち勝手に去っていくだろう。放っておけばいいんだよ」


「うん、わかった」


 私は折りたたみ椅子を壁際に戻し、ドアの方へ歩いていった。


「千華、東エリアのジャンク置き場に忍び込むんじゃねえぞ」カールおじさんはまた叫んだ。「必要なものがあれば、俺に言えよ。ゾイには負けるが、各エリアには人脈があるんだよ」


「……おじさん、どうして東エリアが封鎖されてるんだろう?」


 この予期せぬ唐突な質問にも、カールおじさんは真面目に考えて、少ししてから言った。


「最も現実的な理由は、何らかのシステムや設備の故障だろう。ジャンク置き場は船の停泊場と宇宙港に隣接しているから、もし事故が起きたら大変なことになる。上層部の奴らはむしろリスクを冒し、数日間エリアを閉鎖して徹底的に点検する方がいいと思うだろう」


「前にもこのような事故があったよね?」


「そうだな。港の貨物システムが故障して、氷を積んだ船が降ろせなくなってな。その頃、基地全体が渇いて死にそうになっていたぜ」


「じゃ非現実的な理由とは?」


 私が何事もなかったかのように振舞って尋ねた。


 カールおじさんは不思議そうな顔をして私を見て、そしてニヤニヤしながら尋ねた。「船を襲う未知の宇宙怪獣とか、無限のエネルギーを生み出す特殊な鉱石とか、月の貴族が実はよく歌姫の歌を聴くために変装してこの基地に来ているとか、あまりにも馬鹿げた噂を信じるか?」


「……噂の中にも信頼できる情報は一定程度存在するだろう。お姉ちゃんのことを聞いていた怪しい男みたいに」


 カールおじさんは信じられないという表情で肩をすくめた。


 ――それに昨日、一人の月人が確かに姉と私の巣枠に現れた。


 私はゆっくりと息を吐いて、この言葉を発しなかった。


 姉の前であれば、遠慮なく思いの丈をすべて口にしただろうが、カールおじさんはあくまで部外者だ。この関係を維持するためには、明確な線引きが必要だ。


「もう帰るね」


 そう言って、カールおじさんの返事を待たずに早足で修理工場を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る