第二章 私たちの暮らす世界②

 私は急に肌寒さを感じた。目を開けてぼんやりとした白い息を凝視していた。いつの間にか眠ってしまっていたことに気づくまで、数秒かかった。


 握っていた金属の花びらは体温を帯び、その青色は少しまばゆい。


「よかった、つぶれていない……」


 私は安堵のため息をつき、立ち上がって壊さないように気を付けながら青い花びらを戸棚の奥の方に戻した。


 巣枠の酸素供給システムは、まだブンブン音がした。


 薬缶の表面に映る歪んだ自分の姿を見つめながら、私は昨夜訪ねてきたあの頭がおかしい自称月人をすぐに思い出した。不安と苛立ちがすぐに胸にこみ上げてきて、長らく消えることはなかった。


「だから、あいつは一体何なんだ……」


 独り言を言っても、答えが見つからなかった。


 喉が乾燥して痛く、唾を飲み込むだけでも辛かった。


 昨日の錠剤は効いていないようだった。


 私は手に取った薬缶を揺らして、わずかに残った錠剤の缶に当たる音を聞き、最後はビタミン錠剤だけ飲んでから浴室に入った。タオルで素早く体を拭き、金属製の水差し手に取り、何かの宗教的儀式を行うようにゆっくりと唇を濡らし、小さく一口飲んだ。


 水が喉の内側を滑り落ちていく感覚はとても鮮明だったが、すぐに消えてしまった。


 喉の痛みがまた戻ってきたのだ。


 私は水差し蓋を強くひねってから部屋に戻り、床の隅に落ちたナイフを腰に付けてから巣枠を出た。しばらく通りを歩いていると、自分がどれくらい眠っていたのもわからないことにようやく気づいた。


 出勤前にアラームを設定していたのだが、昨夜は気づかないうちに眠ってしまっていたからそうしなかった。睡眠薬を常用しているせいで、体内時計はまったくあてにならない状態だった。


 スマートウォッチの画面を数秒間確認すると、ちょうど第三班の時間帯に入ったことがわかった。


 第一班は午前、第二班は午後、第三班は夜をそれぞれ担当している。


 小惑星基地の住人たちは、たとえ朝も昼も見たことがなくても、太陽も月も存在しなくても、いつ外を見ても真っ暗な狭い檻の中にいても、地球と同じように時間を刻んでいる。


「地球にいる人たちは、顔を見上げたらいつでもどこでも時間がわかるだろう……」


 思わず顔を上げたが、視界に入るのは配管が並んだ古い金属板ばかりで、檻の外にある漆黒の宇宙すら見えなかった。


 一瞬、胸の痛みを感じた。


 私はすぐに前進することを再開し、途中で時々左右を確認した。


 エーデルならどこでもついてくるだろうと思ったが、巣枠を出てしばらく経ってもスーツを着た唐突な姿は一度も見ることがなかった。


 今思えば月の貴族や高官を除いて、この基地の住人はあのような服を着ることはないだろう。動きにくいし汚れやすいし、販売している店すらない。あの男がどこで手に入れたのかわからない。


 とはいえ、もう会わないのが一番だった。


 私は早足でカールおじさんの修理工場に着いた。


 修理工場は東エリアの通りの隅にあり、そこから長さ百メートルの歩道と隔壁の扉を抜けば外層に着く。ただ、その扉は何年も前から封鎖されており、通行が禁止されていた。船の修理を希望する常連客と道に迷った住人しかここには来ない。


 少し刺激的なオイルの匂いは、やはり安心感を与えてくれた。


 私は大きく息を吸い込み、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


 緊張が少しは和らいだ気がした。


 カールおじさんはリフトの下に横たわり、宇宙船の小型エンジンの修理を行っていた。


 私の足音が聞こえると、カールおじさんはすぐにリフトの横の隙間から顔を出した。ちらっとこっちを見た後、作業を続けた。


 私はおじさんの邪魔をせず、工場内を歩き回った。


 ここはいつも静かで、はっきりとしたネジを回す音や金属部品がぶつかる音しか聞こえなかった。


 カールおじさんには家族も親戚も親友もいないようで、この修理工場の二階で一人暮らしをしている。数年前、私と姉が初めて廃墟と化した修理工場と思われるこの場所に忍び込んで夜を過ごそうとして、カールおじさんに出くわした時もそうだったように、以降、ここで客以外の人を見たことはない。


 一人乗りの小型巡視艇は、宇宙船としては最低ランクだが、その修理には極めて専門的な知識と技術が必要である。近くにある修理工場の業務のほとんどは酸素供給システムや浄水設備、小型電子機器などの修理がメインであり、宇宙船の修理ができるのはカールおじさんだけである。


 ――だったら、もっと豊かなエリアに住むか、中央区で政府直属の技師として働けばいいんじゃないの?


 以前、カールおじさんにそう尋ねたことがあるが、彼はにこっと笑うだけで、質問に答えることはなかった。


 工場の壁際には、いつもネバネバの廃油が入ったドラム缶がいくつも置いてあり、知らない部品が箱の中に転がっていて、床には用途不明のワイヤーやプラグが散乱している。


 私は一通り見て回ると、隅に停めてある巡視艇に向かった。金属製の階段を登り、ハッチを開けて船内に入った。


 この巡視艇は東エリアのジャンク置き場で見つけたもので、おそらくはある大型船から出された廃品だろう。発見当時、骨組みとエンジンだけが残っていて、カールおじさんに無理矢理頼んで、タダで工場の隅に置かせてもらっていた。その後、私は色々な部品を買って、船を修理し続けた。カールおじさんは私が船を修理している様子を見るたびに「あんなガラクタ飛ばねえよ」とつぶやいても気にしなかった。


 船内は見た目以上に広々としていて、歩いて出入りできるコックピットや、エンジンと各設備を分け隔てる配線、配管と通路のほか、そばには二人が横になれる小さな休憩スペースがある。


 カールおじさんによると、この旧式巡視艇はまさに骨董品で、たとえエンジンがかかったとしてもほとんど誰も自分の命を賭けて操縦しようとしないだろう。しかし数年前、姉が一人で巣枠に帰ってきた頃、軍用の機動哨戒艇を乗っていた。


 姉の死亡届出をした後、その哨戒艇は遺品として妹の私に渡された。


 本来なら差し押さえられるはずのものだが、幸いにも姉の第一姫という身分のため、難を逃れることができた。役人たちは多分、私が軍用塗装を施した哨戒艇で堂々と外へ飛び立つことはないと思っていたから、私に引き渡しても問題ないと思っただろう。でもちょうど、私はあの哨戒艇から取ったエンジンや部品を巡視艇に取り付けて、さらに時間をかけて改修して、とうとう宇宙を航行できる小型船を作り上げた。


 私は操縦席の背もたれに寄りかかって深呼吸をしてから、パイロット用のヘルメットをかぶった。片手で操作レバーを持ち、軍用システムのシミュレーションモードを起動した。


 ヘルメットの内側に表示されるルートと指示に従って、シミュレーショントレーニングを受ける――その内容は小惑星や多くの宇宙ゴミを避けるための蛇行、上昇と下降、高速での引き返し、緊急回避、低速航行など、システムのリストにある千種類近くのシナリオである。

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