第二章 私たちの暮らす世界①

 私は深い漆黒に包まれた金属製の檻に住んでいる。


 小惑星基地『C2059』、それがこの狭い世界の正式名称だ。


 太陽系の第四惑星「火星」と第五惑星「木星」の間に位置する小惑星帯には五十万個近くの小惑星が存在し、その中に基地、無人宇宙ステーション、人工衛星、廃棄された宇宙船などが緻密で複雑な交通網を構築している。


 時折、他の基地から出た宇宙船の事故が発生して一人も助からなかったという噂を聞いたことがあったが、酸素供給システムが正常に作動せずに大半の住民が亡くなった基地の噂を聞いたこともあった。直近の重大事故は、小惑星基地『F2077』で、大型宇宙船が出港した時に居住エリアの壁に衝突し、それを破損させた。繋がっているハッチを緊急閉鎖しても助からなかった。一万人ほどの住民が犠牲になり、基地も放棄された。


 こんなことがあっても、これが私たちの暮らす世界だ。


 他の場所へ逃げることができない。


 ヒトが生まれたあの青い惑星では、人々が数千年かけて宇宙航行技術の開発に成功し、月、火星、木星に足跡を残し、多くの宇宙ステーションや小惑星間基地を作り出し、これを土台に太陽系外縁部の探索を始めようとしている。


 とはいえ、数百年前にある小惑星基地で疫病が発生し、多くの人が命を落とした。地球に住む人々は、宇宙で発生した特殊なウイルスがもし、それに対する抗体を持つ人がいない地球で発生し、感染が広がったら地球文明が滅びてしまうじゃないかと心配していて、ついに地球を封鎖した。


 それ以降、小惑星基地にいる人々は地球に入ることができなくなった。


 これはみんなが幼い頃から聞いている話である。


 今、小惑星基地にいる人々はウイルスと共生するようになるが、ウイルスを消滅すること自体は無理。その故、地球では封鎖が続く。我々は自分の手で土壌、葉っぱ、花びらを触れられない。生まれた時からこの金属製の檻に住み、地球の話を聞きながら各小惑星の間に漂っている色んな残骸を拾ってかろうじて生きている。


 完全に修復できない酸素供給システムに依存し、食料と飲料水でさえ配給され、紙と布は言うまでもなく高価で希少なアイテムである。


 我々は暗闇に囲まれた狭い世界を生きている。空を見たことがない。


 もちろん、少数の幸せ者は檻から出て月に行くチャンスを得られる。


 それは、ヒトが地球以外の天体で最初に作った基地の所在地であり、その基地はあの青い惑星に最も近い基地である。


 同様に大気と水が不足しているところなのに、月にある基地は地球からわずか三十八万キロしか離れていない場所にあり、人々は地球から運ばれてきたさまざまな資源や設備を活用して、広大な人造湖、野菜を植える温室、家畜を育てる屋内型牧場などを作り出している。


 人々はガラス張りの宮殿に住み、地球人に次ぐ贅沢な生活を送っている。


 また、月にある基地はヒトが初めて作った宇宙基地なので、全ての小惑星基地を管理する役割を担っている。 定期に小惑星基地に「視査官」を派遣し、時折適切な候補者を召し使いに選び、「ガラスの宮殿」と呼ばれる月の宮殿に連れて帰る。


 檻の中で生活している者にとっては、ここから脱出する絶好の機会である。


 そして、唯一のチャンスかもしれない……



 私は自称「月から来た」男を見つめ、どのような感想が適切かわからなかった。


 夢物語の中にしか存在しない地球人とは対照的に、この基地には毎年、月からの大型船が定期的にやってきて、数人の月人が大きな楼閣でおもてなしを受けて、自分のお眼鏡にかなう歌姫や召し使いを月へ連れ帰るのだ。


 とはいえ、基地の管理階層、楼閣のオーナー、大型宇宙船の船長でもない限り、月人と話をすることは不可能である。


 人々は常に地球人のことを「王族」、月人のことを「貴族」と呼んでいる。


 平民である私たちは、月人の姿を見ることもできず、せいぜい格納庫を遠くから眺められる場所で、出港する月人の大型宇宙船を見送ることしかできなかった。


 私は再びナイフを握りしめ、切先を相手に向けた。


 エーデルの心はここではないどこかにあるようで、ナイフのことなどまったく気にしておらず、左右をキョロキョロして、ボケッとした顔や考え事をしている表情をしていた。いきなり何かを見つめていたが、彼の視線をたどると防毒マスクや薬缶、拭き掃除用の古タオルなどがその先にあって、よく見かけるものばかりだ。


 それらの物を見つめる理由は全く理解できない。


 ドアが閉まっていないので、外の空気とかすかな音が巣枠の中に入り続け、私の足首付近の床に滞留していた。


 しばらくして、私が最初に沈黙を破って尋ねた。


「……証拠は?」


「え?」


「月から来たと言って私が信じると思うんですか?その証拠を見せてください」


 そのとき、エーデルは困った表情で髪を掻いて、苦笑しながら言った。「こんなことを聞かれるとは思っていませんから、IDを持っていません。すぐには取りに戻れませんし、今は自分の身分を証明できないんですね」


「え?」


「でも、信じてもらえるとうれしいです」エーデルは心からそう言った。


 話がずっと平行線だった。


 私はナイフを強く握りしめ、答えなかった。


「ゾイさんは元気ですか?」エーデルが再び尋ねた。


 それがわざといやがらせで質問をしているのか、それとも本気で答えを聞き出そうとしているのかわからなかったので、私はしばらくしてから歯を食いしばって答えた。「姉はもう死んだ」


「そうだったのですね……それはとても悲しくて残念です」


 エーデルは瞼を閉じ、悲しげにため息をついた。


 その声には、理解しがたい複雑な、悲しみを超えた何かがあった。


 しばらく経ったところ、エーデルが再び言葉を発した。


「この基地の宗教について詳しく知りませんが、どこで彼女を弔えばよいのでしょうか?」


「どの小惑星基地にもそのような場所はないよ……金属の床を掘って墓を作ることはできないし、窮屈な空間で生きていくために、墓石や位牌、死者を弔う物は置くこともできないのだ」


「ではゾイさんのご遺体はどうなっているのですか?」


「みんなと同じように宇宙に葬られるに決まっているじゃないか!」


 私は力を込めて叫んだ。


「ご遺体」という言葉は、想像以上に私の心をえぐった。


 胸元の古傷がまるでこじ開けられたように、心にこびりついていた感情が溢れ出し、自分の体内が空っぽになったのかと思った。私は慌てて壁に手を伸ばした。


 エーデルは見分けのつかない表情で、眉をしかめたが、涙を流すことはなく、悲しみも感じられなかった。


 まるで、この答えを既に予想していたかのようだった。


「……行け」


「はい?」エーデルは戸惑いながらも尋ねた。


「出て行け!他人の巣枠への不法侵入は重罪よ! なんなら警備隊を呼ぼうか!」


 周りにあった物を投げつけながら、私は叫び続けた。


 カンカンという金属音が鳴り響いた。


 エーデルは体を守るために手を伸ばした。ほとんどの物が命中せずとも、彼はゆっくりと後退し、「また来ます」と囁きながら去っていった。


 ドアが閉まる音は微かだが、はっきり聞こえた。


「なんなのよ……」


 私は、まるで本当に月から来たみたいな男の仕草と質問に唖然としたが、よくよく考えると、ここの住人たちもその気になれば似たようなことを思いつきそうと思った。


 もし、これがわざとやっている悪戯だとしたら、あまりにもひどい。


 しばらくしてから、私は少し落ち着いてきて、隅の低い戸棚に行った。たくさんの薬缶の奥に、一枚の青い花びらが置いてあった。


 私は手を伸ばして花びらを取り出し、慎重に手のひらに乗せた。


 花びらの表面には無数の細かい傷があり、金属的な輝きが見て取れた。その手触りは軽く、硬かった。


 ゆっくりと床に膝をつき、頭をかがめて頬でその花びらに触れた。


 なんか空気がまた薄くなったような気がした。


 酸素供給システムのブンブンという音が耳に残った。


 それは呼吸のようであり、心拍のようであり、脈動のようでもある。この巣枠を取り囲むだけでなく、金属の骨組みや配線に沿ってこの檻の隅々まで伸びていた。生まれたときから檻に閉じ込められている私たちも、この檻に頼って生きてきたのだ。


「お姉ちゃん、会いたいよ……」


 その呟きは、やがてブンブンという音にかき消され、霧散してしまった。

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