終章:長い夜(6)夜明けは必ずや訪れる

 言い終わるか終わらないうちに、井千陽と南宮樹はそれぞれ吸血鬼と雪狼と化し、アンジェラの目の前で戦闘を開始した。

「その女を殺すから、止めようとするな!」南宮樹が吠えた。

「ばかなことを考えるな!」井千陽が怒って叫んだ。

「なんでまだこの女をかばうのか?」

「アンジェラは僕の母親であり、君の母親でもあるんだから!」

「違う!」

 アンジェラが南宮樹の両親を殺害したのは明らかであり、南宮樹が彼女を許すことができないのは人として至極当然である。相手の立場で考えれば、井千陽もまた自分の両親と養父母を惨殺した顧逸庭を許しがたいからだ。

 しかし井千陽は、両者の間には依然として大きな違いがあると感じていた。

 顧逸庭が過去の殺人について話したとき、その態度は相当に軽薄であり、罪悪感などは微塵も感じられなかった。だがアンジェラは明らかに自分が犯した罪業に深く苦しんでおり、過去に自分がしたことを後悔している。

 またこの十年間、アンジェラは心を尽くして南宮樹を育て、自らの過ちを償おうと努力してきた。彼女に反省の情があるのは明らかである。

 彼女は罪深いかもしれないが、決して極悪非道で許しがたいわけではない。

 とはいえ、いったいどうすればアンジェラの命を守りながら南宮樹に肉親を殺された恨みを捨てさせられるのか、井千陽には見当もつかなかった。

 一方は育ててもらった恩がある母親、もう一方は愛する兄弟、どちらも彼にとっては等しく重要な存在であり、選ぶことなど不可能であった。

 ――いずれにせよ、ほかに解決法があるはずだ……何があろうと、シスターアンジェラを守る。バカ樹に殺させるわけにはいかない。井千陽は密かに誓った。

 雪狼がアンジェラに襲い掛かってきたとき、井千陽はその攻撃を防ぐと彼女を抱きかかえ、翼を羽ばたかせて空へと飛び立った。

 井千陽はもう高く飛ぶことはできず、さらには短い時間しか飛べなかった。かろうじて南宮樹との距離をとると、彼は再び着地し、アンジェラとともにコンテナの背後に身を隠した。

 雷鳴と稲妻を伴った激しい豪雨が、井千陽とアンジェラをある程度匿ってくれていた。しかし人狼の聴覚と嗅覚はきわめて鋭敏なため、獲物がちょっとした音を立てても、息を漏らしたりするだけでも、その身を隠し続けることは不可能だ。

 「千陽、俺はお前と戦いたくない。その女を渡せ。俺たちは今でも兄弟で、友人だ」

 雪狼の姿でコンテナの間をゆっくりと歩き回る死神は、背筋がゾッとするような恫喝をした。

「だがもしお前がその女を守り続けるというのなら、俺たちの関係はもう終わりだ」

 今、井千陽とアンジェラは時間を稼ぐことしかできなかった。この迷路のように複雑なコンテナターミナルが南宮樹を撹乱できることを願い、同時にできる限り早く日の出が訪れることを祈っていた。

 「お前たち、隠れれば安全だと思っているのか?」恨みに満ちた声がコンテナ間の通路に響いた。「お前たちは絶対に逃げられない。俺がお前たちを逃がしはしない……」

 井千陽は息を殺そうと努め、心臓がバクバクした。そして、昔のことを思い出さずにはいられなかった。


               *****


 「次またケンカしてるのを見つけたら、福音書の書き写しなんて簡単なものじゃ済まないからね」シスターアンジェラは顔を強張らせて言った。「わかった?」

 アンジェラの目の前にいるのは、皮膚から血を流し目には青アザ、鼻が腫れた二人の十歳の男の子――井千陽と南宮樹であった。

 彼らはさっきまで殴り合っていたところをアンジェラに捕まり、怒られていた。

 「もうケンカしないよ」南宮樹はアンジェラのスカートの裾をつかみ、涙を流しながらいい子のふりをした。

 「二度と捕まるもんか……」井千陽は小声でブツブツ言った。

 「あなたたちの性格は全然違うけど、二人ともカッとなるところがあるから、あなたたちにケンカをさせないようにするのはどうやら無理みたいね」アンジェラはためいきをついた。「まず、私は絶対にケンカは認めないわ。どんなこともちゃんと話し合うべきよ。でももしまたいつかあなたたちがケンカをすることがあったら、二つのことをしっかり覚えておいて」

 「二つって?」南宮樹が尋ねた。

 「第一に、武器を使っちゃダメ」

 アンジェラは注意深く言い聞かせた。

「武器を使うと直接相手を叩かないから、加減ができなくなるの。それに自分の体を使って攻撃するときは、自分の拳で相手を叩くと自分も痛みを感じるから、自分の攻撃の威力がわかるのよ」

 二人の子供は黙ってうなずいた。

 「第二に、相手を傷つけることを言っちゃダメ」アンジェラは続けて言った。

 「どうして?」井千陽が尋ねた。

 「体のケガは、見えるし触れるから治すのも比較的簡単なの。でも心のケガは、傷がどのくらい深いかわからないし、一生治らないかもしれないのよ」

 アンジェラは話しながらためいきをつき、二人の子供を懐に引き寄せた。

 「千陽、阿樹は大きいけど心はすごくデリケートで、敏感でもあるわ。あの子はあなたのことをとても大切に思っているから、あなたが言ったすべての言葉、あなたがしたすべてのことを全部心の奥にしまっているのよ。

 阿樹、千陽は気持ちや考えを顔に出さないけど、あの子の感情は実はとても豊かで、感受性がすごく強いの。あの子があなたを大切に思う気持ちは、あなたがあの子を大切に思う気持ちに勝るとも劣らないから、あの子もあなたの一つ一つの言動に影響を受けるのよ。

 だから、あなたたちがケンカをしたときはくれぐれも、感情に任せて相手を傷つけるようなことを言わないようにね。そうでないと、相手の心の中に一生消えない傷あとが残っちゃうから」


               *****


 まさに今、井千陽はアンジェラが言ったこの話を思い出したが、今となってはほとんど手遅れだった。

 南宮樹の声はいつの間にか消えており、すでにこの地を離れたようであった。だが井千陽とアンジェラは依然として警戒を緩めようとはせず、息をすることすら憚られた。

「ついに見つけたぞ……」

 しばらくすると、恐ろしい声が突然頭上から聞こえてきた。二人がバッと顔を上げると、コンテナの上に立っていたのはまさに雪狼だった。

 雪狼がコンテナの上から飛びかかってきた瞬間、井千陽はアンジェラを守るために銃を構えて彼を撃った。しかし銀の弾丸は相手の体をかすめただけで、その攻勢を食い止めるには不十分だった。

 井千陽は歯を食いしばり、再びアンジェラを抱きかかえて飛び上がると、吸血鬼の鋭い爪でコンテナを吊るしているワイヤーを切断した。小型のコンテナが即座に落下し、雪狼の上に落ちた。

「阿樹!」アンジェラは悲鳴をあげた。

 ゴウン!

 雪狼はずば抜けた反射神経で、間一髪コンテナを回避した。体は無事であったが、心は粉々に打ち砕かれた。

「お前はこの女のために、俺を殺そうというのか?」南宮樹は涙声を帯びた怒号をあげた。「こうなった以上、もう容赦しないからな!」

 井千陽と南宮樹の目に激しい怒りが沸きあがり、二人は再び熾烈な殺し合いを繰り広げた。

 アンジェラは自分が育てた二人の子供が自分のために殺し合うさまを見ながら、その罪の意識で生きたまま引き裂かれる思いであった。

 彼女は井千陽が落とした猟銃を拾い上げるとかすかに歯を食いしばり、十年前に成し得なかったことを今この瞬間に成し遂げる決意をした。

 バン!

 井千陽と南宮樹が死闘を繰り広げていると、突然銃声が鳴り響いた。二人が同時に振り返ると、アンジェラの体が徐々に崩れ落ちていくのが目に入った。腹部からは鮮血が噴き出しており、脇には猟銃が落ちていた。

 二人は驚愕し、井千陽が一も二もなく彼女に駆け寄った。南宮樹も初めはそうしようと思ったものの、無理やりその足どりを止めた。

「シスターアンジェラ!」井千陽はすぐさま傷口を押さえて止血した。「しっかりして、すぐに連れて行くから――」

「いいの……千陽……間に合わないわ」アンジェラは痛みを堪えながらそう言うと、南宮樹の方を見た。「阿樹、ごめんね……何をしたって私の犯した過ちを償うことができないのはわかってる……ただ……千陽とケンカはしないでね……私はあなたたちの母親じゃないけど、あの子はあなたの兄弟なんだから……」

 南宮樹は冷たい目でアンジェラを睨んだ。死期が近づいているにもかかわらず、依然として彼女に慰めの言葉をかけようとはしなかった。

「千陽、阿樹あの子は……すごく混乱しているの……心の中で人間性と獣性がせめぎ合っているわ……」アンジェラの声はだんだんと弱々しくなっていった。「おねがい……あの子とずっと一緒にいてあげて……あの子が獣性に呑み込まれないように……」

「シスターアンジェラ……」

 井千陽はきつく彼女を抱きしめた。両の眼から溢れ出る涙が、抑えきれずにボロボロとこぼれ落ちた。

「あなたたちを愛してるわ……私はダメな母親だったけど、あなたたちは最高の子供だった……」アンジェラは聞こえないほど小さい声で言った。「あなたたちに出逢えたことは、紛れもなく神が与えてくださった最高の贈り物よ……」

 アンジェラが井千陽の腕の中で息を引き取ると、彼は長い時間黙祷した。そして冷酷極まりない声で、南宮樹に一言一句こう言った。

「今後二度と、君の顔を見たくはない、シュークラト」

「安心しろ、俺も二度とお前の前には現れない、イリアス」

 南宮樹はそう言い捨てると身を翻して去って行き、二度と振り返ることはなかった。

 激しい雨は止むことなく、コンテナに、アスファルトの路面に、母親に、そして息子たちに、降り続けた。

 今宵、ミラーズホロウの人々は誰一人として眠りにつくことができなかった。


             *****


「ミラーズシティの市民のみなさん、市長のリウ畹芬ワンフェンです」

 早朝四時、議員スーツに身を包んだ中年の女性が市長官邸のプレスルームに座り、全市民に向けて前代未聞の緊急演説を行った。

 すべての市民がテレビ、スマートフォン、あるいはその他の機器を通して視聴しており、その誰もが固唾を呑んで見守っていた。

「現在、ミラーズシティは非常事態に入ったことを正式に宣言いたします。これは演習ではありません」

 市長は真剣な表情と厳粛な口調で述べた。

「昨晩十時より、市内各地で深刻な暴力的衝突が発生しました。当初首都区の街頭でハロウィンを祝っていた群集内で発生し、その後市内全域に広がりました。現在政府の指示で、警察が全面的な鎮圧に当たっています。

 現在をもって、全市夜間の外出禁止令を実施いたします。解除の日時に関しては別途お知らせします。市民は路上および公共の場所において、くれぐれも留まらないようにしてください。夜間外出禁止令に違反した市民に対して、警察はこれを弾圧し拘留する権限を持つものとします。

 衝突の原因は、市内の人狼コミュニティが政府の政策に対して不満を抱いていたことに起因しております。これを受け、政府は近日中に人狼の代表と会談を開き、人狼の権益に対する協議を進めていく予定です……」

 ミラーズシティの街頭では暴動が依然として続いており、死傷者の数は絶え間なく増加していた。

 人狼は殺戮の限りを尽くし、雪狼の信者たちはこれに加担していた。最愛の者を失くした市民は遺体を撫でながら号泣し、無力な子供たちは恐怖におののきその目を見開いた。

 吸血鬼の少年は閉じ込められていた人間の少女を見つけ、彼女とその友人を安全な場所へと連れていくと、再び人狼退治の任務を遂行するために戻っていった。

 雪狼の少年は雪狼救世館の屋上に立ち、月を仰いで遠吠えをすると狼の群れがこれに呼応し、その声は遠く離れた場所まで聞こえたという。

 古くから、ミラーズホロウではある予言が語り継がれてきた。「この地で生まれし赤子は、悲劇を経て成長し、苦難を経て力をつけたなら、やがて闇夜を払う勇者、夜明けの戦士、予言の王と呼ばれるであろう。――『王』は一人にあらず」

 夜明け前の夜は最も暗い時間であるが、辛抱強い心と希望があれば必ずや夜明けは訪れ、朝陽が再び谷を照らすことだろう。


 白日は終わりを迎え、長い夜が始まる――

 恐ろしい夜がやってきました。市民の皆さん、目を閉じてください。

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