終章:長い夜(5)人間と野獣が交わった末路

「どこに行くんだ?」

 少女が部屋を出ると、ドアのそばにもたれかかっていた男が彼女に尋ねた。

 男は黒いスリーピーススーツに身を包んでいるため、その長身がよりいっそうすらりとして見えた。そこに立っているだけで絵画のようであり、端正な容姿と魅力的な紫色の瞳は、女性を一目ぼれさせるのに十分だった。

「ほっといて」少女は男に白い目を向けると、冷たく言い放った。

 少女もまた黒いスーツに身を包み、クチバシが付いたマスクと猟銃を手にしていた。

 金髪碧眼の少女は整った顔立ちをしており、成長したらさらに美しくなるであろうことは想像にあまりあったが、その表情はとても若い少女とは思えぬほど厳粛であった。

 少女は墓に通じる道をまっすぐに進み、男もまた彼女の後をついていった。

「ついて来ないで」少女は振り返ると、男に向かって眉をひそめた。

「俺がここを歩いても邪魔にはならないだろう、お前の前を歩いているわけじゃないんだから」

 男は微笑んだ。

「だが、お前が単身で人狼に仕返しをしに行くというのなら、俺は止めるしかないな。俺がお前を助け出したのは、再び死にに行かせるためじゃない」

 結局、男の粘り強い説得で、強情な少女は人狼に復讐するための人間爆弾と化すことを諦めた。

 教会で共に育った子供たちは、往々にして家族のように親しくなる。男と少女も同様で、二人はまるで兄妹のように親密であった。

 しかし、若い男女が長い時間一緒に過ごすと、得てして肉親の情以外の感情も生じやすいものである。

 保守的な教会において、愛情は神聖かつ不明瞭なものであり、邪魔をされることなくすべては神の采配を待たなければならない。

 だが、ある眠れぬ夜、少女は聖書の『雅歌(ソロモンの歌)』の一節を書き――「教えてください、わたしの恋い慕う人。あなたはどこで群れを飼い、真昼には、どこで群れを憩わせるのでしょう」こっそりと男のドアの下に置いた。

 翌日、少女は返事を受け取った。一枚の紙片がドアの下に置かれ、そこにはこう書かれていた。「誰にもまして美しいおとめよ。どこかわからないのなら、群れの足跡をたどって羊飼いの小屋に行き、そこであなたの子山羊に草をはませていなさい」

 男は平素から多情であった。このやりとりを、紙片を送り合う無邪気な遊びと思って軽はずみに相手の心をくすぐったのだが、少女はこれを愛情に対する返答だと受け取ってしまった。

 男は、自分の曖昧な言葉が少女の生涯に渡る想いを生み出してしまったことを知らなかった。

 男が神民を退役し、白いウェディングドレスを纏ったその女性と残りの人生を共に過ごすと決めたとき、少女もまた別の白いドレスを纏い、そのときから世俗の愛に心を動かされることはなくなった。

 だがそれからの日々、少女は毎日大きな苦しみの中で過ごし、男への一縷の想いを断ち切ることができなかった。

 ある日、彼女はこれ以上我慢できなくなり、こっそり男を探しに行って最後に一目見ようと決心した。

 人気ひとけのない河岸で、少女は男と彼の妻が手を繋いで散歩している姿を目にした。

 少女は、かつて何度もその女性の容姿を脳裏に描いた。はたして天女のように清楚で美しく上品なのか、あるいは小悪魔のように魅力的なのか?

 いずれにせよ、とてつもなく美しいに違いない。だからこそ男の心を虜にしたのだ。

 だが彼女の目に映ったのは、普通の顔立ちの平凡な女性だった。自分にすら遥かに及ばないにもかかわらず、男はまるで彼女が自分の人生において唯一の王女であるかのような表情で彼女を見つめていた。

 その表情は彼女の心を打ち砕き、ついにはこの恋を永遠に葬り去る決心までさせた。

 少女が去ろうとしたまさにそのとき、信じられない光景を目にした――月明かりの下、その女性が全身真っ白で完璧な野生の狼と化したのだ。

 その瞬間、驚き、怒り、嫉妬、憎しみ、失望、嫌悪……様々な感情が一斉に少女を襲い、その心に深い衝撃を与えた。

 ――彼は人狼と結婚するために退役したのか?彼は神民でありながら、どうして人狼と恋に落ちるなどという教会最大のタブーを犯すことができるのか?少女の頭の中は疑問でいっぱいだった。

 教会に数ある規則の中で最も重要なものこそが『人狼との密通禁止』であった。

 少女の両親は彼女の目の前で人狼によって無残に殺害されたため、彼女は子供の頃から人狼を激しく憎んでいた。教会で育った彼女は、人狼は敵であるという概念を絶えず繰り返し教え込まれた。

 彼女の生まれてこのかたの認識において、神民と人狼は互いを滅ぼすことを誓った永遠の天敵である。そこにいかなる感情的葛藤があってはならず、ましてや夫婦になるなどもってのほかである。

 少女は深く裏切られたと感じ、子供の私情だけではなく、神民としての尊厳からも、男という人間に完全に失望した。

「愛は死のように強く、妬みは黄泉のように残酷である」――同様に『雅歌』からのこの一節が、まさに少女のそのときの心情を表していた。

 愛と憎しみは表裏一体である。バラの種は艶やかな花を咲かせるが、すべてを切り裂く棘を生やすこともできる。

 教会に戻ると少女は長老にこのことを報告し、長老は聖句を引用して彼女に答えた。

「男がもし、獣と寝るならば彼は必ず殺されなければならない。またその獣も殺さなければならない」――聖書には、人間と野獣が結ばれた末路が記されている。神民が人狼と密通したならば、その末路もまた同じである。

 その運命の夜、少女は最後に黒いスーツを着込むと、猟銃を持って男の住まいへとやって来た。

 男は玄関で少女を目にすると、まるで実の妹が訪ねてきたのを見るように喜び、何の欺瞞もなく彼女を家に迎え入れた。

 少女が突然男に向けて銃を撃つと、かよわい妻がすぐさま雪狼と化して夫を守ったものの、無残に銀の弾丸で撃ち殺された。

 雪狼は死ぬ前に人間の姿に戻ると、人間の夫と抱き合いながら息を引き取った。

 すべての埃が収まったあと、少女は家の奥から小さな人影が震えながら出てくるのを目にした――


              *****


 その瞬間、記憶の中の幼い姿と目の前にいる背の高い少年が重なった。

「ようやく話したな」南宮樹は歯を食いしばりながら言った。「俺の両親を殺したあと、どうして俺も殺さなかったんだ?」

「あなたを見て、ようやく気づいたの……私はなんてとんでもないことをしてしまったのか、って」

 アンジェラは呆然と涙をこぼした。

「私は明らかに、罪のない二つの命を殺害してしまった。一つの幸せな家庭を破壊し、一人の子供の両親を奪い、彼を私と同じ孤児にさせてしまった――私があなたにしたことは、人狼が私にしたことと何の違いがあるというのかしらね?」

 アンジェラは、涙に濡れた悲しげな表情で南宮樹を見つめた。

「ようやく正気に戻ったあと、私はただただ死にたかった。けどあなたを見たとき……あなたはお父さんに本当にそっくりで、私は自殺する勇気を失ってしまったの。最初はただあなたのお父さんを一目見たいと思っていただけなのに、それがはからずも……その一目が十年になってしまったわ」

 南宮樹はハエを飲み込んだような表情を見せた。

「あんたが俺を育てたのは、父さんの代替品として俺の顔を見るためだったのか?よくもそんな恥知らずなことが言えるな。良心の呵責から俺を育てたと思っていたが、あんたのその理由には本当に吐き気がする」

「違う!あなたを誰かの身代わりだなんて考えたこともないわ!」アンジェラは慌てて弁解した。「何年にも渡って、ずっとあなたを息子と思って接してきた。あなたに対していかなる不埒な考えも持ったことはないわ!」

「どうしてこんな風にシスターアンジェラを侮辱できるんだ?」井千陽が憤慨しながら南宮樹を激しく責めた。「ほかのことはさておき、長い間アンジェラは母親のように僕たちを愛してくれた。息子に対して不適切なことなんて、一つもしなかった!」

「たとえ本当にそうだとしても、あいつが俺たちを育てた動機は決して単純なものじゃない」

 南宮樹の表情は依然として冷酷無比なままであった。

「俺は魔女と雪狼の混血児で、お前は吸血鬼だ。教会はどうして俺たちを手元に置いておきたがる?俺たちを交渉の材料として利用したいからだ。ひいては俺を神民に育て上げ、自らの手で母さんの一族を殺させたんだ!」

 井千陽は呆然とし、それからアンジェラに尋ねた。「それは……本当なのか?そのために……僕たちを育てたのか?」

「私は本当にあなたたちを愛してるわ。あなたたちを本当の息子だと思ってる……でも長老が阿樹を教会に留めたのは、確かに政治的な要因によるわ」

 アンジェラの顔は涙にまみれていた。

「最初に阿樹を教会に連れ帰ったとき、本当は正体を隠しておきたかったの。でも……隠し切れなかった。これは、今でも後悔していることの一つよ。千陽に関しては、本当に境遇を知らなかったの。信じてほしい……」

「この女は救いようのないペテン師だ。ほかの神民たちも同じ穴のムジナだ」南宮樹はきっぱりと言い放った。「幸い教会の基地はすでに破壊され、神民は完全に敗北した。ミラーズホロウが人狼トゥーラーンになるのももうすぐだ」

 井千陽は驚愕した。「どうしてそんな考え方ができるんだ?全部顧逸庭が君に言ったことだろう?」

「先生は確かにすべてのことを話してくれた。俺はずっと真相を知らされていなかった。先生の教えのおかげで、ようやく自分がいったい誰なのかわかったんだ」

 南宮樹は語った。

「先生は言った。純血の人狼は子供の頃から人狼の特徴が現れるのに対し、混血児は思春期に入ってから人狼へと変身し、それまでは人間とまったく変わらないらしい。

 混血児が最初に変身する時期は人によって異なるが、まちがいなく十七歳になる前に発生するそうだ。そして半年以上前の満月の夜に……」

「人狼になって、人肉を食べた」井千陽が冷ややかに続けた。

「俺が食べたのは全部ブラックマーケットで買ってきた死肉で、生きた人間を食べたことはない」南宮樹の表情がかすかに歪んだ。「お前も俺の血を吸ったことがあるじゃないか?俺はお前を責めるつもりはない。人間じゃない生物になった俺たちが生きていくためには、こういうことは当然のことなんだ」

 井千陽はこれらの言葉が相手の口から出てきたことが信じられず、呆然と彼を見つめた。

「君は……やはり変わったんだな」

「とにかく、俺が人狼になって以降、先生は長い時間をかけて俺に訓練を施してくれた」南宮樹は言った。「先生は、人狼としての生き方、人狼としての考え方、人狼としての戦い方、人狼として大切なものすべてを守る方法、を教えてくれた」

「顧逸庭は犯罪者だ!」井千陽は怒りを露わにして言った。「ヤツは僕の両親と養親を殺したうえに、あんなカルトを創り出した。そんな奴の言うことを信じるのか?」

「先生は、実のところお前の両親を殺したことに対してすごく後悔していると言っていた。そのとき脅迫を受けていたとも。お前の養親に関しては、殺した理由が別にあったらしい……それについて今は触れないが」

 南宮樹は顧逸庭を擁護した。

「結局のところ、すべては教会のせいなんだよ。奴らは人狼と吸血鬼の生存空間を圧迫し、俺たちが互いに殺し合うよう仕向けた。教会という癌を完全に排除するだけで、ミラーズホロウは真のエデンの園になるんだ。そう……お前が言っていたように」

 井千陽は思わず呆然とした。

「千陽、前に言ったよな、いつかミラーズホロウをエデンの園にしたいって」南宮樹は井千陽の方へ一歩踏み出すと、彼の目を見つめながら「俺はその望みを実現したい。そして……それからはお前と共に楽園で過ごすんだ」と言った。

 南宮樹のまなざしは次第にぼんやりと穏やかになり、まるですでにその夢のような未来を目にしたかのようだった。

「そこでは、人狼、吸血鬼、人間、混血児……すべての種族が分け隔てなく平和に共存できて、しかも自由に愛し合えるんだ。

 誰一人としてほかの人を愛して責められることもないから、俺の両親のような悲劇が二度と起こることはない。愛が雨水のように大地を潤し、草花や木々が谷全体を埋め尽くすんだ」

 雨のカーテン越しに井千陽は彼をじっと見つめ、しばらくの間言葉を発することができなかった。

「先生は、エデンの園は空から降ってくるものではなく、自分たちの努力で勝ち取るものだ、と言っていた」南宮樹木は言った。「楽園を降臨させるためなら、俺は……どんな代償も惜しまない」

「代償?」井千陽はたちどころにゾッとした。「顧逸庭と人狼たちが今何をしているか知っているのか?今のミラーズシティを見てもまだ、エデンの園なんて言葉を口にできるのか?」

「これは夜明け前の暗さに過ぎない」南宮樹は淡々と説明した。「日が昇れば、ミラーズホロウは新たな一ページを迎える」

「顧逸庭の言葉巧みなたわごとに騙されているのは君だけだ」井千陽は歯ぎしりしながら尋ねた。「あいつは人狼の殺し屋で、陰湿で狡猾だ。そんな奴の言うことが信じられるのか?」

「殺し屋?それは誰が言ったんだ?」南宮樹は問いただした。

「先輩がすべてを話してくれた」

「先輩?お前が言ってるのは、さっきお前を助けに来たが俺に追い払われた吸血鬼のことか?」南宮樹は侮蔑的な嘲笑を浮かべた。「呉皓軒みたいな男の言葉に、何の信用があるというんだ?」

「先輩は僕の従兄で、僕の命も救ってくれた」井千陽は反論した。「顧逸庭はカルトを使って君を洗脳したんだ!」

「何が洗脳であろうとなかろうと、神民も奴らの価値観を俺たちに強制的に植え付けてきたじゃないか?俺からすれば教会こそ真の洗脳カルトだ!」

 二人は次第に言い争い始めた。それぞれが自分の言い分を主張し、互いに一歩も譲らなかった。

「君は本当に言ってもわからない奴だな」井千陽は怒りでわなわなと震えた。「このバカ樹、いや……シュークラト」

 その名前を耳にして、南宮樹は全身が震えた。

「どうしてその名で俺を呼んだ?」南宮樹は大いに反応した。「俺たちが違う種族であることを強調しているのか?俺との間に明確な一線を引きたいのか?いったいどういう意味だ?今すぐハッキリ説明しろ!」

 このとき南宮樹は種族に関する話にきわめて敏感であったため、ほんの些細な不適切な言葉であっても彼の感情を刺激した。

 井千陽は、ただ怒りにまかせて彼をシュークラトと呼んだに過ぎなかった。決して種族を問題にしたいわけではなかったが、相手が大いに非を咎める姿勢なので、釈明はしないことにした。

「そうだ、僕たちは元々違う種族だ」井千陽は強情に言った。「これは事実だ」

 それを聞いて、南宮樹は激しい打撃を受けたかのように深く傷ついた表情を見せた。

「俺は最初お前が……と思っていた。お前だけが……俺がずっと……ずっと……」

 南宮樹はボソボソつぶやくと、目の縁が徐々に赤くなり、ゆっくりと拳を握りしめた。

「お前がそう思うのなら、すべてをハッキリさせよう……イリアス」

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