終章:長い夜(4)私が殺したの

 目的地に着くと、井千陽はアンジェラをそっと地面に下ろした。

 ここはミラーズシティ最大の貨物ターミナルで、市内で最も長い河川――ミラー川に隣接している。

 周りを見渡すと、至る所に色とりどりの巨大なコンテナがあり、さらには貨物船、クレーンなどがあった。

 悪天候のため埠頭は現在操業を停止しており、労働者は皆すでに帰宅していた。

 人狼はミラーズシティのあちこちで残虐の限りを尽くしていたが、その魔の手は人家のまばらな埠頭にまでは及んでいたわけではなかった。それゆえ、井千陽とアンジェラはここでわずかに一息つくことができた。

 できることなら、井千陽はアンジェラをもっと安全な場所へ連れていきたかったが、負傷した状況で辿り着くにはここが精一杯であった。

「シスターアンジェラ、大丈夫?」井千陽は心配して尋ねた。

「大丈夫よ……ありがとう、千陽」

 アンジェラはずっと沈黙を貫いており、このときようやく口を開いた。

 彼女の声は従来優しく柔らかかったにもかかわらず、このときは声帯に傷を負ったかのようにかすれて奇妙な声になってしまっていた。

 井千陽はポケットから血まみれになった天使のネックレスを取り出した。

「基地が陥落した夜、さっきのあの雪狼に会ったんだ。これをヤツが残していったから……てっきり殺されたとばかり思ってた」

「あのときは危険な状況で、私も死ぬかと思ったわ……」

 アンジェラは襟を少し下げて、首筋を露出させた。その肌には、野獣に咬まれたような輪状のひどい傷痕が残っていた。

 その傷痕は彼女の喉を覆っており、声帯も傷つけられたのだろう。このような致命傷を受けてなお生きているのは、奇跡と言える。

 井千陽の顔色がサッと曇った。「これはあの雪狼がやったの?」

 アンジェラはゆっくりうなずいた。

「あの夜……いったい何があったんだ?」

 アンジェラはしばらく黙ってから、その晩のいきさつを滔々と話し始めた。

「あの夜人狼が教会に侵入してきたとき、私は長老のオフィスに報告に行っていたの。あの雪狼が押し入ってきて、彼は……涙を流しながら私にあれこれと問い正し、長老と激しく言い争い始めたわ。最後には私を殺そうとして……危うくそうなるところだった。

 長老が決定的な瞬間に命がけで私を救ってくれたの。私をオフィスの秘密の通路から逃がして、私に後任の長老になるよう遺言を残したわ。

 私の怪我はかなり深刻だったから、地下の病院で目覚めるまで数か月意識を失ってた。私が再び基地に戻ったときには、皆犠牲になっていたわ。

 私はかつて長老が話していた、教会が育成していた予備軍のことを思い出して、彼らに連絡をとったの。それこそが、あなたがさっき見たガスマスクを付けた者たちよ」

 すべてのいきさつを理解すると、井千陽は再び尋ねた。「あの雪狼は、いったい誰なんだ?どうして顧逸庭はヤツを救世主として崇めるんだ?」

 以前も井千陽はアンジェラに雪狼のことを尋ねたことがあり、アンジェラはずっと答えようとはしなかったが、こうなると彼女はもう言い逃れを続けるわけにはいかなかった。

 アンジェラは深く息を吸い込むと、それから苦渋に満ちた声で説明した。

「人狼の共同体の中には、謎めいた雪狼一族というのがいるの。名前からあなたもわかると思うけど、彼らの最大の特徴は全身の毛皮がまるで白化症を患っているかのように雪みたく真っ白なことね。

 初代の雪狼はすべての人狼の頭目を打ち負かして、全人狼を統治する初代のカガンになったわ。ここから雪狼一族が人狼たちに王族として崇められていったの。

 近代になると雪狼は絶滅の危機に瀕して、わずかに一つの血統のみが残ったわ。十七年前の今夜、雪狼一族最後の王女が一人の男の赤子を産んだの。それが、あなたがさっき見たあの雪狼よ」

 井千陽は彼女の話を咀嚼していた。「十七年前の今夜、それってまさか……」

「あなたと阿樹の誕生日はともにハロウィンね。十七年前の今夜は、あなたたち二人がこの世に生を受けた日よ」アンジェラは小さい声で言った。

 彼女の言葉を聞いた井千陽の目は驚きに満ち、全身がかすかに震え始めた。

 アンジェラの表情が突然凍りつき、その視線は井千陽の肩口を越え、遠方に釘付けになった。

 井千陽が彼女の視線を追って振り返ると、そこにはまさしくあの、彼と同じ年同じ月同じ日に生まれた、兄弟のように親しい少年の姿があった。

 南宮樹はコンテナの間の通路に沿って、一歩一歩彼らの方へと向かってきた。その顔には少しの感情も浮かんではおらず、マスクを付けているようであった。

 彼は裸足で、その身には雪狼救世福音教のシンボル的な白衣を羽織っているだけであった。

「この半年近く、どこへ行ってたんだ?」

 井千陽は即座に南宮樹に尋ねた。そして彼の口から自分の想像とは異なる答えが出てくることを祈った。

「まだそいつに話してないのか?」

 南宮樹は井千陽の疑問には答えず、アンジェラに聞き返した。その声とまなざしは、異様なほどに冷酷だった。

 以前の南宮樹はいつも愉快で明るく、親しみやすい雰囲気を漂わせていた。今や彼の美しい顔は、まるで人を寄せつけない高い壁を築いたかのように、重厚な陰影に覆われていた。


 井千陽は南宮樹と子供の頃に知り合って以来、自分は南宮樹のことをなんでも知っていると思っていたが、こんな赤の他人のような一面は見たことがなかった。

「気でも狂ったのか?」井千陽は問いただした。「君の本当の正体が何であれ、どうしてあんなことができるんだ?人狼たちを連れて教会に侵入して、さらにはシスターアンジェラを襲ったのか?」

 その詰問に南宮樹の顔色はかすかに強張り、

「ただ教会の警備システムを破壊して、人狼が自由に入れるようにしただけだ。彼らが入ったあとやったことに関しては、俺の制御下にない。事実、神民があっさりと投降し無駄な抵抗をしなければ、犠牲は避けられた」と言った。

「そんなに神民が憎いのか?」井千陽は拳を握らずにはいられなかった。「君だってまぎれもなく教会の人間だろう!」

「俺は神民を憎んじゃいない。過去の俺みたいに教義に鼻面を引きずられて哀れだと思うだけさ」南宮樹はそう説明すると、怒りに満ちた瞳でアンジェラをじっくりと見た。「だが、その女が憎くて襲ったことは否定しない」

 言い終わるやいなや、井千陽は南宮樹の左頬を殴った。彼の顔は歪み、口の端も切れた。

「君はやっぱり狂ったな!」井千陽は歯ぎしりをしながら言った。「教会は僕らの家であって、シスターアンジェラは僕らの母親だぞ!」

「違う!」南宮樹は即座に反論し、アンジェラに言った。「言えよ!千陽に言えよ、あんたが俺の両親に何をしたか、俺にも何をしたかを!」

 アンジェラは南宮樹に脅されて身をすくめた。井千陽は見かねて彼女に近づくと同時に、南宮樹を警戒しさらなる行動に用心した。

「言わないんだろ?なら俺から言ってやるよ」

 南宮樹は振り向いて井千陽を見た。

「この女は俺の両親を殺したのに、殺したのが人狼だと俺を欺いた。そいつは俺の父親を実の兄だと思っていると言っておきながら、その男と妻を殺し、その息子を欺いたんだ。

 この十年間、俺はずっとこの女を母親だと思ってきた。心から敬い愛してきたのに、まさか俺から両親を奪ったのがそいつだとは思わなかった」

「何だって?」井千陽は自分の耳が信じられなかった。

「この十年間、あんたはどんな気持ちで俺を育ててきたんだ?」南宮樹はアンジェラを問い詰めた。「あんたはどうして俺を何度も騙し、次から次へとずうずうしい嘘を吐くことができたんだ?どうして恥知らずに俺の顔を見ながら、俺の父親の話ができたんだ?」

 井千陽は驚愕してやまず、どもりながらアンジェラに尋ねた。「それって……本当のことじゃないよね?何か……誤解があるんだろ?」

「俺も最初は誤解だと思っていた。結局のところ……俺は本当にこの女を母親だと思っていた」

 南宮樹の目は真っ赤だった。その口調は、まるで魂を引き裂かれたかのような苦痛に満ちていた。

「だから俺は両親の棺を開け、専門家に検死を依頼した。すでに十年近く経っていたが、その墓地の特殊な環境によって遺体が腐敗しにくかったこともあって、鑑定をするのに問題はなかった。

 検死の結果、彼らの体には咬みつきによる骨折などの人狼による傷はなく、あるのは……ただハンターによって付けられた銃創と、体内に残った銀の銃弾だけだった」

 井千陽は息を呑まずにはいられなかった。彼と南宮樹がアンジェラを見ると、俯きながら沈黙する彼女の姿があった。しばらくの間、辺りはザーザーという単調な雨の音だけが響いた。

 ついに、アンジェラはゆっくり顔を上げると、まるで死刑囚が遺言を残すかのように小さな声で言った。

「そうよ、阿樹の両親は……私が殺したの」

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