第七夜:屠神(2)雪狼救世主様は慈悲深い方だから

 井千陽が呉皓軒の家を去る際、この先輩兼従兄から何か月か飲むには十分な量の「ジュース」を詰め込まれた。多少の懸念はあったが、彼にとって必要であるのは間違いないため、受け取ることにした。

 自分が血族の王子であることに関して、井千陽は依然として信じられずにいた。だがこのとき彼には、自分の身の上の探求よりももっと切実に解決しなければならないことがあった。

 目覚めてからずっと、井千陽は顧逸庭に連れて行かれた南宮樹のことが気掛かりであった。あいにく彼と南宮樹のスマートフォンは雪狼救世館に入った際に没収されてしまったため、連絡をとることができない。

 だが彼にはわかっていた。南宮樹が無事であれば、彼は間違いなく教会――彼らの家へ戻ってくるだろうと。

「よかった、ようやく戻ってきたのね、千陽!」

 井千陽が教会の拠点に戻ると、アンジェラはすぐさま彼を強く抱きしめ、言葉を詰まらせた。

「あなたと阿樹が二日も戻って来ない上にまったく連絡はつかないし、探しに行かせても見つからなかったから、何かあったんじゃないかと本当に心配したわ」

「心配かけてごめん」井千陽は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。「バカ樹は戻って来た?」

「え?阿樹はあなたと一緒じゃないの?彼はまだ戻ってきてないわ」アンジェラの口調が緊張の色を帯びた。「いったい何があったの?」

 井千陽はこの二日間に起こったことをアンジェラにすべて話した。

「それで阿樹はあの……雪狼救世福音教に連れていかれたのね?」アンジェラの顔色が一変した。

「うん」井千陽はうなずき、その両手はきつく握りしめられていた。「何があっても、あいつを助け出すよ」

「ダメよ。あの宗教は危険過ぎるわ。あなたは二度と彼らに接触してはダメ」アンジェラはすぐさま千陽を制止した。「くれぐれも言うことを聞いてちょうだい。いいわね?」

「あの宗教のこと、知ってるの?」

 相手の態度の尋常ではない焦り具合を見て、井千陽は好奇心を感じずにはいられなかった。

「あの宗教は最近興ったばかりの宗派で、現時点で私がつかんでいる情報はまだそれほど多くはないわ。教会でも綿密に調査しているところよ」アンジェラは答えた。「だけど……雪狼のことに関しては、以前深く研究したことがあるから、よく知っているわ」

「じゃあいったい――」

「いつか話すわ」アンジェラは小さな声で彼の言葉を遮った。「今は……まだその時じゃないの」


             *****


「今日は顧逸庭先生が病気のためお休みですので、私が代わりに授業を行います」

 一般教養授業の代講教師がそう言い終えると、安平高校一年C組の教室にはひそひそとささやく声が響き渡った。

「顧ちゃんまた休み?もう何か月も学校に来てないじゃん。夏休みになっちゃうよ」

「そういえば南宮樹も長いこと病気で休んでるね」

「あいつと顧ちゃんって同時に休み始めたよな?」

「南宮樹と顧ちゃん、本当に病気だと思う?」小恵が小さい声で林若草に尋ねた。

「たぶんそうなんじゃない?」林若草は言葉を濁した。

 彼女はこっそりと後ろに目をやった。井千陽は最近ちゃんと学校に来てはいるが、顔色が以前と比べて暗いため、彼女は少し心配だった。

 終業時間になると、井千陽はカバンを片付けている林若草のところへ向かって行った。

「君に用がある」

 それを聞いて、林若草のそばにいた小恵がクスクスと笑い出した。

 彼女は林若草を叩き口パクで「ファイト」と言うと、剣道部の練習に参加するために上機嫌で教室を出て行った。林若草は泣いていいのか笑っていいのかわからなかった。

 井千陽と林若草は放課後連れ立って、前回のようなファーストフード店ではなく、人のいない雑草が生い茂る空き地に行った。

「お姉さんは最近どう?」井千陽は林若草に尋ねた。

 林若萱のことを考えると、林若草の顔が暗い影に覆われた。

「あの日から、姉さんは家に帰って来ていないの」

 林若草は小さな声で答えた。



「姉さんに電話をしたら、雪狼救世福音教の宿舎に住み込んだらしくて、雪狼の軍隊の一員になって雪狼に命を捧げる、って言ってた。とにかく家に帰るつもりがないのよ。何回も会いに行ったけど、会ってくれなかった……」

「一人で行くべきじゃない。危険過ぎる」井千陽は眉をひそめた。

「そういえば、南宮樹最近全然学校に来てないね。彼……大丈夫なの?」林若草は心配でたまらなそうに尋ねた。

 井千陽は少し沈黙すると「あいつ……顧逸庭に連れていかれたんだ。僕もあいつの行方はわからない」と言った。

 七歳の頃から、井千陽と南宮樹はいつも一緒だった。二人は時に口喧嘩をし、殴り合いのケンカさえしたが、一日以上離れ離れになったことはなかった。

 あの日以来、南宮樹の消息はまったくつかめず、生死もわからなかった。実際、井千陽は心配のあまり憔悴してしまったほどだ。

 そして井千陽はカバンから小型で精巧な折り畳み式の猟銃を取り出して、言った。「君に会ったのは、これを渡したかったからだ」

「え?私に渡すってつまり……」

「この前力が欲しいって言ったじゃないか?」

 それを聞いて、林若草はわずかに身がすくんだ。

「とはいってもこの銃は教会の備品だから、しばらくの間貸すだけだ。あとで返してもらう」

 林若草は井千陽の手から猟銃を受け取った。

 彼女は生まれて初めて本物の武器に触れた。この銃がかつて人狼退治や市民救助に使われたことを思い、彼女は畏敬の念のような感情を抱いた。

 ――この銃があれば、もしかしたら私にも……彼女は自分の鼓動がどんどんと速くなっていくのを感じた。

 そして井千陽が猟銃の使い方を彼女に教え始めた。

「この銃は僕が特別に改造したから、使いやすいはずだ。ほら、こう銃を持って、両腕をまっすぐ伸ばして……」

 井千陽は少し腰をかがめ、林若草を支えながら彼女の姿勢を調整した。二人はほとんどぴったりと密着している状態だった。

 井千陽は再び彼女から漂う甘く魅惑的な香りを嗅いだが、今はまだ暗くなっていなかったので、吸血鬼の本能のせいではないことがわかった。

 井千陽は集中することができず、しばらく動きを止めた。林若草が不思議に思って振り向いた瞬間、二人の唇が触れそうになった。

 二人とも驚いて、大急ぎで離れた。

 実際に唇が触れ合ったわけではなかったが、それだけで彼らの顔は真っ赤になった。鼓動は太鼓のように高鳴り、焼けるように熱い感覚が顔から全身に広がっていった。

 井千陽は心を落ち着かせて林若草に各種銃器の知識を教え続けたが、二人は依然としてパニック状態であった。教える側は集中しておらず、教わる側も気もそぞろであったため、今回のレクチャーの成果はたかが知れたものであろう。

 夕日がまもなく訪れようとしている空き地では、少年と少女の影が長く伸び、その空気はモヤモヤとした雰囲気に満ちていた。

 どこからか紛れ込んできた小さな黒猫が、小さな声でニャオ―ンと鳴いた。


             *****


 林若草が家に帰ると、さっきまで井千陽と一緒にいたときの甘い感覚はあっという間に跡形もなく消え去った。

 玄関の郵便受けいっぱいに詰まった督促の郵便物を見て、彼女は深いため息をついた。

 すべては彼女の姉が以前高利貸しから金を借りて、その全額を雪狼救世福音教に寄付したためであった。

 督促状のほかに、林若草は以前金融会社からの脅迫電話を受けたこともある。このときから、平穏な日常生活は恐怖の影に覆われていった。

 林若草が『ガチャッ』という音とともに玄関のドアを開けると、家の中に誰かがいることに気付き思わず震えあがった。

 暗いリビングルームで二十代の女性がスーツケースを横に置き、荷物を整理していた。

 その女性の体はやせ細り、顔はやつれ果て、頬と眼窩はくぼんでおり、まるで全身がミイラのようであった。

 よく見なければ、林若草はそれが自分の姉だと気付かないどころか、家に不法侵入したどこかの精神病患者だと思うところだった。

「お……かえり」

「荷物を取りに来ただけよ」林若萱はかすれた声で言った。「それと、大家さんとの賃貸契約を解除したから、あんたがここに住めるのはあと三か月だけよ」

 林若草は呆然とした。「姉さんはここに住まないの?」

「私がここに住んで何をするのよ?」林若萱は蔑んで言った。「私はもう雪狼救世主についていくと決心したから、教会の宿舎に住むのよ」

「お願いだから元に戻って目を覚ましてよ!」林若草は叫んだ。「あのカルトは姉さんのお金を搾り取ってこんな風に苦しめて、挙句に私たち姉妹の仲まで切り裂いた。遅かれ早かれ、姉さんあいつらに殺されちゃうよ!」

「カルト、カルトってうるさいのよ!」

 林若萱は憤慨して怒鳴りつけた。

「雪狼救世主様と人狼トゥーラ―ンを降臨させることさえできるなら、お金が何だって言うのよ?それに、あんたは前に入信するって私に嘘をついて、実際には人を連れてきてトラブルを引き起こしたわ。これがあんたが雪狼様の敵である証明よ。私にはこんな、あんたみたいな妹はいないわ!」

 林若萱は荷物をまとめ終わるとスーツケースを引いて玄関に向かおうとしたものの、林若草が後ろから強く抱きついた。

「父さんと母さんが離婚してから、この世界で私に優しくしてくれるのは姉さんだけなんだよ」林若草の言葉は涙声を帯びた。「姉さんは私が誰よりも愛している人なの。姉さんが道を外れていく姿なんて見たくないよ。いったいどうしたら、あのまともな姉さんに戻ってくれるの?」

 林若萱は長い間沈黙した。そしてため息をつくと、ゆっくり振り返った。

「若草、あなたはいい妹だけど、私はいい姉じゃないの。ずっと姉としていいお手本のつもりでいたけど、私が間違ってたわ」

 林若萱は手を伸ばして妹の髪を撫でた。

「けど、今からでも遅くはないわ。私と一緒に雪狼救世福音教に戻るのよ。雪狼救世主様は慈悲深い方だから、きっとあなたを正しい道に戻してくれるわ」

 林若草は元の姉が戻ってきたと思ったが、錯覚に過ぎなかった。

「さあ、今すぐ行くのよ!」林若萱は彼女の手をしっかりとつかんだ。「これからはもう学校に行く必要はないわ。教会にはあなたと同じ年頃の子たちがいて、その子たちも学校になんか行ってないのよ。牧師様の教えを聞いていれば十分なの」

「違う、姉さんは周りが見えなくなってるよ!」

 林若草は林若萱の手を振りほどこうとしたものの、彼女にしっかりと抑えつけられていた。

「言うことを聞きなさい。姉さんがあなたを助けてあげるから!」

「もうやめて!」

「若草!」

 二人が言い争っている間、林若草は力まかせに林若萱の手を振りほどいたものの力の加減が効かず、林若萱は彼女に押し倒されて額を戸棚に打ちつけた。

「ごめんなさい!」

 林若草はすぐさま謝った。林若萱を引っ張り起こそうとしたが、目に映ったのは彼女が額を押さえ怯えた表情で後ずさりする姿だった。

「わ……私に触るな!」林若萱は叫び声をあげた。「あんたは雪狼様の信者である私を攻撃した。あ……あんたはやっぱり雪狼様の敵だ!」

「違う、誤解よ……」

 林若萱は立ち上がると慌ただしくスーツケースを引き寄せ、急ぎ足で玄関へ向かった。まるで林若草が危険な殺人犯であり、一歩でも遅れたら彼女に殺されてしまうかのように。

「姉さん!」林若草は泣きながら懇願した。「行かないで……お願いだから……」

 林若萱は結局家を去り、一度も妹を振り返ることはなかった。

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