第七夜:屠神(1)「先輩」という声を期待してたんだけどな
雪狼救世館のゲストルームで、井千陽はいまなお地面に倒れ昏睡状態であった。彼の見張り担当である人狼たちも人間の姿に戻り、悠長に雑談を交わしていた。
「お前ら、吸血鬼の肉ってうまいと思うか?」
「コウモリはうまいかよ?考えただけで吐き気がするぜ」
「羽は別として、吸血鬼の肉って食べてみたら人肉と変わらないんじゃないか?」
「なんにせよ、俺はこの吸血コウモリを味わってみることにしたぜ」茶髪の男が食い意地の張った表情で地面に倒れている井千陽を見ながら言った。「俺はコイツの脛を食う。それならば死ぬことはないだろうしな」
「じゃあ俺も」別の黒髪の男が口を挟んだ。「俺は腕を食う」
「おい、お前ら勝手に分けてんじゃねえよ!」「俺も食いてえ。腿は俺にくれ!」
人狼たちが延々と言い争いをしていると、ゲストルームの入口に突然人影が現れた。それは青い髪をした少年だった。
「おい、ここに勝手に入るな。とっとと失せろ!」
一匹の人狼が彼を追い払おうと前に出た。明らかに、伝道集会に参加している信者だと思い込んでいる。
「探し物があってここに来たんだけど……」青い髪の少年は辺りを見回すと、急に眼を輝かせた。「あ、あそこにいた」
青い髪の少年が地面に倒れている井千陽に向かおうとしたとき、人狼たちが彼の前に立ち塞がった。
「とっとと失せろ!このクソッタレが、お前の耳はお飾りなのか?」「クソガキ、お前の分なんかないから痛い目に遭う前に消えな!」
「まいったなぁ。そうじゃないんだけど……」
青い髪の少年が言い終わるのを待たずして寧遠はすでに狼に変身しており、凶暴さを剝き出しにして彼に飛びかかった。
青い髪の少年も同時に吸血鬼となり、寧遠の攻撃を躱すだけでなく、鋭い刀のような長い爪で容赦なく彼を切り裂いた。激しく噴き出す鮮血が、彼の毛皮を赤く染めた。
ほかの人狼たちも次々に変身し、青い髪の少年に集団で攻撃を仕掛けたものの、素早い動きでそのすべてを躱された。
青い髪の少年は戦いに執着することなく、隙を見て倒れている井千陽を抱き起こすと窓を突き破って脱出した。
青い髪の少年が悪魔のような漆黒の翼を広げて夜空に飛び立つと、人狼たちは追いかけたくとも追いようがなかった。
*****
「ミラーズシティの市民のみなさん、おはようございます……」
テレビから聞こえてくるニュースの報道が、寝ている井千陽を呼び覚ました。
目を開けると、まず視界に天井が映り、続いて自身がベッドに横たわっていることに気が付いた。
井千陽は起き上がると周囲を見回した。ここはかなりの広さの寝室であり、普通の家具のほかには数本のエレキギターが壁に掛けられていた。
「起きた?」
声とともに現れたのは、ほかでもない青い髪の少年であった。
井千陽は少年を見ながらわずかに眉をひそめた。見覚えがあるような気がするものの、どこで見たのか思い出せなかった。
「学校じゃ少しは有名な方だと思うんだけどな。これじゃメンツが丸潰れだ」青い髪の少年は苦笑した。
「あんたは……創立記念日にステージでライブをしてた人だ」井千陽はようやく思い出した。
「『先輩』という声を期待してたんだけどな……まぁいいや。俺は呉皓軒だ」
呉皓軒はやれやれと頭を振ると小型の冷蔵庫から二つの飲み物を取り出し、一つを井千陽に投げ渡し、一つを自分で開けて飲んだ。
「俺の歌は気に入ったかい?」呉皓軒が尋ねた。
「歌詞以外は」
呉皓軒はただ笑っただけで、こう言った。「傷がひどくて、一日以上昏睡してたんだぜ。治療はしておいた……何が起きたかは覚えてるか?」
井千陽は、頭の中で記憶が途切れる前に起きたことをすべて思い返してみた。覚えているのは自分が雪狼救世館で人狼たちに打ち倒されたことと、南宮樹が顧逸庭についてどこかへ行ってしまったことだけだった。
「あのバカ樹……」井千陽は小声でつぶやいた。
「何を考えてるのかは知らないが、よくもまぁあの顧逸庭のテリトリーに仕掛けに行ったもんだよな?俺がタイミングよく助けてなかったら、たぶん今ごろ人狼たちにバラバラにされてたぜ」
呉皓軒は見るからに、やれやれといった感じであった。
「それはさておき、腹減ってるだろ?早くそのジュースを飲めよ」
井千陽は下を向いて手に持ったドリンクを見た。見た目はコンビニで売っているゼリー飲料に少し似ているが、商品ラベルなどはなく、単なる銀色のビニール袋であった。
飲み口をねじ開けると甘く良い香りがにわかに鼻をつき、井千陽は我慢できず唾をごくんと飲み込んだ。
普段なら、井千陽は絶対に他人からもらった飲み物は飲まない。しかしこの瞬間、その甘美な誘惑に逆らうことができず、軽く一口飲んでみた。
その芳醇な液体が喉を滑り落ちた刹那、井千陽はある種生き返ったかのような感覚を覚えた。
井千陽の味覚は大いに満足し、全身の細胞にエネルギーが満ちあふれた。
十秒もかからずに、井千陽はそのドリンクを綺麗に飲み干した。最後の一滴が喉を滑り落ちたあとになってようやく、井千陽は自分が何を飲んだのかに気付いてハッとした。それは間違っても単なるジュースなどではなかった。
「あんたも吸血鬼なんだ」井千陽は呉皓軒を見ながらも、その口ぶりは落ち着いていた。
「それじゃ『あなたもモンスターです』って言ってるのと同じだぜ。人狼に対して『お前はケダモノだ』って言うのと同じくらいデリカシーに欠けるぞ」呉皓軒はやれやれと頭を振った。「俺たちは自分たちのことをモンスターとは呼ばない。『血族』こそが、正しい呼び名なんだ」
「吸……血族は絶滅したと思ってた」
「ほとんどな。俺たちの数は元々人狼と同じくらいだったんだ。だが、今ではヤツらの十分の一程度しか残っていない」呉皓軒はそうこぼした。「ちなみに、俺の『血名』――血族の社会での名前はアファナーシエフ、君はイリアスだ」
「あんたはどうして僕のことを知ってるんだ?」井千陽が問いただした。
「お前は本当に自分の身の上について何も知らないんだな」呉皓軒はしみじみと言った。「でもたぶんそのお陰で、今まで生きてこられたんだろうな?」
覚醒して以来ずっと、井千陽はある種の非現実感を覚えていた。今までの十六年の人生すべてがまるで無意味だったかのように、頭の中には様々な混乱や疑問が渦巻いていた。
彼は事の真相を知りたくてたまらなかった。これ以上隠しごとをされるのはもうたくさんだった。
「早く教えてくれ、すべての事を」井千陽は脅しにも近い口ぶりで呉皓軒に命令した。
「本当に知りたいのか?ならいいだろう」
呉皓軒はかすかに微笑んでから表情を引き締めると、恭しく彼の前で片膝をついてひざまずき、右手を胸の前に置いた。
井千陽は、他人がひざまずくことを受け入れられるほど厚顔無恥ではなかったので、すぐさま立ち上がり脇へと移動した。
「気まずく感じる必要はありません。これは王族に対する血族の伝統的な敬礼なのです」呉皓軒は恭しく言った。「続いて、微臣があなた様の身の上とご両親――血族の親王様と王妃様の一切を含め、すべての事柄をご説明させていただきます」
どんなに無表情だった井千陽でも、さすがにこれには驚きを隠せなかった。
「あなた様の血統は、ワラキア親王ヴラド三世に遡ることができます。彼にはもう一つ『ドラキュラ』という名がありました。彼の子孫はそのほとんどが人間と人狼との戦争によって死にました。唯一残った血脈だけが西方大陸から転々と流れて東方大陸にたどり着き、最終的にミラーズホロウに定住したのです」
呉皓軒は井千陽の家族の歴史を物語った。
「あなた様の父君は血族の親王ではありましたが王室生活には興味がなく、ただただ人間社会で一般市民になりたいと願っていました。しかしながら人狼が彼を放っておくことをよしとせず、さらには彼と王妃様を殺すための追っ手を送りました。それが顧逸庭です。当時、顧逸庭は若かったにもかかわらず、すでに人狼の間では有名な殺し屋でした。
我々は、親王様と王妃様が殺害された晩にあなた様もすでに死んだものと思っていました。数年前に調査を再開したことで、あなた様が無事に生き延びていらして、しかも教会に引き取られたことが判明しました。そこで微臣があなた様に仕えるために遣わされ、意図的に同じ学校に入学したのです」
聞き終えると、井千陽はただただ呆然とした。どうも相手が話していることが他人の物語のような気がして、まさかそのすべてが自分の身に起こったことだとはとても思えなかった。
呉皓軒が相変わらずひざまずいているのを見て、井千陽は訥々と言った。「あんたは先輩なんだから、そんなに畏まることないよ」
「わかった」呉皓軒は口もとをわずかにつり上げ、床から立ち上がった。「そういえば俺たち二人の母親は実の姉妹だから、俺たちは従兄弟の関係にあたる。だから俺のことは先輩と呼んでも兄さんと呼んでも構わないぜ」
井千陽はつぶさに呉皓軒の顔立ちを観察してみたが、確かに微かながら自分の面影が見て取れる。相手の言うことに間違いはないのだろう。
「もう一件、重要なことがある」
呉皓軒は厳かに言った。
「最近、俺たちは人狼が大規模な行動を起こすとの情報を得た。ヤツらが今後起こそうとしている行動に比べれば、以前狼王が引き起こした騒動なんて、大したことじゃなかったと言ってもいい。お前の安全のためにも、まずは山の上にある血族の城に戻ってしばらく避難してほしいんだけどな」
井千陽は首を振った。「僕は血族ではあるけど、ここ数年来、すでにもう神民としての生活が身に染みついている。だからあんたたちには邪魔をしないでもらいたいんだ」
「教会に戻るのか?」呉皓軒が尋ねた。
「ダメなのか?」井千陽が問い返した。
「お前の決定を尊重するよ」呉皓軒はうっすらと笑った。「ひとつ言っておきたいだけだが、何があっても自分の血統は忘れるなよ。その血統こそが、この世界においてお前が真に帰るべき場所なんだからな」
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