第六夜:雪狼(6)この世で最後の雪狼
「林若草、あなたは先に家に帰ってください。女の子が夜道を一人で行くのはとても危険ですから、誰かに送らせましょう」
顧逸庭が言い終わるやいなや、背が高く屈強な女性スタッフ二人が林若草へと近づき、有無を言わさず連れて行こうとした。
井千陽は顔を曇らせ、前に踏み出し阻もうとしたが、顧逸庭に遮られた。
「安心してください。本当に、彼女を先に帰宅させるだけですから」
顧逸庭はやや力を入れて井千陽の肩を押さえていた。その口ぶりは穏やかではあったものの、わずかな反論の余地すら与えなかった。
「あなたたち二人の男子生徒は、私と一緒に来てください」
選択の余地がない中、井千陽と南宮樹はスタジアムにある広々としたゲストルームへと、顧逸庭のあとをついて行くしかなかった。
「牧師のアルバイトをする余裕があるなんて、先生はずいぶんお暇みたいですね」井千陽が冷ややかにそうこぼした。
「実のところまったくの反対ですよ。私の正職は牧師で、教師こそがアルバイトなんです」顧逸庭はソファーに腰をかけた。「あなたたちも立っていないで、座って話そうじゃないですか」
「先生、話があるならハッキリ言ってくださいよ」南宮樹も、顧逸庭にいい顔はしなかった。
「仕方がないですねえ。昨今、ファスト文化が氾濫しているせいで子供たちはみなせっかちになってしまいました。では、本題に入りましょう」顧逸庭はかすかに微笑んだ。「あなたたち、入信しませんか?」
「なんだって?」南宮樹は思わず疑問を口に出し、井千陽は眉をひそめた。
「私の目標は、『雪狼救世福音教』をミラーズシティで最大の宗教へと発展させることです。当然、信者は多ければ多いほどいいですね」顧逸庭は落ち着き払った様子で言った。「あなたたちももう伝道集会に参加したんですから、いっそのこと入信したらどうですか」
「こんな宗教を作って、いったい何が目的なんですか?」南宮樹が問いただした。
「先ほどの伝道集会ですでにたくさん聞きましたよね?繰り返す必要はないと思いますが?」顧逸庭は南宮樹に言った。「すべては雪狼様のためです」
「雪狼って誰ですか?」南宮樹は再び尋ねた。
「加入すればおのずとわかりますよ」顧逸庭は含みを持たせて言った。「どうです?入信しますか?」
「僕らはあなたの宗教には入りません。すでに信仰しているものがありますから」井千陽はきっぱりと言った。
顧逸庭は口もとをわずかにつり上げた。「それもそうですね。あなたたちはそもそも教会の神民ですから、ほかの宗教に興味がないのも無理はありません」
井千陽と南宮樹はそれを聞いてゾッとした。相手はとっくに自分たちの正体を知っていたのだ。すでに芽生えていた敵意が一瞬にして増大し、二人は戦う態勢を整えた。
「実を言うと、こういうのは本当に好きじゃないんですけどね」顧逸庭はわずかにため息をついた。眼鏡を外してサイドテーブルの上に置くと、ソファーから立ち上がった。「でも、どうやら私にも選択の余地はないようですね」
次の瞬間、顧逸庭の顔の輪郭が次第に野獣のそれとなり、全身の骨格も変化し始めた。伸びて変形するだけでなく、隆起した筋肉とあふれんばかりの毛髪が生成され、その全体はイヌ科の動物の様相を呈した。
このとき井千陽と南宮樹の眼前に現れたのは、すでにもう彼らの担任ではなく、グレーがかった亜麻色の毛皮を持ち、左目は茶色、右目は赤色の巨大な狼であった。
顧逸庭のこの姿を見るや、井千陽はカッと目を見開いた。
「あの夜の人狼は、お前だったのか……」井千陽は歯ぎしりをしながらそう言うと、両の拳をきつく握りしめた。「お前が僕の両親を殺した人狼だ!」
井千陽はこれまで養父母を殺害した人狼を忘れたことはなく、その容貌をずっと脳裏に深く刻み込みんでいた。その人狼の最大の特徴こそまさに、人狼の中でも極めて珍しい、茶と赤のオッドアイであった。
「久しぶりですね――この姿では、ですが」顧逸庭は皮肉めいた言葉で言うと、その目が微かに光った。「十年ぶりじゃないですか?」
「何故両親を殺した?」井千陽は心底恨みのこもった目つきで彼を見た。「お前が二人を食べなかった。明らかに空腹のせいじゃない」
「あなたに答える必要はないでしょう」顧逸庭は冷笑した。「ちなみに、あなたの実のご両親も私が殺しました。吸血鬼は人狼の宿敵だなんて、誰が言ったんでしょうね」
顧逸庭の発する一言一言が、井千陽の燃え盛る憎しみに油を注いでいた。
「殺してやる……」
井千陽の犬歯は瞬時に鋭くなり、十の指の爪は長さ約一メートルの鋭利な刃と化し、コウモリのような翼がその背に広がった。
「血管を咬みちぎって、全身の血を吸い尽くしてやる!」
顧逸庭は少しも恐れる様子がなかった。「できるものならやってみなさい」
瞬く間に、井千陽と顧逸庭の戦いの火蓋が切られた。
井千陽は鋭い爪で顧逸庭に切りかかり、顧逸庭は剝きだした牙で反撃した。最初は実力が伯仲しているように見えたが、次第に両者の戦力差が現われてきた。
吸血鬼の最大の武器は飛行できることにあるが、屋内にいる今、井千陽はその武器を生かすことができず、戦闘能力の大部分が削られているようなものであった。
一方、顧逸庭は吸血鬼を相手にすることに関してはベテランのようだった。彼は正確に井千陽の動きを予測した上に先手を打ってブロックすることで、井千陽を圧倒した。
顧逸庭は突然背後に殺気を感じると、南宮樹木が血の刃を手に奇襲しようとしていた。
「私に攻撃しないでもらえますか?」顧逸庭は巧みに血の刃を躱しながら、南宮樹に言った。「私はあなたを傷つけるつもりはありません。実際、私はずっとあなたと二人きりで話をしたいと思っていたのです」
「お前は千陽の家族を殺した。俺はお前と話すことなんか何もない!」南宮樹は冷酷に言い放った。
井千陽と南宮樹は互いに協力して顧逸庭に挟み撃ちを仕掛けた。顧逸庭は何らかの理由から南宮樹に手を出すことを厭っていたため、これにより窮地に立たされてしまった。
「これはちょっと厄介ですね。お前の出番が来たようです。入って来なさい!」
顧逸庭が言い終わるやいなや、ゲストルームの外に人影が現れた。
それは井千陽や南宮樹と同じ年頃の少年で、左足を地面に引きずっていた。その眼差しは底無しの二つのブラックホールのようであり、この世に彼の感情を揺さぶるものなど何も存在しないとさえ思わせた。
「この吸血鬼の同級生と一緒に遊んであげなさい、寧遠……トゥルディ」
この少年はまさに寧遠であった。彼は歩青雲父子を咬み殺したあと、神民の追跡に遭い危うく命を落とすところであった。幸いにも顧逸庭が間一髪のところで救助し、そのときに彼はこの教師が人狼であることを初めて知った。
母親が逝去してから、寧遠には帰る家がなくなり、人生の目標も失った。そこで顧逸庭はこの隙を狙って彼への勧誘を行い、雪狼救世福音教に加入して自分の下で働くよう説得した。
次の瞬間、寧遠はまだらな毛皮を持つ野生の狼に変身し、猛然と井千陽に飛びかかった。不自由な左足のせいで敏捷性が大いに低下しているものの、それでもその攻撃力は侮れないものであった。
井千陽は素早く相手の牙を躱すと、猛禽類のような鋭い爪で容赦なく反撃し、彼の片目を潰さんほどのダメージを与えた。
「本当に厄介ですね。いいでしょう、全員入って来なさい」
顧逸庭が命じると、さらに多くの猛り狂った人狼がゲストルームに侵入してきた。人狼の集団による壮絶な包囲攻撃により、井千陽と南宮樹はついに打ち倒され、満身創痍となった。
井千陽の負傷は特に深刻で、全身は血まみれかつズタボロで、惨憺たる状態だった。さらには、すでに意識も失っていた。
「ここは私のテリトリーです。あなたたちがこのまま抵抗を続けるなら、悪い結果が待っていますよ」顧逸庭は南宮樹に言った。
「もしあなたが協力する気があるのでしたら、ひとまずこの吸血鬼を解放してもいいでしょう。いずれにせよ、すでに彼を十年も長く生かしてきたんですから、今すぐ彼の命をどうこうしようとも思いません」
井千陽のため、南宮樹は屈服する道を選ぶしかなかった。彼は恨みを込めて言った。「もし千陽を殺害しようものなら、お前を絶対に後悔させてやるからな。それで俺に話って、いったい何だ?」
「ここは話をするのに相応しくありません。場所を変えましょうか」言い終わると、顧逸庭は寧遠とほかの人狼たちに指示した。「その吸血鬼を死なせるんじゃありませんよ。逃がすのもダメですからね」
そして顧逸庭は人間の姿へと戻った。再び白い祭服を羽織り、眼鏡をかけると、南宮樹を連れてスタジアムの反対側にある事務室へと向かった。
「あなたとあの吸血鬼がこんなにも絆が深いのを見ると、ちょっと感傷的になりますね」顧逸庭はわずかにため息をついた。「世の中というのは往々にしてこのように皮肉なものです」
「俺と千陽は小さい頃から兄弟と同じように一緒に育ったんだ。あいつは俺の家族だし、親友でもある」南宮樹は言った。「あいつが人間だろうが吸血鬼だろうが、それは永遠に変わらない」
「そういえば、あなたたちは二人とも子供の頃に両親を亡くしているので、似た者同士なのかもしれませんね」顧逸庭は言った。
「それはお前ら人狼のせいだろうが」南宮樹は冷ややかに吐き捨てた。
「あなたはやはり人狼が両親を殺したと思っているんですね」顧逸庭の口角が上がった。「それは誰かがあなたに言ったんですか?」
「誰でもない。俺がこの目で見たんだ」
*****
今でも、南宮樹は両親が殺害されたあの夜を思い出すたびに、心の痛みを感じていた。
彼の父親は母親と結婚後に神民を退役し、二度と魔女の役職を受け持つことはなかった。
彼ら一家三人は首都区の小さなマンションで暮らしていた。よくある一般家庭のように、その暮らしは平凡ながらも暖かい家庭であった。
南宮樹の記憶では、父親は背が高くハンサムで、威厳があり、さながら神が下界に降りてきたかのようであった。それにひきかえ、母親は風采の上がらぬ普通の女性であり、その性格は大人になりきれない少女のように世間知らずでボーッとしており、何かをやるたびしきりにトラブルを起こしていた。
彼らは一人息子をたいそう可愛がり、息子が泣けば、手を尽くして彼を泣き止ませ笑顔にさせるほどであった。
南宮樹はとても深く両親を愛しており、両親と過ごしたそのわずかな月日は、彼にとってかけがえのない宝物であった。
あの日の夜に起こったことは、今もなお南宮樹の記憶に鮮明に残っている。
その晩、家族でいつものように一家団欒を楽しんでいた。夕飯を食べ終わると、一緒にテレビを見た。その後南宮樹がシャワーを浴びてベッドに入ると、母親が寝る前のお話を聞かせてくれた。さらに日曜日には遊園地に連れて行ってくれると約束してくれた。
真夜中、南宮樹が楽しい夢を見ているまさにそのとき、突然、リビングルームから騒々しい音が聞こえてきた。
まるで激しいけんかでも起きたかのように、耳障りなけたたましい音がひっきりなしに続いていた。その後さらには人狼の咆哮が響き渡り、耳をつんざく銃声と父親の悲鳴が聞こえた。
南宮樹は恐怖に身がすくんだ。幼いころから手厚く守られてきた彼にできるのは、泣くことだけだった。全身の震えが止まらず、どうすればよいのか分からなかった。
しばらく経って、ようやく外は静けさを取り戻した。彼は涙をぬぐいながらベッドを降りると、恐る恐る寝室を出た。
リビングルームへ来ると、両親が倒れている姿が南宮樹の目に入った。その体は赤色の絵の具にまみれ、瞬時には何が起こったのか理解できなかった。あとになってようやく、それが鮮血であったとわかった。
リビングルームにはもう一人いた。それは黒いスーツを着て、猟銃を手にした若い女性だった。
金髪で青い目をした彼女は、まるで天使のような美しさであった。
「ごめんなさい……」
非常に長い沈黙のあと、女性の目から涙がこぼれ落ちた。
「あなたのパパとママは……人狼に殺されたわ」
南宮樹は呆然とその女性――アンジェラを見つめながら、「わー」と声をあげて泣き出した。
*****
「あの夜起きたことを、おかしいとは思いませんでしたか?」事務室で、顧逸庭は問いかけた。
「何がおかしいっていうんだ?」南宮樹は問い返した。
「あなたは自分の目で両親を襲った人狼を見たんですか?」
「見てない。でも人狼の吼える声を聞いた。それが、人狼が間違いなく家に来た証拠だ」
「『来た』」顧逸庭は笑いがこみ上げるのを抑えきれなかった。「これは実に面白い言葉ですね」
南宮樹は眉をひそめた。「何かおかしいことを言ったか?」
「あなたはご両親の遺体を調べましたか?体には本当に人狼によって付けられた傷あとがありましたか?」
「あのときはまだ小さかったし、二人の遺体はすぐに埋葬されたから……このクソ野郎、いったい何を言ってやがるんだ?」
南宮樹は彼にイラつき、乱暴な物言いになった。
「本当に鈍いですねえ。でも当時のあなたの年齢を考えれば、確かにおかしくはありません」顧逸庭は依然として気を持たせる口ぶりであった。「では最後の質問をしましょう。あの日の夜、あなたは母親の声を聞きましたか?」
南宮樹はぽかんとした。再度あの夜起きたことを思い返し、よく考えてみた。彼が耳にしたのは、狼の咆哮、銃声、父親の悲鳴のみであり、母親の声だけは聞いていない。
「母さんは……おそらくすぐに人狼に殺されたから、声が聞こえなかったんだ」南宮樹は述懐した。
「いいえ。あなたは聞いてますよ。自分の口で言ったばかりじゃないですか」
南宮樹は最初困惑の表情を浮かべたが、突然何かを理解したかのように、顔からだんだんと血の気が失せていった。
「いや……そ……それはあり得ない……」南宮樹の両の唇はわななき、体の震えを抑えることもできなかった。「お……お前、デタラメを言うなよ」
「すべてをお話しましょう」顧逸庭は哀れむような眼差しで南宮樹を見た。「あなたがこれまでずっと信じてきたことは、実際のところあなたの思っていたこととは異なります」
「違う……そんなの嘘だ……お前黙れよ……そんなの嘘だ……」南宮樹はひたすら繰り返した。
「あなたの母親は一般市民などではなく、人狼の王族――雪狼一族の最後の王女だったのです」
顧逸庭はついに真相を口にした。
「あなたは彼女と神民の間に生まれた混血児であり、この世に残る最後の雪狼なのです」
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