第六夜:雪狼(5)人間の肉体を捨て去り、人狼となりましょう!
終業のチャイムが鳴り終わると、一日中退屈な授業に悩まされた一年C組はたまらず歓声を上げた。生徒たちは次々にカバンを片付け、あっという間に誰もいなくなった。
普段はいつも小恵ら友人たちと一緒に帰宅する林若草であったが、今日は彼女たちとは帰らず、代わりに井千陽と南宮樹を追いかけた。
「あのさ……ちょっといいかな?」林若草はためらい気味な口ぶりで尋ねた。「あなたたちに話したいことがあるの」
そこで三人は学校近くのファーストフード店に入った。林若草はフライドポテトを買って井千陽と南宮樹に食べるよう勧めたが、彼女自身はまったく手を付けなかった。
いつも活発で明るい彼女だが、このところ心配事が重なっているためか、浮かない顔をしていた。
「それで、どうしたんだ?」井千陽が淡々と尋ねた。
「私の姉さんが……最近ちょっとおかしくなっちゃって」林若草は小さな声で言った。「ある教会に行ってから、別人の様になっちゃったの」
「どんな風に?」南宮樹は尋ねながらポテトをつまんだ。
「以前は宗教に対する信仰心なんてあったわけじゃないのに、最近ではしょっちゅう、祈祷とか福音とか救世主だとか口にしてる。毎週伝道集会に参加してはたくさんのお金を寄付して、さらには私にも絶えず入信を勧めてくるの」
「それって……よくあることじゃないのかな?」南宮樹が言った。「ほとんどの信者なんてみんなそんなもんだよ」
「でも、姉さんの様子はちょっと常軌を逸してるのよ」
林若草の顔には憂慮の色が浮かんでいた。
「毎回催しに参加したあとはひどく興奮していて、まるでドラッグをやったかのようにヒステリーを起こしている。しかも姉さんが寄付しているのは一部のお金だけじゃなくて、毎月の収入と貯金全額まで寄付してるのよ。さらには金融会社から大金も借りてるの」
南宮樹は驚きのあまり言葉が出なかった。「それは……マジでヤバいやつだ」
「二度とあの教会に行かないようにと言ったら、姉さんはものすごく怒り狂ってた。私たちは今まで喧嘩なんてしたことなかったのに、最近は毎日のように言い争いしてるの。私が一緒に教会に行こうとしないから、姉さんは私のことを頑固で無知だって責めるのよ。そしてこのままだったら私との縁を切るって言ってるの。本当にどうしたらいいかわからなくて……」
林若草がそう言いながらすすり泣きを始めたため、ファーストフード店のほかの客たちは彼らのテーブルに奇異の目を向けた。
「その教会の名前は?」井千陽が尋ねた。
「雪狼救世福音教よ」林若草が答えた。「名前を見る限りこの宗教は人狼と関係があるみたいだから、あなたたちに会いに来たの」
「ちょっと待って、君なんで知ってるの、俺たちが――うぐぐ!」
井千陽は林若草の話を遮らないよう、フライドポテトで南宮樹の口を塞いだ。
「その雪狼教が姉さんをこんな風にしたの。私は本当に……彼らが憎い」林若草の声はどうしようもない悔しさに満ちていた。「でも私はあなたたちみたいに神民じゃないし、ただの市民でしかない……私にも力があれば……」
井千陽はぎゅっと両の拳を握りしめる彼女を見ながら、心中思うところがあった。
「とにかくお願い、姉さんを助けて!」林若草は哀願した。
井千陽と南宮樹は互いに相手の目を見やると、井千陽の目つきは陰りを帯び、低い声で林若草に尋ねた。「伝道集会はいつなんだ?」
*****
「よかった、ようやく伝道集会に参加してくれる気になったのね、若草!しかも、二人のクラスメイトも一緒に連れてきてくれて、牧師様もきっとお喜びになるわ!」
林若萱は何の疑いもなく、喜びいっぱいで林若草、井千陽と南宮樹の三人を連れて雪狼救世福音教の本部へと向かった。
その本部は首都区のドーム型スタジアムにあり、名を「雪狼救世館」といった。
このスタジアムは元々そういう名称ではなかったが、最近になって雪狼救世福音教に買収されたため、名称も変更された。
スタジアムを買い取るには莫大な資金が必要であることから、この宗教の財力が驚くべきものであることがわかる。
夜、井千陽一行がスタジアムに到着するやいなや、教会スタッフによる検問が行われた。
まずはセキュリティチェックを通過しないと入場することができず、さらにはスマートフォンなどの所持品はロッカーに預けなければならない。
いくつもの手続きを経て、井千陽らはようやく伝道集会会場への入場が許可された。
巨大なドームの下には、何万人もの信者が集まっていた。それらの人々はまるでコンサートを観にきたファンのようであったが、それ以上にさらに感激し、さらに熱狂し、さらに興奮していた。
井千陽らが席に着いてから待つこと約一時間、ついに伝道集会が始まった。
ステージは四方がオープンなデザインとなっており、女性執事がステージに登場すると、信者たちがささめいた。
「今日は顧牧師主催の伝道集会じゃないの?」
「顧牧師は用事があるから、臨時でほかの人が代わりを務めるらしいよ」
女性執事が慣例に則って人狼ジェスチャーを作りスローガンを叫ぶと、会場の信者たちはすぐさま呼応した。その気勢は凄まじいものであった。
ステージ上のすべては大型スクリーンにリアルタイムでライブ配信されているため、端に座っている者ですらハッキリとステージの模様を見ることができた。
その後女性執事は講演を開始した。その内容は、雪狼救世主と人狼トゥーラ―ンがまもなく降臨して云々、だからみな準備を整え、より多くの資金を調達し、より多くの迷える子羊を駆り集めろという等々、その言葉には感化力と扇動性が強く備わっていた。
説教が終わると、続いては「狼化」の儀式であった。スタッフが「狼変膏」という名のオイルのようなものを会場の信者全員に配布した。
井千陽はオイルのボトルを受け取って蓋を開けると、その瞬間強烈な臭気が鼻をつき、思わず眉をしかめた。
信者は皆オイルを顔や手に塗り付けていたので、もし井千陽らが同じようにしなければ明らかに目立ってしまうだろう。皆に合わせる振りをせざるを得なかったが、実際にはオイルが皮膚に触れないようにした。
「敬愛なる雪狼救世主様、どうか私たちがよりいっそうあなた様に近づき、あなた様が喜ぶ姿になれるようにしてくださいませ!」女性執事はステージ上で高揚しながら叫んだ。
しばらくすると、狼変膏を塗った信者に変化が現れ始めた。
彼らの表情は次第に獰猛になり、白目は血走り、こめかみには青筋が浮き出ていた。そして四つ足の動物のように背中を丸めて地面を這い、口からは野獣のような荒い息づかいを発していた。
何万人もが同時にヒステリーに陥るのを見て、井千陽らはショックを受けた。会場全体が狂った人間で埋め尽くされているのだ。彼らはまるで、精神病院に迷い込んでしまった一般人のようであった。
この点から見ても、あの狼変膏には興奮剤か幻覚剤が含まれている可能性が高い。しかも皮膚から体内に吸収されることにより人々の理性を失わせ、自分が人狼になったと錯覚させる。
「人間の肉体を捨て去り、人狼となりましょう!」
女性執事の高い声が会場に響き渡った。
「己の爪と牙を研ぎ、雪狼様の軍隊となるのです!私たちは雪狼様の敵を滅ぼし、雪狼救世主様と人狼トゥーラ―ンをミラーズホロウに降臨させるのです!」
信者たちは精一杯人狼の姿を模倣し、必死に首を伸ばして狼の遠吠えをしたが、その姿は似ても似つかず身の毛がよだつありさまだった。
「早く行こう、もうここにいちゃダメだよ!」林若草は急いで姉を説得した。「この人たちはみんな狂ってるわ。ここはカルトの集会なのよ!」
ほかの信者と同じく林若萱は気がふれた状態になっており、妹に向かって大声で吼えた。「なんであんたは人狼にならないのよ?なんでなのよ?」
「姉さん!」
「わかったわ。あんたは雪狼様の敵なのね!」
林若萱は両目をむき出し、口を大きく開け、野生動物のように猛然と林若草に飛びかかった。幸いにも井千陽と南宮樹によって間一髪で止められた。
騒ぎを起こしほかの信者たちの注目を集めてしまったため、井千陽らは一瞬にして会場における最大の焦点となってしまった。
「あそこに雪狼様の敵がいるらしいぞ!」「雪狼様の敵を滅ぼそう!」「敵を滅ぼせ!」「敵を滅ぼせ!」「敵を滅ぼせ!」「敵を滅ぼせ!」「敵を滅ぼせ!」
信者たちはみな大声で叫び、群集の感情も荒れ狂っていった。
井千陽らは直ちに逃げようとしたものの、見渡す限り人の海で、逃げ道などどこにもなかった。
万策尽き果てたと思ったまさにそのとき、信者たちが突然静まり返った。そして声が響いた。
「彼らは雪狼様の敵ではありませんよ」
白い祭服の男性がゆっくり彼らへ向かっていくと、行く先々で群集は次々に道をあけた。その様子は、モーセが紅海を割るさまを彷彿とさせた。
男性が井千陽らの前に来ると、彼らは思わず目を見開いた。その男性ははからずも彼らの担任、顧逸庭であった。
「みなさん、こんばんは」顧逸庭はわずかに口もとをつり上げたが、レンズの奥の目は、少しも笑っていなかった。「特別授業の時間のようですね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます