第六夜:雪狼(4)喉が渇いたらまた俺の血を飲んでいいからな

 広々とした講堂には、千人以上の信者が集まっていた。

 講堂の壁には十字架が掛けられていたが、一般的な教会とは異なり、十字架に打ち付けられているのは神の子ではなく真っ白な狼であった。

 演壇には、白い祭服に身を包んだ男性の牧師が立っている。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、『雪狼』に敬意を表しましょう」

 牧師は高らかに響き渡る大声で言うと、右手を高く挙げて人差し指と小指

 をまっすぐ立て、残りの三本の指を触れ合わせた。

 「人狼の勝利は永遠なり!」

 会場の信者たちが呼応して一斉に人狼ジェスチャーを作るさまは、熱気に満ちあふれていた。

「さあ、頭を下げて雪狼に祈りを捧げるのです」牧師は言った。「敬愛なる雪狼救世主様、私たちは皆あなた様の忠実な僕です。命をかけてあなた様にお仕えし、すべてを捧げます。あなた様と人狼トゥーラ―ンの、一日も早いご降臨を願っております。アーメン」

 祈祷が終わると、説教が始まった。

「今日のテーマは『人狼トゥーラ―ンへの道』です。このところ、ミラーズホロウは混乱して不安定な状況に陥っています。それらはすべて、狼王の名を騙った男に起因しているのです。その男は、人狼が他の種族の上に君臨する、恨みと憎しみに満ちた国家の建設という妄想にとりつかれましたが、結果はもちろん失敗に終わりました。

 真の王はただ一人であり、その方こそが私たちの雪狼救世主様なのです。彼の方が築く人狼トゥーラ―ンにおいては、人狼と人間は仇敵ではなく兄弟です。人狼が人間を恨むことはなく、人間も人狼を恨むことはありません。互いに愛し合うのです。

 人狼トゥーラーンは平和な国家であり、満ち足りた理想郷であり、幸せな楽園なのです」

「どのようにすれば人狼トゥーラーンに入ることができるのですか?」一人の男性信者が手を挙げ質問した。

「いい質問ですね」

 牧師は、まるで勉強熱心な学生を褒めるかのようにうなずき微笑んだ。

「人狼トゥーラ―ンに入るには、雪狼様の教えに従わなければなりません。みなさん、おめでとうございます。あなたがたが雪狼救世福音教に足を踏み入れたその瞬間から、人狼トゥーラ―ンに入るための鍵はすでにその手に握られているのです。あなたがたは皆、選ばれた民なのです」

「では、雪狼救世主様はいつ降臨なさるのですか?」もう一人の女性信者が疑問を呈した。

「心から祈り求めなければ、雪狼救世主様は降臨されません。さらには行動によってその気持ちを証明しなければなりません」

 牧師は答えた。

「まず初めに、より多くの人に雪狼様の福音を伝え、雪狼様のための強大な軍隊を設立しなければなりません。みなさんは必ずや、家族、友人、同僚、隣人に熱意を持って雪狼救世福音教を広め、彼らをこの伝道集会へと招待してください……」

 会場の信者たちはみな一心不乱に耳を傾けていた。そこには林若萱の姿もあった。

 約半年前、彼女は会社の先輩から精神的な成長をテーマにした合宿プログラムを紹介された。

 林若萱はこの手の活動に興味はなかったが、先輩の勧めということもあり、しかも費用は無料だったので、ひとまず参加した。



 結果的に、一泊二日の合宿プログラムは予想以上に面白かったので彼女にとって息抜きとなり、ストレスの多い日常生活からのちょっとした逃避となった。

 林若萱は一家の主として毎日懸命に働き、家賃や様々な生活費を自分一人で負担しなければならないだけでなく、未成年である妹の面倒も見なければならなかった。そのストレスは決して少ないものではなく、心身をリラックスさせる方法が今すぐにでも必要だった。


 そこで彼女は再び、セミナーや趣味サークル、読書クラブなどほかの活動にも参加を申し込んだ。そのどれもが一銭たりともお金を払う必要がないものだった。

 これらの活動を裏で主催していたのは「雪狼救世福音教」という名の団体で、人々を教育することを目的とした慈善団体であるらしかった。スタッフの熱心な勧めを受け、林若萱はこの宗教の伝道集会に参加し始めた。

 伝道集会といっても、最初のテーマは人生の意味を探求することであり、宗教的要素はかなり低い。ところが参加を重ねるうちに、彼女はより多くの教義に触れ、次第にこの宗教への興味を持つようになった。

 今日は林若萱にとって五回目の布教集会だった。一時間に渡る講話が終わると、ティータイムである。スタッフは飲み物と菓子を準備し、参加者へ振る舞った。

 牧師が林若萱の方へと歩み寄り、彼女に向かって微笑んだ。

「こんにちは、伝道集会へようこそ。お会いするのは初めてですかね。もし先ほどの内容で何かわからないところがあれば、遠慮なく質問してくださいね。説明いたしますので」

 林若萱が以前参加した伝道集会はすべて執事が主宰していたものであり、牧師を見るのは今回が初めてだった。

 さっきは距離が少し遠かったため、林若萱はあまりはっきりと牧師の姿を見ることができなかったが、よく見てみると、牧師はかなりハンサムであった。丸いフレームの眼鏡をかけ、レンズの奥のまなざしは優しさにあふれていた。

「私の名刺です。必要があれば連絡してくださって構いませんよ」

 林若萱が牧師からカードを受け取ると、そこには「雪狼救世福音教 牧師 顧逸庭」と印刷されていた。


             *****


「あの本は?あの本も見てみるか?」南宮樹は尋ねた。

「ああ、あの本もある」井千陽は答えた。

 教会の書庫で、井千陽と南宮樹は吸血鬼に関する資料を探していた。

 井千陽はアンジェラも含め、まだ誰にも自分の肉体の変化を話していなかった。

 彼と南宮樹はなんとかほかの神民を避け、人の少ない時間を選んで書庫へ足を運んだ。丸一日かけて数多くの文献を調べ、やっとのことで吸血鬼のことを大まかに理解することができた。

 吸血鬼の生態は彼らが前に推測した通り、人狼とその本質は同じであった。

 人狼は十分な栄養を摂取するために人肉を食さなければならない。吸血鬼も同様で、ただ人肉が人の血に取って代わるだけだ。

 そのほか、人狼は吸血鬼の肉を食べても養分を得ることができ、吸血鬼が人狼の血を飲んでも同様である。

 出生とともに種族の特性が現れる人狼と異なり、吸血鬼になるためには「覚醒」する必要がある。それまでは、普通の人間とほとんど変わらない。

 覚醒は、ある種の非常に強烈な刺激によって引き起こされることが多い。最も一般的なものが死である。一度死ぬと、吸血鬼は覚醒する。

 吸血鬼の文化において覚醒は神聖かつ荘厳な出来事であり、通常、吸血鬼が十三歳になると、同族内で覚醒の儀式を行う。

「お前の両親……彼らも吸血鬼なのか?」南宮樹は井千陽に聞いた。

 井千陽もその問題については考えたことがあった。

 多くの人が思っているのとは異なり、人狼や吸血鬼に咬まれても、実際のところ彼らの同類になるわけではない。人狼や吸血鬼の体質は、遺伝によってのみ獲得されるのだ。

 言い換えると、子供がその血統を継承するには、両親双方もしくは片方が人狼か吸血鬼でなければならない。

「わからない」井千陽は正直に答えた。「僕の記憶では、彼らはどちらも普通の人間だった」

「じゃあ、あの人に聞くつもりか?」

 南宮樹の言う「あの人」とは、アンジェラのことである。

 彼女は井千陽を人狼の口から救い出し、教会に連れ帰った人物である。彼の本当の出自を知る可能性は高い。


             *****


 そこで井千陽と南宮樹はアンジェラに会いに行き、あの日の夜満月の庭で起きたことを一部始終ありのままに話した。井千陽も己の出自に対する疑惑を口に出した。

「あなたがいつ気づくのか、ってずっと思ってたのよ……もっと早く伝えておくべきだったわね」

 アンジェラはそう言いながらため息をついた。

「実を言うとね、あなたは井さん夫妻の本当の子ではなくて、彼らの養子なの。あなたの実の両親がいったい誰なのかは、私もわからないわ。

 記録によると、十六年前のハロウィンの夜、あなたはスラム街のあるバラックのドアの外で発見されたんだけど、そここそがまさに井さん夫妻の住まいだったの。

 そのときあなたの体にはまだ胎脂や血が付着していて、へその緒すらも結ばれていない、明らかに生まれて間もない状態でコートにくるまれていたそうよ。

 井さん夫妻はあなたを社会福祉施設に送り届けたんだけど、残念ながら時間が経ってもあなたの実の両親は見つからなかったわ。そこで彼らはあなたを養子にして、実の息子として育てたのよ」

 そしてアンジェラはキャビネットから少し黄ばんだメモを取り出した。

「このメモはあなたが発見されたとき、コートに挟まっていたそうよ」

 井千陽がメモを受け取って見てみると、綺麗な筆跡でこう書かれていた――「千陽、お前が誰からも愛されますように」

 井千陽は、それを読んで呆然とした。

 ――このメモは両親が残したものなのか?いったい何があって、彼らは生まれたばかりの息子を捨てなければならなかったのか?彼らはまだ生きているのか?彼らは二人とも吸血鬼なのか?彼の頭の中は疑問で埋め尽くされた。

「あなたはずっと井さん夫妻を実の両親だと思っていたし、あのときは彼らを亡くしたばかりでまだ幼かったから、あれこれと余計なことを考えさせたくなかった。だから私はあなたの本当の出自を伝えなかったの」アンジェラは申し訳なさそうに言った。「その結果、今まで言えなかったわ……ごめんなさい」

「わかった。謝らなくていいよ」言い終わると、井千陽はためらいがちに尋ねた。「あのさ……僕が吸血鬼ってことで、教会から追放されるのかな?」

 アンジェラは最初黙して語らなかったが、その後慎重に言葉を選びながら言った。

「教会の歴史によると、古来、人狼と吸血鬼はどちらも神民の敵と見なされてきたわ。吸血鬼の凋落に伴って、神民は徐々に人狼退治に重点を置いていったの。でも……吸血鬼に対する敵意が消え去ったというわけではないわ」

「教会の悪口は言いたくないけどさ、それってどう考えても理不尽だよ!」南宮樹はひどく憤慨した。「千陽は何も悪いことしてないし、ただ吸血鬼として生まれたってだけで敵と見なされるなんて、それって公平なことなの?もし千陽が教会を追い出されるんなら、俺もここにはいたくない」

 アンジェラは再び沈黙した。その顔には困惑した表情が浮かんでいた。

「教会は市民を守るために存在しているのに、時として……確かに少し非情よね」アンジェラは吐露した。「とりあえず、千陽が覚醒したことは今のところ秘密にしておくわ。適切なタイミングを見計らって長老に報告する。何があっても、私は千陽が教会に残れるよう押し通すわ」

「けどさ……教会に残れたとしても、神民を続けられるのかな?」井千陽はためらいながら尋ねた。「吸血鬼は人狼と同じように、人間を傷つけなきゃ生きていけない。そんな僕が……本当に人狼退治をする立場にあるのかな?」

「覚醒してから、阿樹の血以外にほかの人の血は吸ったの?」アンジェラは尋ねた。

「ううん……けど我慢したからそうせずに済んだんだ」井千陽は答えた。

「つまり、あなたは人を傷つけないよう努力して自分を制御してる。そのことが、あなたが人間を虐殺するあの人狼たちと違うということを証明しているわ」アンジェラは確信を持って言った。「吸血鬼であるあなたは常人よりも強い力を持っている。ならばなおさらその力は市民を守るために使うべきよ」

 依然として不安ではあったが、何日も井千陽の心に重くのしかかっていた石が、少しは軽くなりつつあるようだった。

「千陽、もし喉が渇いたら、また俺の血を飲んでいいからな。そうすればほかの人の血を飲む必要もないだろ」南宮樹がここぞとばかりに口を挟んだ。「俺の体はすごく丈夫だから、多少血が減ったってなんてことはないぜ」

「いやだね」井千陽は冷たく言い放った。

「なんだよ!人が親切で言ってるのに……」

 二人の子供がまた口喧嘩をしているのを、アンジェラは怒るでも笑うでもなく見ていた。

「大変だったわね、千陽」アンジェラは井千陽の髪を軽く撫でた。「ここしばらくは混乱して不安だったでしょう?あなたは身を隠すことなんてないわ。そうすれば私があなたを助けることができる。一人で何もかも抱える必要はないのよ、わかった?」

「うん」井千陽は小さな声で言った。「でも……自分を制御しきれずにアンジェラを傷つけてしまうんじゃないかと思うとすごく怖いんだ」

「この世に、子供に傷つけられるのを怖がる母親なんているのかしら?」アンジェラは慈しむような微笑みを浮かべた。「正体が何であろうと、あなたと阿樹は二人とも私の子供よ。私は永遠に、あなたたちを見捨てたりしないわ」

 その言葉を聞いて井千陽の心は暖かさで満ち溢れた。彼は感情を表現するのが苦手だったので顔をそむけたが、耳は真っ赤であった。

「そういえば、変化が現れたのは千陽の体だけだったの?」アンジェラが尋ねた。「阿樹は?」

「え?俺は変化なんてないでしょ?」南宮樹は訝し気に問い返した。「俺の父さんは魔女だし、母さんは市民だから、どちらも人間だよ。」

「なんでもないの……ちょっと聞いてみただけよ」アンジェラの目にかすかに焦りの色が浮かんだ。「阿樹、あなたはもちろん普通の人間よ」

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