第六夜:雪狼(3)このバカ樹

 井千陽は物置にボードを置いて出ていこうとしたが、入って来た時は明らかに問題がなかったにもかかわらず、ドアの鍵が壊れていることに気づいた。

 間違いなく錠前に問題があり、何度も試したもののデッドボルトは一向に引っ込む気配がなかった。

 何か使える道具を探そうとした矢先、物置の中に自分以外の人間がいることに気がついた。

 それは栗色の髪をした少女であった。彼女は棚の後ろで片付けをしていたようだ。井千陽が気づかなかったわけである。

「どうも」井千陽は無表情で彼女――林若草に挨拶の声をかけた。

「どうも」林若草は少し気まずそうに返事をした。「えっと……ドアの鍵開かないの?」

「ああ。引っ掛かってる」

 井千陽は答えると、再びドアの鍵をこじ開ける道具を探しに行った。

 彼はいくつもの方法を試したが、ドアを開けることはできなかった。仕方なくスマートフォンで助けを呼ぶことにしたが、あろうことかバッテリーが切れていた。

「スマホ持ってるか?」井千陽は若林草に聞いた。

「スマホ……」林若草は身の回りを探した。「あ、スマホ教室に置いてきちゃった」

 その後二人は沈黙して言葉を発することもなく、その場は気まずい雰囲気に包まれた。

 林若草は、井千陽が先に口を開くことに期待するだけムダだとわかっているので、自ら尋ねた。「ここに来るって誰かに言った?」

「いや」井千陽は南宮樹にひと声かけてこなかったことを少し後悔した。彼が自分の居場所を推測してくれることを願うしかなかった。「君は?」

「私も誰にも言ってない」

 林若草は、呉皓軒が以前芊芊を置き去りにしたことに対しいまだ腹を立てていた。それゆえ彼のライブは観に行かず教室に残って片づけをし、カフェに残った備品を物置に戻していた。

 小恵は風邪で学校には来ておらず、芊芊と桃子もすでに帰宅した。

 この物置は離れた場所にあり、しかも今は皆が軽音部のライブを観に行っている。校舎内には人っ子一人おらず、ドアを叩いて助けを求めても誰も応じることはない。彼らはかなりまずい状況にあると言えるだろう。

 物置に入ってからというもの、井千陽はうっとりとするよい香りがしているのをかすかに感じていた。ハチミツがたっぷりとかかったパンケーキのような、もしくはカットしたらチョコレートが溢れ出してくる溶岩ケーキのような、食欲をそそり食べたくてたまらなくなる香りだ。

 香りの出所を探すと、意外にも林若草の体から香っていることがわかった。

「私の顔に何かついてる?」林若草が聞いた。

「つ……ついてない」井千陽が答えた。

 すでに日は暮れており、井千陽の中の吸血鬼が鮮血を求めて動き出そうと蠢いていた。

 最後に南宮樹の血を吸ってから、彼はしばらく血を吸っていなかった。ましてや今、彼の傍らには生き生きとした人間がいるのだ。この状況は、まさに狼と羊を同じ檻に閉じ込めたようなものだった。

 林若草の肌は白く綺麗ではあるが、井千陽の月明かりのような冷たい白さではなく、皮膚の内側から健やかさがにじみ出るような、そんな暖かみのある白さだ。さらに付け加えると、彼女は見る者に生命力が満ち溢れた印象を与え、そのさまは体の中で血液が勢いよく流れている様子すらも想像できそうなほどである。

 井千陽の喉の渇きはますます激しくなり、彼は体が疼いてたまらなかった。血を吸いたい衝動を抑えるには、一生分の自制力が必要だった。

 同時に、彼は再び林若草の首筋に目をやらずにはいられなかった。その皮膚は柔らかく繊細で、透き通るように白く、うっすらと血管や静脈も見える。もし一口咬みつこうものなら……

 林若草も井千陽の異変に気づいた。呼吸はだんだんと速くなり、体からは異様な熱気を発している。目も不自然に光り、まるで狩りの準備をしている夜行性動物のようだ。その様子に彼女はいささか不安を覚えた。

「あなた……大丈夫?」林若草は警戒しながら聞いた。

「ああ……」井千陽は彼女を見ようとせず、両手の拳を握りしめた。その爪は深々と手のひらに食い込んでいた。

「そうだ」林若草は突然あることを思い出した。「あなたに……渡したい物があるの」

 林若草は言いながら綿布でできた薄紫色の小さな袋を取り出し、井千陽に手渡した。

「このお守りには人狼を追い払う効果があるんだって」

 井千陽はそのお守りを一瞥して、きっぱりと言った。「ありえないな」

「とにかく……受け取ってよ」

 相手が頑なに渡そうとするので、井千陽は受け取るしかなかった。

 袋の表と裏には凝った模様と、「平安」の二文字が刺繍されていた。上部には結び目があり、小さな鈴が付いていた。かなりの時間と工夫をこらして作られたことがわかる。

 袋の中から漂うほのかな花の香りが林若草の体から漂う香りをいくらか緩和してくれたので、井千陽にはかなりありがたかった。

「中……はトリカブトの塊根か?」井千陽が聞いた。

「そうよ」林若草が答えた。「このお守りに……祈りを込めたの。この先、あなたが人狼退治をする度に、必ず無事に帰ってこれますように、って」

 井千陽はハッとして目を上げると、林若草と視線が重なった。

 彼はこれまでこんなに近い距離でつぶさにこの少女の目を見たことがなかった。このとき初めて、彼女の瞳が彼女の名前と同じく若草色であったことに気づいた。

 この瞳の色の美しさは、世のどんな緑色の宝石をも上回っており、またいかなる植物よりもさらに鮮やかな緑色であった。

 その瞬間、井千陽の胸のうちに今まで感じたことのない感情が湧きあがった。

 鼓動は急に激しくなり、胸のあたりにある種の漠然とした焦燥感ともどかしさを感じた。決していやな感じではなかったものの、ただそれを落ち着かせ解消させる術がわからなかった。

 物置の蛍光灯はずっとチカチカと点滅していたが、突然「カチッ」という音とともに消えた。

 部屋が暗闇に包まれると、なんだか急に狭くなったように感じた。

 しばらくすると、井千陽は林若草の息づかいが喘息の発作のようにいきなり荒くなったのを耳にした。

「君……大丈夫か?」井千陽が聞いた。

「子供の頃からこうなの……」林若草は息を切らしながら答えた。「しばらくすれば良くなるわ……」

「子供の頃から?」

「私の両親は子供の頃に離婚したの。そのあとしばらく母と暮らしてたんだけど……は、母はいつも理由もなく私をクローゼットの中に閉じ込めたわ……それ以来、わ、私は暗くて狭い所に一人でいるとすごく怖くなるの……」

 林若草の額には冷や汗が噴き出していた。鼓動はコントロールを失いそうなほど速く脈打ち、声だけではなく、彼女の全身が震えていた。

 すると、林若草は腕にそっと触れられた手の感触を感じた。

「君は今一人じゃない。僕もいる」井千陽は落ち着きしっかりとした口調で言った。「深呼吸してみて」

 林若草は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。それを何度か繰り返すうちに、だんだんと落ち着いてきた。

 井千陽は彼女を座って休ませると、自分は再び役に立つ物がないかあちこち探し始めた。

 雑然とした物の中から懐中電灯と、「奇術部小道具」と書かれた段ボール箱の中から軽くこすると煙が出るマジック用の煙紙を見つけた。

 この物置には火災警報器が設置されているので、井千陽は煙が出る煙紙を警報器の下にかざした。しばらくすると、耳をつんざく非常ベルが鳴り響いた。

 二時間以上閉じ込められたのち、井千陽と林若草はようやく発見され、無事に物置を後にした。

 幸いなことに軽音部のライブはすでに終わっていた。もし非常ベルのせいで中断に追い込まれていたら、彼らは間違いなく呉皓軒のガチファンの女性たちに地の果てまで追われてとっちめられていただろう。

「千陽!いったいどこ行ってたんだよ?」南宮樹は今にも泣きだしそうな様子であった。「散々探したんだぞ!マジで二度と俺を置いて行くなよな?」

「大丈夫さ、家に帰ろう」井千陽は淡々と言った。ポケットからは澄んだ鈴の音が聞こえた。

「今笑ってなかったか?」南宮樹が驚いた顔をした。「雨でも降るんじゃないだろうな?」

「笑ってないよ、このバカ樹」


              *****


 林若草は家へ向かって自転車をこぎながら、つい先ほど物置で起きたことを思い返して思わず顔が火照ると同時に、甘くうっとりとした気持ちも感じていた。

 家に着くと、玄関では姉の林若萱が靴を履いており、笑いながら聞いてきた。「顔が真っ赤だけど、何かあったの?」

「な……何にもないよ」林若草は言葉を濁して答えた。「出かけるの?」

「うん、デートだから帰るのは遅くなりそうね」

「デート?」林若草はニヤリと笑みを浮かべた。「誰と?」

「何バカなこと考えてんのよ?」林若萱は思わず苦笑した。「大人数の集まる大々的なパーティーよ」

 林若草はうなずいた。「じゃあ、あんまり遅くならないようにね。あと、人狼に会わないように気をつけてよ」

「あんたみたいなそそっかしい娘っ子に注意される日が来るとはね?」林若萱はやれやれと言った感じで頭を振った。「冷蔵庫の中に夕飯が入ってるから、ちゃんと温めて食べるのよ。それともう片方の制服は洗ってアイロンかけておいたから、明日学校に着て行っていいわ」

 林若草はうなずき、姉がいつも何から何まで自分の面倒を見てくれることに、心の中で感謝した。

 両親が離婚してから、姉妹二人は母親とも父親ともそれぞれしばらく暮らしたが、どちらも娘たちを重荷に感じていたため、二人に対する態度はとても冷たかった。

 妹に良い生活をさせるため、林若萱は高校を卒業すると社会に出て働き始めた。姉妹二人が生活していけるよう、懸命にお金を稼いだ。

 林若草にとって、姉はヒーローの様な存在だった。

 林若萱が出かけたあと、林若草はコーヒーテーブルの上に姉が置き忘れたパンフレットを見つけた。

 何気なくページをめくってみると、中には心温まるいい話が詰まっており、プラスエネルギーを広めるための様々なエピソードがぎっしりと印刷されていた。

 パンフレットの最後のページをめくると、隅にとある団体の名前――「雪狼救世福音教」と書かれているのが目に入った。

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