第五夜:吸血鬼(4)真の人狼トゥーラーンに帰り
「立て!」満月の荘園のホールで、狼王は雷鳴のような声で井千陽に命令した。
だが、井千陽は動きたくても動けなかった。彼は血だまりの中に倒れており、全身を咬まれて体中傷だらけであった。無傷な個所は一つもなく、深い傷口からは骨が見えていた。
「千陽……」
南宮樹も同様に怪我がひどく、相棒を助けたかったがどうすることもできなかった。
神民のハンターと一般の猟師は別物ではあるが、狼王は猟銃で人狼を撃つ人間を激しく憎んできた。
井千陽を見るなり、彼は猟師の手によって無残に殺されたグリシェンを思い出した。
あのときグリシェンが行方不明になった後、アザットはすぐさまグリシェンの母親に知らせた。
彼女はすぐにほかの人狼たちと大規模な捜索を行い、昼夜を問わずグリシェンを捜し続けた。残念ながら長い時間を費やしても、依然としてグリシェンの行方はわからないままだった。
彼らはまたあらゆる手段を尽くして崔宸とその父親も捜したが、その親子は極めて狡猾であり、人目を避けることに長けていた。人の群れの中から彼らを捜し出すのは、到底無理な話だった。
アザットは、あの夜グリシェンを崔宸について行かせるべきではなかったと深く後悔し、自分を責め続けた。
グリシェンの母親は娘を思うあまり精神を病んで病気になり、娘を見つけ出すことができないまま亡くなってしまった。
誰もがグリシェンはすでに殺されたものと思っていたが、アザットは彼女がまだ生きていると堅く信じており、諦めることなく捜し続けていた。
数年後、彼はある収集家がかつて猟師から珍しい色の狼の毛皮を購入し、さらにはそれを一般に公開しているという話を聞き、すぐさま確認しに向かった。
展示ケースに置かれたその毛皮を見るなり、アザットの心は押しつぶされた。
彼は何度もグリシェンが狼に変身した姿を見てきており、彼女の身体の特徴はすべて熟知している。頭部から尻尾までその姿を完全に留めた毛皮は、まぎれもなくグリシェンのものであった。
彼はすぐにでもグリシェンの毛皮を奪い返したかったが、そのときの彼はただの駆け出しの少年に過ぎなかった。何度も挑んでは失敗に終わり、さらには神民に殺されそうにもなったこともあった。
アザットは崔宸を憎み、猟師を憎み、神民を憎み、人間を憎み、無力である自分をも憎んだ。
彼は人間に報復したかった。人間のようなゴミ種族はミラーズホロウを治めるに値しない。ただ人狼こそが、頂点に立つ資格を持つと信じ始めた。
この時から、アザットは計画的な復讐への道を歩み始めた。己の鍛錬に力を注ぎ、着実に歩を進め、ついにはほかの頭目たちを退けることで狼王となった。
その時が訪れると、彼は主権を満天下に宣言した。すべての者に彼が人狼の王であるだけでなく、ミラーズホロウの支配者であることを知らしめた。
その後、彼は市長を殺害しグリシェンの毛皮を奪い返したが、心の中の恨みを晴らすにはそれでもまだ足りなかった。次は神民を虐殺し、市民を奴隷とし、人間という種族全体を徹底的に蹂躙せねば気が済まなかった。
狼王が倒れている井千陽を見ていた。彼は最後の力を振り絞って這いずり、曲刀を拾おうとしていた。
だが井千陽はまだ刀に手が届いていなかった。狼王は真っ先に彼に飛びかかると、その首めがけて咬みついた。たちまち大動脈が破裂し、鮮血が高圧水のように激しく噴き出した。
井千陽の瞳は次第に焦点を失い、瞳孔が開いていった。顔色は黒ずんでいき、全身も微動だにしなかった。
「千陽!」
悲しみのあまり、南宮樹は胸が張り裂けそうなほどの悲痛な叫び声をあげた。その声は狼の遠吠えのようであった。
井千陽を直接咬み殺したことを、狼王は少し後悔していた。こんな楽に死なせず、グリシェンが受けた苦しみを味わわせてから死なせるべきだった、と考えた。
一人の神民は死んでしまったが、もう一人はまだ生きている。狼王は次善の策として、南宮樹を血祭りにあげることにした。
復讐のため、かつて狼王は生きたまま人間の皮を剥ぐ方法を研究した。
ひとつは、人間を土の中に埋めて頭だけを露出させた後、ナイフで頭皮を「十」の字に切り、水銀を注ぎ込む方法だ。すると、皮膚と筋肉がゆっくりと剥離していく。
この過程は極限の苦痛であり、受刑者は死に物狂いで土から出ようともがく。そうすると頭頂部の「十」の字から血まみれの人体が飛び出て、土の中に皮袋が残るのだ。
今は条件が整っていないので、狼王は他の方法を採用することにした。南宮樹の背中をナイフで切り裂き、蝶が羽を広げるように皮膚を両側に剥ぐのである。
「もうやめよ……アザット・メメティ」狼魔が弱々しい声で彼を諫めた。「もう憎しみを生み出すのはやめるのじゃ……」
狼王は狼魔の忠告を聞き入れなかった。人間の姿に戻ると、南宮樹を柱に縛り付け、服を引き裂き、背中を露わにさせた。
井千陽が死んでから、南宮樹は生きる気力を失っていた。もはやジタバタすることもなく、狼王にされるがままであった。
狼王がナイフを持って南宮樹の皮膚を切り裂く準備をしたとき、狼魔が残りの力を振り絞って飛びかかり狼王のふくらはぎに咬みついた。
「失せろ!」狼王は容赦なく狼魔を振り払った。
狼王の目は復讐の炎と血への渇望でギラギラしていた。彼は南宮樹の背骨に狙いを定めると、ナイフで首から腰にかけて血の線を描いた。
狼王が南宮樹の皮膚を剝ごうとしたそのとき、突然倒れている死体に変化が起きていることに気づき、思わず目を見開いた。
「何だ……?」
井千陽の全身の傷が驚異的な速さで塞がっていった。折れた骨は修復され、筋肉が新たにできあがり、皮膚は傷などなかったかのように滑らかで起伏のない状態に回復する様子が目に入ってきた。
そして肩甲骨がまるでラクダのこぶのようにゆっくりと隆起した後、一本の骨が背中を突き破り、二本、三本……と骨同士は互いに連なって支えを構築し、徐々に翼の外観ができあがっていった。
その翼は白く柔らかな羽根で覆われた天使の翼とは異なり、ただ皮膜があるだけだ。その形はコウモリの羽にも、黒い炎にも似ており、人狼と同様に有名なある生物を連想させる――
「吸血鬼か?」狼王は驚きに満ちた口調でつぶやいた。
井千陽はまつ毛を揺らし、ゆっくりと目を開けた。
彼の肌はもともと透き通るように白い。このときはさらに血の気が失せており、口の中の犬歯もまた異様なほど鋭くなっていた。
彼の意識はまだはっきりとしておらず、ふらふらと起き上がって無意識に翼を軽くはためかすと、その体は風に吹かれたかのように宙へと舞い上がった。
彼はどんどんと高く飛び、ついにはホールの天井に突き当たり、その痛みが彼の意識を少し呼び覚ました。
見下ろすと、床には柱に縛られた少年、年老いた人狼、さらには今まさに凶暴な表情で彼を睨みつけている浅黒い肌の男がいた。
男は当然のように井千陽のターゲットとなった。彼はすぐさま猛禽類のように急降下すると、両手の爪を本能的に鉄のような硬いかき爪に変化させ、男に激しい攻撃を仕掛けた。
狼王は怒りで目を剥き咆哮をあげると、その瞬間黒い巨大な狼となって迎え撃った。
両者は凄まじいスピードで絡み合い、人間の肉眼ではわずかな残像をとらえることしかできなかった。
戦力でいえば、本来狼王が井千陽を遥かに上回っているはずである。しかし、まさか敵が突然吸血鬼になるとは思わず、吸血鬼と戦った経験もなかったため、彼は混乱せざるをえなかった。
激闘の後、狼王は突如劣勢となった。全身の至る所が傷だらけで、深刻な傷痕が広がっていた。
しかし井千陽も優勢というわけではなかった。吸血鬼となったものの、まだその肉体での戦いに慣れておらず、いまだ本領を発揮できていなかった。
その時、冷ややかに声が響いた。「この毛皮、おまえにとって重要なものらしいな?」
その言葉を聞いて狼王が急に振り向くと、拘束を脱出した南宮樹が、グリシェンの毛皮のそばに立っているのが見えた。その手にはオイルランプを持ち、毛皮を燃やそうとするそぶりを見せている。
「直ちに降伏しろ。さもなければこれを燃やす!」
南宮樹は威厳のある低い声で恫喝した。その目には普段とは別人のような凶悪さが宿っていた。
狼王は激昂し、即座に井千陽を放って南宮樹に飛びかかった。
井千陽は狼王の注意が逸れている隙に、右手の爪を伸ばし鋭い錐に変化させた。容赦なく狼王の心臓を突き刺すと、瞬時に悲鳴が響き渡った。
南宮樹もこの隙をついて、血の刃で狼王の首を深く切り裂いた。相手を大量出血させるだけでなく、その体も猛毒に侵されるのだ。
狼王はグリシェンの毛皮を見ながら死に物狂いであがこうとしているようだったが、最後には耐えきれずゆっくりと倒れた。
長い戦いが今、ようやく終わりを告げた。
「千陽!大丈夫か?」
南宮樹は心配のあまり真っ先に井千陽の状態を確認するも、彼はうつろな目つきでぼんやりと立ち、ボソボソと何かをつぶやいていた。
「千陽?」
「血……」
南宮樹はよく聞こえなかったので、彼に近づいた。「何を言ってるんだ?」
次の瞬間、南宮樹の首に何か鋭利な物が突き刺さった。
「うわぁっ!」
井千陽が突然恐ろしい形相になるや、荒々しく南宮樹の首に咬みついた。鋭い歯が彼の皮膚を突き破って血管を咬みちぎり、貪るように体内の熱い血を吸った。
激しい痛みと恐怖が同時に南宮樹を襲い、彼はすぐさま井千陽が自分の血を吸い続けるのをやめさせようともがいた。
「痛い!早く放せ!千陽!」
だが井千陽は彼の悲鳴と抵抗を無視し、身動きのとれないよう抑えつけながら地面に押し倒した。そのまま彼の鮮血を吸い続け、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み込んだ。
「千……陽……っ……」
井千陽が相手だったために南宮樹は全力で抵抗することなく、その結果逃げ出すチャンスを逃してしまった。血が大量に失われるにつれて目がくらみ出し、体の力は抜け、全身が泥になってしまったかのようだった。
しばらくすると、井千陽はようやく哀れな獲物を解放し、満足そうに唇を舐めた。
彼は我に返ると、南宮樹が昏睡状態で倒れていることに気付いた。最初は困惑したが、次第に自分がなんと恐ろしいことをしてしまったのか気づき、そのショックで背筋が凍りついた。
「バカ樹!」
彼はすぐさま南宮樹の呼吸と心拍を確認した。まだ生きているとわかり、ようやく少しホッした。
井千陽は一刻も早くこの危険な場所を離れなければならないと感じていたので、大急ぎで南宮樹を引っ張り起こし、彼を背負って一歩一歩ホールの出入り口へと向かった。
向こう側では狼王が瀕死の状態にあった。もはや視線も定まらず意識も朦朧となっていた。
彼の目には、井千陽と南宮樹ではなく崔宸とグリシェンが去っていく姿が映っていた。邪悪な人間が今まさに彼の人生において最愛のものを奪い去っていこうとしていた。
「行くな……グリシェン……」狼王は目に涙を浮かべ、悲痛な声でつぶやいた。「そいつは悪い奴なんだ……嘘つきで……お前を好きなんじゃない……お前の毛皮が欲しいだけなんだ……」
狼王は残りの力を振り絞って彼らが去るのを阻止しようとしたが、無情にも、わずかに体を起こすのがやっとで立ち上がることすらできなかった。
「グリシェン……行くな……」
狼王は血の海の中で必死に哀願したが、あの夜にグリシェンを止めることができなかったように、井千陽と南宮樹の遠ざかる後ろ姿が止まることはなかった。
「眠れ……アザット・メメティよ」狼魔は狼王のそばへ来ると、子供の毛づくろいをするようにそっと彼の髪の毛を舐めた。「テングリ(天)に帰るのじゃ。真の人狼トゥーラーンに帰り、先祖と……そしてグリシェンと再会するがよい」
狼王は最後にゆっくりと目を閉じ、王としての道を歩き終えた。そして狼魔も、まもなく命の灯が消えようとしていた。
「生まれし赤子は……悲劇を経て……予言の王と……呼ぶであろう……」
狼魔はとぎれとぎれに予言を口にすると、白濁した眼球で井千陽と南宮樹の去った方向を見つめながら、小声でこう付け加えた。
「……『王』は一人にあらず」
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