8-6 「そうとも言えるじゃろうが、わしに言わせれば、これはおぬしの善じゃ」

「さっきは危なかったわね!」

 陽気な笑顔で婦人は言い、びしょ濡れになっている安卓未を見て、スーツケースを開け乾いたタオルを取り出し、このやつれた青年の頭にかけて水分を拭きながら「びしょびしょで気持ち悪いんでしょ?予備の服もあるから、髪を乾かしたら着替えるといいよ」と言った。

 安卓未はぼんやりと婦人に拭かれっぱなしで、彼女がタオルを片付けてからやっと我に返って「あなたは誰ですか?」と聞いた。

「母さん……と言いたいところなんだけど、ちょっと早すぎるかもね」

 婦人はそう呟いて少しの間考えてから胸を叩いて、「通りすがりのお人好しのおばさんよ。玉琴ユーチンと呼んでいいよ」と言った。

「玉琴さん?」安卓未は首を傾げてオウム返しをした。

 婦人──玉琴さん──の目にビクッと驚きが走り、しばらくの間じーっと見つめてから凄まじい勢いで彼に抱きついた。

「え?うっ!ええ?」

「かわいいなあ──」

 玉琴さんは大声を上げ、安卓未にしがみついたまま、「あそこで見た時から可愛いって思っていたんだけど、近くで見たら……めちゃくちゃ可愛い!なんて可愛いの!それに比べてうちのつまらない男の子たちっと言ったら!」と言った。

「つまらない男の子たちって誰のことですか?」

「それは……」

『ゴロゴロン!』

 玉琴さんの声は雷に遮られ、彼女の顔に浮かんでいた興奮が直ちに深刻に変わり、安卓未を引っ張った。

「ごめんね小未、どうやら着替える時間もなかったみたい。タオルをかけたまま進んでちょうだい」

「大丈夫です……うっ!」

 安卓未は右足がひくつく。目を向けたらズボンに大きな破れができていて、そこから出血している脛が覗いた。

 玉琴さんにもその傷が見えて、素早くスーツケースから救急箱を取り出し、傷口を洗いながら言った。

「小未はスーツケースに乗ってて。おばさんが押して進む方が早いわ」

「そのスーツケース、車椅子としても使えるんですか?」

「使えないことはないんじゃない?」

 玉琴さんは眉を上げ、消毒アルコールを安卓未に渡した。

「あれはうちの息子からもらった多機能スーツケースよ。押しやすいし丈夫だし一ダースのお土産をかけても平気なの」

「でも私はお土産じゃ……」

「そんなことはいいから。急いでいるんでしょ?」

 安卓未をスーツケースに乗せて、玉琴さんはケースの両側からシートベルトらしきゴムバンドを取り出して彼を固定させてから、一深呼吸してキャリーバーを握り、猛烈な勢いで走り出す。

 波打つ上に至る所に石が転がっている険路は、どう見てもスーツケースを引いていい道ではない。それなのに玉琴さんの押し方がうまいのかスーツケースの作りが良いのか、奇妙にも安卓未は少しもでこぼこな道を走っている実感がなかった。

 しかし山岳との距離が縮んでいくにつれて、空気はべたつくような湿気を帯びるようになってきた。まるで生きた影が意思を持って彼らを包むように、雲に覆われた空も一段と昏くなっている。

『か……帰って』

 しわがれた呟きが安卓未の耳元にまとわりつき、思わず頭をひねたらすぐさま玉琴さんに元に戻された。

「あんな声に構わないの!」

 玉琴さんは走ってスーツケースを押しながら言った。

「あれは自分が脱出できなかったから人にもここに留めほしいと考えるクズどもの声なの。だから騒音だとでも思って耳を貸さないことね」

 玉琴さんが何を言っているのか安卓未にはわからなかったが、安卓未は玉琴さんに従うと決めて、『前に道なんてないよ』『ここにいるほうが苦しまずに済む』『そろそろ清算をしてもらわねば』といったような不気味な囁きを無視することにして、まっすぐと遠くの山岳を凝視する。

 しかし声は安卓未を逃す気はないようだ。二人と箱一つがいくつの丘を乗り越えていったところで、安卓未は馴染みのある怒鳴りの声が聞こえた。

『お前は安家の男だ!俺の息子だ!泣くな怒るな怯むな!』

 父と全く変わらない声に安卓未の鼓膜が震えた。驚いて顔を上げると、彼らの前に一軒家ほど大きい黒影が立ちはだかる。

『お前は……俺のものだ!』

 黒影は巨木のような足で移動し、怒鳴りながら安卓未に迫る。

『安家の跡継ぎたる者が男色に溺れるとは、この恥知らず!恥知らず!恥知らずが!』

 安卓未は首を竦め、耳を伝って体に浸食してくるような寒気を感じたところで、自分が乗っているスーツケースが急カーブを曲がった。

「しっかり掴まって小未、絶対に落ちちゃだめだからね!」

 玉琴はそう叫んで、今までの二倍近くのスピードで走り出す。

 安卓未はゴムバンドを握り締め、黒影が向きを変えたのが目をよぎっていき、胸が早鐘を打つ。

『お前は俺たちの顔に泥を塗った!未来も希望も、代々継がれていくはずだった安家の血筋はお前に絶やされたんだ!この親不孝!一族の恥が!』

 罵声は次々に迫ってきて、安卓未はすぐさま黒影の動きによる振動を身で感じ取り、頭の上から差し込んでいた光は即座に消え、車の先頭部分と思わせるほどの巨大な黒影の拳が代わりに降り注ごうとしている。

 安卓未は反射的に頭を抱え、恐怖で身を強張らせつつ痛みが襲い掛かるのを待った。

「血筋にこだわるのなら、自分でもっと産めばよかったのではなかろうか?」

 しなやかも深みのある声がし、安卓未は少し固まってから腕を下ろし、自分がどうやら玉琴さんにどこかに突き飛ばされたことに気付いた。自分がいた場所に、青い服を着た白髪交じりの老人が現れた。

「親たる者が子供に期待を寄せるのは理解できなくはないが、限度というのがある。おぬしはやりすぎておった」

 安卓未に老人は軽くため息をつき、両手を組んで自分自身の何倍よりも大きい黒影の拳を受け止め、カンフーシューズを履いた両足はゆっくりと開き、一息を吸い込んでから一突き、一捻り、腰を回してなんと黒影を十数メートル外に投げやった。

東遊ドンヨー!」

 玉琴さんは興奮気味に叫んで、老人に抱きついてから腰に手を当てて、「遅いわよ!あたしと小未は潰されるところだったのよ!」と言った。

「すまぬ。学生から質問を受けたものでな、少し時間を取られてしまった」

 老人──東遊──は安卓未に振り向いて聞いた。

「安さんよ、無事か?」

「いいえ。これはまた、どちら様……」安卓未は眉をひそめる。東遊とは初対面のはずだが、どこか見覚えのあるような気がして、困惑せずにいられなかった。

「この人はあたしの旦那、地球であたしと血と繋がってない可愛い孫と、二人の息子に次ぐかっこいい男よ」

 玉琴さんは胸を張ってそう言い、自分の前すなわち安卓未の後ろに指をさして、「それからあの子はうちの猫」と言った。

「猫?」

「にゃあ!」

 そう聞いた安卓未の足に、尻尾が二股に別れたハチワレ猫がひょいと飛び上がった。猫は首を伸ばしてくんくんと彼を嗅ぎ、そして胸元に擦りつけてくる。

 東遊は微笑んで「どうやらベンちゃんに好かれているようじゃな」と言った。

 安卓未は目を丸くし、しばらく躊躇ってからハチワレの頭を軽く撫でる。

 その撫でにハチワレは満足げに顔を上げる。そして安卓未の太ももから飛び降りて、尻尾をピンと立てて身を振り回す。体は振るたびにぐんと一回り大きくなり、数秒もしないうち十五センチもなかった体が中型猫に、やがてミニバスのような巨大猫になった。

 その異変に安卓未はカッと目を瞠り、しばらく言葉も出ないほど呆気に取られていた。

「いいアイデアだわベンちゃん!」

 玉琴さんはぱぱっと安卓未にまとっていたゴムバンドを解き、スーツケースをうつ伏せ体勢になっている巨大猫の方へ押して言った。

「あとはベンちゃんが連れて行ってあげるから、絶対間に合うわ」

「じゃああなたたちは?」安卓未は玉琴と東遊を見比べてそう聞いた。

「あたしは一緒に乗るよ。東遊……東遊は地面に残ってあたしのスーツケースを押して、ついでに悪いやつらを殴るね」

「『殴る』んじゃない。物理的手段で落ち着かせるだけじゃ」東遊は苦笑いをした。

「それが殴るって言うのよ」

 玉琴は安卓未を猫の背中に乗せるよう支えて、彼女自身は彼の後ろに座り、屈んで猫の背中を軽くトントンと叩く。

 そこでハチワレ猫は立ち上がり、稲妻が走りまくる山岳に駆け出した。

 安卓未は猫の背中でうつ伏せ、掴んでいる猫の毛と後ろの玉琴さんの両手でバランスを維持し、周りの景色が今までの三、四倍ほどの速度で後ろに流れていくのを見て、心の中に潜んでいた不安が期待に変わっていく。

 ここがどこなのかはわからないが、安卓未は自分が冀楓晩のもとには戻れるような気がした。恋人の眉間に宿った憂いを一掃し、不安を取り除いて彼の傍に付き添える。

 そんな風に考える安卓未の甘さを嘲笑うように、猫の足元にあった土壌が崩れて砕けた。

 ハチワレはすばしっこく跳ねて穴を避けて走り出したが、すぐにまた崩れが発生し、ひとジャンプしたらまたぞろ穴ができてしまい、爪で土壌を掴んで辛うじて墜落は免れた。

「なんなんだよもう!まるでマインスイーパーじゃない!反則だよ反則!」玉琴さんはそう文句を言いながら、安卓未が墜ちないように彼の体を抑える。

 猫の動きによって安卓未の体は跳ね上がっては落ち、落ちては跳ね上がり、横目で斜め前の土壌を見て、そこで一抹の緑色を捉え、頭をひねて訝しげに言った。

「玉琴さん、前に変なツルが生えています!」

「どこ……あら、あれはポトスだわ!」

 玉琴さんは嬉々としてそう叫んで、猫に声を上げて言った。

「ベンちゃん、兄さんが着いたわよ!ポトスの生えてるところに向かってちょうだい!」

「にゃあ──」

 ハチワレは尻尾を立てて、白と緑が交じり合った葉っぱとツルを踏みながら走っていく。猫が踏んでいた場所は全部硬めの土壌だった。

 二人と一匹の猫はポトスの指示下で無事に荒野を駆け抜け、ネコ科動物の持ち前のジャンプ力で一気に三、四メートルの高さで飛び上がり、たやすく頂上に到達した。

 山頂には白く輝く洞窟があった。眩い光は安卓未に手術灯を想起させた。不思議がっていたところに、玉琴さん彼の体を一瞬に押し倒した。

 鋭く黒く焦げた枝が安卓未の頭の上を掠っていった。目を瞠ってすぐには反応できなかった隙に、枝は空中で一回転し彼の眉間を的にぶつかってくる。

 だが安卓未は無事だった。なぜなら園芸エプロンを着た一人の青年が、自分の身長の半分もある鍬を一振りで枝を弾き、枝は土に深くぶっ刺さった。

 青年はそれで動きを止めず、彼はさらに枝を生やした枯れた大木に攻撃を繰り出し、鍬の攻撃で大木はクッキーのように瞬く間に砕けた。

 安卓未は青年が鍬で残りのこの根を掘り出して、山頂から蹴り落としたのをぼんやりと見ていて、青年が振り向いてようやく我に返って思わずのけぞった。

「ごめん、びっくりした?」

 青年は照れるようにはにかんで、手に握った抜群の殺傷力を持った鍬に目をやって、「これはあの……僕は園芸屋なので、仕事でいつも持ち歩くようにしているんです」と言った。

「この世もあの世も園芸屋さんは鍬を持ち歩いたりしねーよ!」

 第三者の声がそう割り込んできて、鉢に植えた一本のポトスが小走りのようにコトコトと青年の足元へやってきて、枝葉で安卓未にお辞儀のような動きをして、また茎を立ててから言った。

「どうも、安科のお坊ちゃま。僕は名探偵ポトスと言います。どうかこの不束な助手に怯えないでください。彼は手段が乱暴なだけで、悪いやつではございませんので」

「名探偵ポトス……」

 安卓未はその響きを噛みしめて、目をキラキラさせて前のめりになった。「この名前知っています!あなたも『ベランダのポトスは騒ぎすぎ』のファンですか?」

 ポトスの枝葉は大幅にひねて、葉っぱを震わせて返事をしようとしたところで、青年に足で後ろに押された。

「彼はあのポトスの同業者です」

 青年は微笑んで、巨大猫のそばに向かって安卓未と玉琴さんに手を伸ばして言った。

「母さん、安さん、手を貸してください。今降ろしますから」

 安卓未と玉琴さんは順番に沿って彼の手を取り猫の背中から降りた。猫は体を振り回して元の大きさに戻り、山頂に着いたばかりの東遊のもとに行った。

ユンシェン!」

 東遊は目を光らせて青年をそう呼んで、彼のもとへ行った。

「途中でポトスさんを見たからなんとなくおぬしだとわかったのじゃ。どうじゃ?『来て』もらったのかい?」

「そうだよ」

 園芸屋──雲深──は手を園芸エプロンのポケットに伸ばし、柳の枝が刺さっている白磁の水瓶を取り出した。

 その瓶を見て安卓未は困惑したが、隣の玉琴さんは大仰に息を呑んで、信じられないといった顔で言った。

「まさか全部?冗談じゃないでしょ!」

「冗談なんかじゃないよ。それにこれも盗んだとかじゃないよ。『あの方』から直接にもらったんだ」

 東遊は安卓未に振り向いて言った。

「安さん、目を閉じるのじゃ」

 安卓未は目を閉じ、すぐに顔、首、手と足に水滴を撒かれたのを感じた。涼しさの後に名状し難い安心感が湧き上がった。まるで体につき纏った疲労と痛みを見えない手に払拭されていくような感触だった。

「もう開けていいよ」雲深がそう言った。

 安卓未は目を開け、瓶を閉める東遊を見て首を傾げて聞いた。

「あの中に入っていたのは何ですか?疲労や痛みを解消する特効薬のようなものでしょうか」

「そうとも言えるじゃろうが、わしに言わせれば、これはおぬしの善じゃ」

 東遊は少し笑って、輝きを放っている洞窟に指差して「そこに行くのじゃ。その洞窟を抜ければ、おぬしは馴染みの場所に戻れる」と言った。

 安卓未は洞窟に向かおうとしたが、少し歩いたところで足を止め、突っ立ったままの玉琴さん、東遊、ベンちゃんと雲深に振り向いて聞いた。

「一緒に行かないんですか?」

「あたしたちは……なんて言えばいいんだろ」玉琴さんはヘアクリップを叩いて苦笑いし、自分の旦那を横目でちらっと見る。

「そこはわしらの出口ではない。それに、あそこでの勤めはすでに果たしておる」東遊は優しくそう言った。

「でも大丈夫、君はそこにいるべきなんです」雲深は明るい笑顔でそう言った。

「にゃあ──」ベンちゃんは同調するような鳴き声をした。

 安卓未は眉をしかめて、ゆっくりと体の向きを変え、三人と一匹の猫に「それじゃあ……もう会えないんですか?」と聞いた。

「いつかは会えるのじゃ」東遊はそう言った。

「でも結構時間かかりそうだね……いや、ベンちゃんならすぐ会えるかも」雲深はハチワレを見つめる。

「にゃ!」ハチワレは得意げに尻尾をピンと立てる。

「あなたには見えないかもしれないけど、あたしたちはそちらのことが見えるのよ!」

 玉琴さんは腰に手を当ててそう言った。安卓未が未だに躊躇っているのを見て、前に出て彼を洞窟に後押しする。

 安卓未は自分が輝きに溶き込んでいくところで、玉琴さんの差し迫った声が聞こえた。

「あらまあ忘れるところだったわ!小未、戻ったらあの子にそう伝えておいて……」


※※※※


 朝の日差しに注がれる中、安卓未は目を覚ました。恍惚とした目は天井を見つめて、凄まじい夢を見た気がしたが、何があったのか具体的に思い出すことはできなかった。

 思いに耽る前に一抹の影が視界を掠っていき、思わず監視カメラを通して見ようとした途端、連携パッチを装着していないことを思い出して、ゆっくりと見回すしかなかった。

 そこで、安卓未は顔の半分が影に覆われた冀楓晩が屈んで、自分の病床に体を持たれてうたた寝しているのを見た。

 胸にぱっと熱が走り、手を冀楓晩に伸そうと、五分もかけてやっと彼の指先に触れた。

 触れ合った瞬間に冀楓晩はぱっちりと目が覚めた。安卓未と目が合い、その瞼を完全に開けることすらできていない瞳を見つめて口角をひきつけ、立ち上がってあの繊細な指を握り、そして膝をつき声もなくすすり泣きだした。

 安卓未は指を曲げて冀楓晩に引っかけ、彼が抱き締めようとしてから傷をつけてしまうのを恐れるようにまた放し、そしてまた抱き締めて、口角が微かに上がったのを感じた。

 彼は無事に、無事に戻ったのだ。

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