8-5 「とにかく、俺たちは八分通り……いや、九分通り大衆小説の中のキャラクターなんだ!」

 湯船での抱き合い以来、安卓未は冀楓晩にもう一回やりたいと四六時中に言ってきたり匂わせてくるようになったりしたが、作家はいつも「安静の妨げになる」を理由に断った。

 いや、いつもではなかった。六回のうち一回くらいはそれっぽい雰囲気になってしまい、冀楓晩に自分に恋人の介護に向いていないのではという自己懐疑に陥らせている。

 こうした攻防戦の中でも時間が過ぎていき、長いとも短いとも言えない一か月半後に、安卓未の手術予定日がやってきた。

 手術は殻の屋の医療フロアで行われることになっている。医療チームは一週間前から滞在し、安卓未の全身検査をしていた。数回のシミュレーションを経て、明け方に彼を手術室に入れた。

 林有思が手術室の外に来たとき、冀楓晩は廊下の待合椅子に座っている。椅子の前にはパソコン、ティーポットと一皿のクッキーの置いてあるテーブルが設置されている。旧友が来ているのに全く気付く様子がなく、林有思は彼の目を引くように咳払いをした。

「なんであなたがここに?」冀楓晩は眉をひそめる。

「お前の相手をする、ついでに有給消化」

 林有思は冀楓晩の隣に座り、頭を振り周囲を見回して「なんで一人だけなんだ?安實臨とあの怪力秘書はどこ行った?」と聞いた。

「安實臨は抜けない会議があって昨日ヨーロッパに発った。怪力秘書は……薪火のことか?元々彼もここにいたんだが、怖すぎて退散してもらった」

「怖すぎってどういう意味?」

「僕の向かい合わせの席に座って僕をじーっと見て口元だけ笑ってる顔をしてた」

 冀楓晩は空席となった椅子の見つめて、疲労がにじみ出た声で「あいつはおどけるつもりだと言ったが、僕がこの前に狂言自殺したのを根に持っているに違いない」と言った。

「狂言自殺ならまあ確かに……おい待て今なんて言った?俺の知らないところで何やったんだ!」林有思は椅子から跳ね上がった。

 「いいや、ただ家のベランダの壁をよじ登っただけだ。見ての通り僕は安全無事、呼吸も心拍数も異常なしだ」冀楓晩は手を振って言った。

「お前の家は八階だろ!命知らずにもほどがある!」

「はいはい、さあさあお茶でも飲もうよ」冀楓晩は林有思を引っ張って椅子に戻し、お茶を出して渡した。

 林有思はカップを手に取って、ビールでも飲んでいるかのような勢いで飲み干してからカップを下ろして真剣な顔で聞いた。

「本当に大丈夫なのか?」

 冀楓晩の足に置いていた手は微かに曲がり、しばらく黙り込んでから、「大丈夫じゃないな」とぽつりと言った。

「何か俺にできることはないか?」

「あるさ。しかもあなたにしかできない」

 冀楓晩は林有思の両目を凝視して「締め切り、あと三か月くらい伸ばしてくれないか?」と言った。

 林有思は口を噤んで、冀楓晩と十秒もの視線を交わして、手を握り締めて彼の腹に拳を食らわした。

「ぐっ!」

「今真面目な話をしてるんだ!茶化すな!」

 林有思は冀楓晩を睨みつき腕を組んで、「そんなことお前に言われるまでもない!もう六か月伸ばしてやったから、まだ足りないというなら締め切りの一か月前に言ってくれ」と言った。

 冀楓晩は腹を抱えて、微動だにせず林有思を見つめている。

「なんなんだその反応は?友人の精神状態を無視してまで原稿の催促をするほど残酷なやつじゃないんだぞこっちは!」

 林有思はキッと冀楓晩を見てから視線を逸らし、椅子に戻った。

「二日の休みを取ったんだ。たとえ安卓未の手術が予定の十一時間より長引いたとしても、お前が彼の手術を終えるのを待つのに付き合ってやれるさ」

 冀楓晩は顔を上げ、林有思がどうも冗談を言っているように見えないため、訝しげに「奥さん怒らないのか?」と聞いた。

「相手がお前のときだけはな。お前がゲイの上に、彼女が大学のとき告白したやつだからな」

 林有思は悔しそうに舌打ちし、ティーポットを掴んで自分でお茶を入れた。「だから毒でもなんでも存分吐ききればいい。今俺は編集としてではなく、十年以上の腐れ縁の仲としてここにいる」

 冀楓晩は少し目を丸くし、顔を伏せ、床を見つめて、しばらく黙り込んでからようやく林有思に聞いた。

「有思、小未の手術は成功か失敗か、どちらになると思う?」

「成功するだろう。案内してくれた看護師さんはお前のことをやたらと持ち上げていて、安卓未の世話をよくしていて、術前評価の成功率を五パーセントをもあげたとのことでな」

「三割から三割五分になっただけのことだ」

 冀楓晩は屈んで、頭を抱えて、「六割五分の確率で失敗する……失敗したらどうすればいいんだ」と言った。

「お前らもよく頑張ったんだろ。いい結果になると思う」

「努力すれば報われるとか、苦労が実を結ぶとか、そんなのは現実ではなく、小説でしか起こりえない話だ」

 冀楓晩は声を低くして「実際報われるどころか、実なんていつの間にか潰れたりして、散々苦労した挙句運に敗れるのがオチだ」と言った。

 林有思は唇を引き締め、十分近くも逡巡してから真っ白な天井を見つめた。

「晩ちゃん、俺はずっと前から、お前がどことなく実感に欠けているやつだと思ってるんだ」

「どういうこと?」冀楓晩は振り向いてそう聞いた。

「だってさ、五冊出して五冊も重版されなかった売れない作家だったお前が、家族を失った途端一晩で十万冊も飛ぶように売れるようになって、さらに二刷、三刷、四刷……数えるのがバカバカしくなるような売れっ子作家になった。出版業界が右肩下がりの今のご時世でこの売れっぷりは、通り魔に遭遇し雷に打たれそれからトラックに轢かれるよりもよっぽどやばいぞ」

「僕に文句あんのかよ」冀楓晩は口角をひきつけてそう言った。

「そこまではまだいいが、お前がスランプに陥ったら狂信者の一人、世界時価総額ランキング五位の企業の董事長がアンドロイドとしてお前のもとにやってきて、お前の面倒を見たり励ましたりして、しかも最期の時間を全部お前に費やそうとしている。あり得なさすぎる。この世の出来事だとは思えない」

「僕があの世から来たとでも言いたいのか?」

「いいや、俺が言いたいのは……」

 林有思は語尾を伸ばし、少し躊躇ってから改まった顔で言った。

「俺たちはたぶん現実ではなく、小説の中にいると思う」

「……有思、あなた最近ストレス溜まりすぎてない?」

「至って正常なんだよ!」

 林有思は声が一オクターブ上擦って、顔を赤くして腰に手を当てて言った。

「この説にはちゃんとした根拠がある。よく考えろ。お前の生い立ちは確かに現実では類稀だが、小説なら、特に大衆小説ではありきたりのことだらけだ。だから俺たちは小説の中にいるという可能性がかなり高いんだよ」

「それが何の根拠に……」

「とにかく、俺たちは八分通り……いや、九分通り大衆小説の中のキャラクターなんだ!」

 林有思は大声で無理やり冀楓晩の声を遮り、いかにも恥ずかしげながらも本気のこもった声で叫んだ。

「ここは小説の世界だ!だからここでは努力は実り、悪は倒され、愛する者同士は結ばれ、苦境を乗り越えた人間はやがて良い結末を迎えるんだ!」

 旧友の強張りつつも赤らんだ顔を見て、冀楓晩の目に宿っていた困惑と疑惑もやがて薄らいでいき、かわりに感動、笑みと少しの仕方なさが浮かび上がる。冀楓晩は手を下ろして椅子に背中を持たれて、「悲劇に終わる大衆小説もあるだろう」と言った。

「あってもここじゃない。お前は悲劇を書かない作家だから」

「言ってることめちゃくちゃだぞ」

 冀楓晩は苦笑いし、カップを手にしてお茶をすすり、固く閉ざされた手術室の扉に目をくれる。

 憂鬱や未知を前に、手を合わしたり祈ったりする者は少なくないが、冀楓晩は自分にそうする資格があるとは思えない。家族の葬式以来、彼はお香を焚くどころか、この世に神仏なんて存在せず、あるのは無常のみだと心の底から思っているからだ。

 そのため、彼はカップを握り締め、苦い不安と期待を胸に抱えて待つほかなかった。


※※※※


 冀楓晩と林有思が話している頃に、安卓未は坂を上っていた。

 自分がどこにいるのかもわからず、目を閉じて麻酔を受けて、再び目を開けたら一人で荒野に立っていた。前にはデコボコな雑草が生い茂る砂利道があり、その果てには雷光が点滅する山岳が連なっている。後ろに澄み切った川があり、川のさらに後ろには果ての見えない花畑がある。

 見た感じでは雑草より花畑のほうが上だろうが、安卓未は一瞬だけ考えた後、躊躇いもなく前に進もうと決めた。

 なぜなら、花畑の向こうに冀楓晩はいないと彼は直感的に思ったからだ。

 安卓未が考えるに、冀楓晩は花や春などといった物と縁が皆無な人物だ。彼は険しい危峰であり、警戒心の強い豹であり、苦みのある薬だ。近寄りづらく、とっつきにくく、喉にかかるようなに苦い。

 しかし一旦冀楓晩の信頼を得て、作家の隣に立つ許可さえ下りれば、晴れ渡る青空と緑林を目に収められ、柔らかな毛皮を撫でられ、癒してもらえるようになる。

 だから安卓未は陰鬱とした山岳に進んだ。作家はきっと山頂で彼を待っていると信じているからだ。

 しかし道はぬかるんだり高低があったりとしている。荒れ地を進むことは容易ではなく、体力も激しく消耗している。たとえ今の安卓未の体は昔のいつよりもすばしこくても、やがて両足は力が抜けていって速度も落とせざるを得なかった。

 そしてなにより、今彼の前になんと四十五度近くもの勾配がある坂がそびえたっている。

「は、はあ、はあ……」

 安卓未は息を切らしていた。この時、彼の体の調子は発症前よりも良いが、やはり坂道には敵わなかった。右手でツルを掴んで足への負担を減らそうとしたが、ツルは掴まれた途端切れてしまい、足元の土の地面も崩れてしまった。

 重力に引っ張れたまま墜ちていき、慌ただしく力点になれるものを掴もうとしたが、指が届く範囲は砂泥だらけで、結局坂のもとにある湖に落ちてしまった。

 安卓未は目を丸くした。坂のもとに湖なんてなかったはずだ。この湖はいつからあったんだ?

 しかし安卓未にそんなことを考える余裕もなくなっていく。息苦しさが迅速に彼の胸腔まで這い上がったからだ。

 ──早く水面へ、水面へ戻って、楓晩さんのもとに行かないと!

 安卓未は必死に足を蹴ったり手を振ったりと水面に向かおうとしたが、すでに体力と酸素が激しく消耗している体にとってそれは至難の業だった。自分が水面から遠くなっていくのを見るしかできることがなく、湖に差し込んだ光の代わりに影が彼の身を包んでいく。

 ──後生だから、私を戻して!でないと楓晩さんが泣いてしまいます!

 バス停で、自分の膝の上で、そして病床の傍で泣く冀楓晩の姿が安卓未の脳裏に浮かんだ。彼は冀楓晩の全てを愛しているが、絶望し震えて泣く姿だけは例外だった。

 もし自分が戻れなかったら、楓晩さんはきっと泣いてしまう。彼は好きな人を泣かすためではなく、彼を幸せにするために、アンドロイド人形を制御し作家のもとにやってきた。だから絶対に戻らなければならない。

 安卓未は水の中で歯を食いしばり、最後の力を振り絞って腕を伸ばし、なんとか湖から出ようと必死にもがく。

 そして輝きから一人の手が現れ、安卓未をしっかりと掴んで、彼を湖から引っ張り出した。

「ゴホン、くっ……ゴホンゴホン!」

 安卓未が湖の岸辺に跪いて咳をしていた時、誰かに背中をさすってもらったような気がした。彼は困惑しながら振り向いたら、金属光沢を放っているスーツケースと、自分の左側にしゃがんで、ヘアクリップで髪を留めた一人の婦人が見えた。

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