8-4 「それから、何かとすぐ勃起するのは確かに変態っちゃ変態だな」

 冀楓晩は安卓未の涙を拭い去り、安卓未が泣き疲れて眠りにつくまでの半時間近くの間を経てから、部屋を後にした。

 扉が開く途端案の定、薪火、医者の一人、看護師の一人、安實臨と宇宙飛行士のように着込んだ一人の変人が目の前に現れた。

 薪火以外の全員は目を赤くして冀楓晩を凝視し、作家が反射的にのけぞる前に一瞬彼に抱きついた。

 このリアクションから、今の会話は全て中継されていたことがわかった。想定内のことではあるが、さすがに恥じらいの気持ちを覚えざるを得なかった。固まって少し経ってから力んで彼らを押し退け、仏頂面をして安卓未のこれからについて話があると伝えた。

 それを聞いて、冀楓晩を抱きついていた安實臨、医者、看護師と宇宙服を着ている変人はすぐさま理性を取り戻し、作家を引っ張って下のフロアにあるプレゼン会場まで案内した。

 プレゼン会場の中で、冀楓晩はふたたびアンドロイドの組み立てマニュアルを読んでいたときの苦痛を味わう羽目になった。医者、看護師、安實臨と艾希──あの宇宙服を着ていた変人、即ち安卓未が『希兄さん』と呼ぶ人物──は医学用語と機械用語を彼にぶちまけて、唯一全員に落ち着いて話をさせることのできる量子コンピュータは隣でのんびりと飲んでも意味がない紅茶を手に持ち、人間同士が互いをいたぶり合っているのを愉快そうに眺めている。

 ──こいつ絶対わざとだろ!

 冀楓晩は薪火を睨みつけ、自分をさらに煽るような笑みを見て、彼に助けを求めるのを諦め、マシンガンの弾ごとく飛んでくる専門用語を理解しなければならないのだとわかった。

 二時間近く頭を使っていたら、冀楓晩はようやく安卓未が今どのような状態に置かれているのを一応理解できた。安卓未の体に移植した人工ニューロンは病気により機能を失った神経の代わりに体の制御を行い、支援装置──彼の首に貼ってある金属繊維パッチ──のサポートでコンピュータを制御できるはずだったが、拒絶反応で体とコンピュータのどちらかを制御するかを選択しなければならない局面になり、しかも制御能力自体も右肩下がりしている。

 この局面を乗り切るには体の調子をベストに整えなければならず、よってコンピュータとの連携を完全に断ち切ることが最善だと思われた。

 そのために冀楓晩は禁煙し、安卓未の面倒を見るために彼の部屋に引っ越した。

 この一見辻褄が合わない行動は、冀楓晩の熟考を重ねた結果だった。

 このようなことを言うと安科グループの法務部門に白い目で見られるかもしれないが、安卓未がコンピュータと連携していたとき最も時間を費やしてやっていたことは大好きな作家を覗き見だったので、安卓未がこっそりコンピュータと連携を取るのを防ぐには、作家本人を生身で彼の目の前に置いておくことが最も有効なのは火を見るより明らかだった。

 しかもこの決断によって安卓未の鬱悶は晴れ、冀楓晩も彼がきちんとリハビリや療養しているかをこの目で確認できる。原稿の進捗が大幅に遅れるだけが唯一の欠点だった。

 こうして、出版社だけが損をする布陣が出来上がった。薪火らはたったの三日間で安卓未の部屋に冀楓晩の居住スペースを用意し、パソコンテーブル、ソファー、テレビ、ゲーム機、いくつかの本棚、シンプルキッチンと三人も余裕に入るキングサイズベッドを含むが上述に限らないあらゆる家具を配置した。

 ベッドのサイズについて冀楓晩は文句を言いたかったが、安卓未はベッドを見た途端目をキラキラさせ、安實臨も弟さえよければ何でもいいといった体で、薪火は冀楓晩が頭を悩ますのを面白がっているようで、結局オーバーサイズのベッドで寝るしかなかった。

 幸いなことに冀楓晩にもベッドのサイズで悩む余裕がなく、引っ越してきた初日から安卓未の介護を引き受け、看護師から患者の移動介助、筋肉をほぐすマッサージの仕方、リハビリ協力と医療機器のあらゆる表示光の色と数値の意味を学ぶことになったからだ。

 冀楓晩の予想を上回る重労働だった。だがどれだけ疲れていても、火事にまつわる夢を見ることはもうなかった。

 それは、自分はすでに火事場を駆け回っているからだろうと彼は思った。

 ※※※※

 熱めの湯が上と左右から降り注ぎ、冀楓晩の頭から、両肩、胸元、背中まで強力な水流で彼の肌が痛気持ちよく感じるほど洗った。

 彼が今立っているのは殻の屋にある医療フロアのリハビリ室に備えてあるバスルームのシャワールームだ。この安卓未のために作られたバスルームは広く明るく、いくつかのスパ噴水口が設置されているが、車椅子で入ってきても狭く感じることはない。滑り防止座り場、手すり、アラームなども欠けることなく、壁には安卓未にメッセージを出力させるためのスピーカーとモニターまで配置されている。

 今この時安卓未は湯船に浸かっている。四か月以上の安静とリハビリを経て、彼は座ることとゆっくり歩くことができるようになり、簡単な言葉も言えるようになった。それで冀楓晩は安心して彼に背を向けてシャワーを浴びられるようになったわけだ。

「ふぅ……」

 冀楓晩はそう長い息を吐いてシャワーを止め、身を翻して壁に掛けていたタオルを手に取り体と髪を拭き、ショートパンツを履いて湯船に向かう。

 湯船に浸かっている安卓未は頭を縁にもたれ、まじまじと冀楓晩を見ている。それで冀楓晩は頭を振り返る必要もなく、出迎えに来た子猫のように小作りな顔に隠せない喜びの表情を浮かべている安卓未が見えた。

 冀楓晩は仕方ないといった風に湯船の隣に立って腕組みをして「きちんと階に座れって何度も言っただろう。こんなひねた体勢じゃまた転ぶぞ」と言った。

「座ったら……あなたが……見えなくなる……」

「振り向けば見えるだろう。首周りの筋肉の鍛錬にもなるし」

 冀楓晩は屈んで安卓未の腕に触れ、その温かみを確かめてから「そろそろかな……もう出ていいぞ。これ以上浸かったら、血行を良くするどころか、のぼせるからな」と言った。

「はい」

 安卓未は少し腕をあげると、何かまずいことに気づきでもしたかのように、自分のできる範囲の最大速度で腕を降ろした。「ちょっと……待って……もう……少し」

「じゃあもう五分くれてやる」

 冀楓晩は湯船の上のモニターでアラームを設置し、湯船の隣の風呂椅子に座り、棚にかけていたタオルで顔を伏せて水滴を垂らしている髪をゆっくりと拭き始める。

 五分はすぐさま過ぎていった。アラームが鳴る中で冀楓晩はタオルを降ろし、安卓未を湯船から運び出そうと椅子から立ち上がって手を伸ばした途端、いつも自分に付きまといたがっている青年は逆方向に身を縮んだ。冀楓晩は手を止めて「どうした?まだ浸かりたいのか?」と聞いた。

「いいえ……はい、はい!」

 安卓未は力を振り絞ってうなずきながら、冀楓晩を離れるように身を動かす。

 出会い始めの頃だったら冀楓晩はそのセリフに騙されていたかもしれないが、一緒にいて半年以上も経っている今頃では、目の前の青年は不審極まりなく見えた。冀楓晩は眉間にしわを寄せ、彼の周りを見回してから湿気を帯びた小作りな顔を見て、彼が今手を置いている場所が何だかおかしいとすぐに気づいた。

 安卓未の両手は腹と股間の間に重ねて、柵のように伸びた指の隙間から微かな肌色が見て取れた。

 細かく見ずとも、それが何なのか冀楓晩はすぐにわかった。

「勃ったんだな」

 冀楓晩は顔を伏せ水面に近づき、指の間から覗く性器を見つめて「いいじゃないか。性欲は健康のしるしの一つだ。いい具合に回復してる証だ」と言った。

「あなたは……」

 安卓未は目を丸くして二、三秒ほど呆気に取られてから「変態だと……思わない?」と聞いた。

「なにが?」

「……」

「小未?」冀楓晩は眉を上げた。

「だって……」

 安卓未は顔を伏せてぽつりと「何かとすぐ……勃起するの……変態って……言うらしい……」と言った。

 冀楓晩は唇を締め、不安そうなやつれた青年を見つめて、しばらく経ってから彼の額を指でほじった。

「うっ!」

「『言うらしい』んじゃない。あなたまたこっそりネットを見てたんだな?」

 冀楓晩は手を下ろして腰に当てて「完全にネットを切断しなかったのは緊急事態下で助けを呼べなくなることを防ぐのであって、中身のないコンテンツファームを見せるためじゃない。今度見つかったら回線速度をダイヤルアップ接続レベルに落としてやるからな」と言った。

「はい……」

「それから、何かとすぐ勃起するのは確かに変態っちゃ変態だな」

「ひっ!」

「だけどあなたは違うだろ?」

 冀楓晩は湯船の縁に座り、身を傾けて安卓未に近づいて彼の頬を撫でて「僕が風呂に入ってるのを見たから勃起した。他の人だったら勃たなかった。そうだろ?」と言った。

「はい……」

 安卓未はそう答えたが、視線は冀楓晩の顔ではなく、彼の上半身に据えている。ガタイがいいとまではいかないがよく引き締まっている。優雅なラインを引いた胸元と腹部は水面から露になっていて、拭ききれなかった水滴と水面から立ち上ってくる湯気が筋肉の輪郭をとり、その景色に安卓未はごくりと唾を飲まずにいられなかった。

「でも一番大事なのは……」

 冀楓晩は語尾を伸ばし、安卓未の耳元で声を落として「あなたが変態なのはとっくに知っている。だから隠す必要はない」と囁いた。

 その色気漂うバリトンに安卓未は力が抜け、それから冀楓晩の言葉に胸を貫かれたように硬直し、頭を横に振って「ち、違う……私、ちが……」と言った。

「あなた、僕の変態な子猫ちゃんじゃなかった?」

「はい……いえ、う……私……うっ!」

 安卓未は目を丸くした。なぜなら冀楓晩は忽然と彼の顎を上げて、唇を重ねてきたからだ。

 冀楓晩は軽くキスを落とし、そのいたいけな唇と舌に吸いついて、彼が酸欠になりかけたところで後ずさった。目の前の赤く染まって、モヤのかかったような目をした顔に触れ、冀楓晩は愉快そうに口角を吊り上げて「では……これからナニする?」と言った。

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