最終章 アンドロイド人形と点滴スタンド
8-1 「あなたが私の電話に出てくれましたから」
あれから一週間、冀楓晩は小未がいなくなる前の生活に戻った。バランスの良い食事を一日三回をとり、朝にランニングし午後に筋トレをして、夜十一時に電気を消し就寝する。
しかし原稿の進捗はゼロのままだった。書けないというわけではなく、ワープロソフトを起動すらしていなかったからだ。
冀楓晩は運動、家事と生理的欲求を処理する以外の時間を全て読書に充てた。安卓未、安實臨に限らず、彼らの両親の伝記、インタビュー、新聞記事とあらゆる検索できる映像資料なども読んで観ていた。この七日間原稿は一文字とも進んでいなかったが、まとめた安家にまつわる資料はなんと十万字を超えていた。
薪火がアパートに着く一分前まで、彼はまだ安科グループの年間発表会のアーカイブを観ていて、薪火からの電話がかかってきてようやくパソコンの電源を落とし、アパートを出てランボルギーニに乗り込んだ。
運転席に座っている薪火は冀楓晩を眺め、微笑んで「お久しぶりです。顔色が良いですね」と言った。
「体力をつけておいたからな」
冀楓晩はドアを閉め、シートベルトを着用して「車を出してください。早く終わらせたいんだ」と言った。
「終わったら夕食どうします?研究開発施設にレストランも設えております」
「それは結論次第だな」
「こんなことを言われると、良いほうと悪いほうのどちらを期待すべきかわからなくなります」
薪火は苦笑いし、アクセルを踏んで車を走らせた。
ランボルギーニが一時間半ほど道路を走って、都市圏外に位置する安科グループトップ研究開発施設に到着した。施設の出入口のゲートは車が近づく前に自動に開いたので、車は速度を落とすことなくすんなりと施設内に入った。
冀楓晩は車窓越しに連なっている銀白色の柱のようなビル群を眺める。ビルにかかる橋を人々は行きかい、半透明の半合金製輸送用道路も備え付けており、遠くからはいかにもSF映画に出てきそうな機械文明都市かのように見えた。
薪火はハンドルを切り、ビル群を離れてもう一つのゲートを通り過ぎ、低木、花壇と白い彫刻群のガーディアンを抜け、巨大なドーム型建物の前に車を止めた。
「ここが小未が擁する住居および研究所です」
薪火はそう言いながら車を降り、助手席のドアを開けて「小未が四日前にようやく集中治療室を出たのに鑑み、念のために全身消毒と着替えをさせていただくことになりますが、いかがでしょうか?」と言った。
「身の回りの物も持ち込んではダメなのか?」
「消毒可能な物ならばジッパーバッグに入れて、バッグ丸ごと消毒することをお勧めいたします」
「じゃあそうする。ジッパーバッグ二つをください」
「承知しました」
薪火は冀楓晩をドーム型建物の中に案内し、合金製ドアをいくつか通り抜けてエレベーターの箱のような消毒部屋にたどり着き、作家に服をすべて脱げるように指示した。
冀楓晩は消毒部屋に十分余り立ち、水洗いをしてから乾燥し、それから消毒液スプレーをまく。上下も白に揃った服を着て向こう側のドアから消毒部屋を出て顔をあげたら目の前に薪火が立っていて、その身にまとったスーツは紺青から暗赤色になった。
「その服って……」
冀楓晩は固まり、薪火の微笑みを見て「体を丸ごと変えたのか?」と聞いた。
「はい、これは殻の屋専用に作られるもので、外部との接触は一切なく、定期に消毒を行えば良い代物です」
「殻の屋?」
「この房舎の名前です。ではこちらへどうぞ」
薪火は促すように手を前に出し、冀楓晩をコンベアとガラスの引幕が取り付けられた回廊を通って、エレベーターに乗り最上階まで案内した。
「そちらが小未の部屋です」
薪火はそう言い、金糸雀色の扉の前に立ち留まった。彼は扉に開くよう指示を出すではなく、振り向いて冀楓晩に「今のところ彼はコンピュータと連携しテキストメッセージを送るのと、小幅に面部及び両手の筋肉を辛うじて制御できるほどしか回復できておりません。まだまともに喋ることができないし、彼の感情を激しく起伏させるようなこともお控えいただければと思います」と言った。
冀楓晩はしばらく黙り込んで周囲を見回す。「ここに医者はいないのか?」
「この階にはいませんが、下の階にはいます。そこに手術室、無菌集中治療室とリハビリセンターが設けられていますので。なぜそれを?」
「彼の感情を激しく起伏させてしまうようなことは後で絶対に起こるから」
冀楓晩は無表情でそう宣い、扉が依然として締まっているのを見て「開けないのか?」と指差して聞いた。
薪火は唇を締めて二、三秒ほど経ってから扉を開けて「医者に隣の部屋で待機するように伝えておきます。どうかお手柔らかにお願いします」とため息をついた。
「それは保証できないな」
冀楓晩は部屋に足を踏み入れ、目に入ったのは自分のアパートよりも広く、カーブ状となっている部屋だった。部屋の東側も天井も透明な強化ガラスでできており、顔を上げれば研究開発施設の半分ほどを俯瞰でき、リゾートホテルを彷彿とさせるほどの絶景だった。
しかしそんなだだっ広い部屋には椅子と病床一つ、およびそれらを取り囲む電子機器しか置いてなかった。たとえその機器の数は普通よりも二倍以上上回ろうと、部屋の侘しさを払拭することはできなかった。
冀楓晩は遠くから病床を見つめ、突っ立ってしばらく経ってから歩いて病床の傍に立ち留まった。
そこで、本物の安卓未を目にした。
安卓未が最後に映像としての記録を残しているのは十九歳の頃で、アンドロイドともさほど変わらなかったので、今二十一歳である本物の安卓未はアンドロイドよりいくらか大人びて見えるだろうと冀楓晩は予想していた。
しかしその予想は外れた。本物の安卓未は骨格がまともに成長しておらず、アンドロイドよりも一回り瘦せ細っている。肌色が白く、脂肪と筋肉はほとんど落ちていて、骨に皮を着せたとまではいかないものの、マシとも言えぬ状態である。
脱毛を施してある頭頂と鳥の翼のように首筋から後頭部にかけた金属繊維パッチもまた病的な雰囲気に拍車をかけ、その姿を見るだけで死が迫ってきているのを実感させられる。
冀楓晩は胸が締め付けられるのを感じ、なんとか気持ちを堪えて「あなたが安卓未なのか?」と聞いた。
安卓未は返事しなかったが、びくりと目が震え、病床の上に設置してあるモニターが着信音のような音を出した。「はい」との二文字がモニターに浮かび上がり、それを平坦な機械音声が読み上げた。
冀楓晩は病床側の椅子に座り、「いくつかの質問があるんだ。答えてくれなければ、僕は直ちにここから退散し、あなたから送られる物をすべて断る」と言った。
「そしてベランダから飛び降りるんですか?」安卓未は目を見張った。
「今のところそのつもりはない。まず第一、僕のためにここまでする理由は?」
冀楓晩は安卓未を見下ろす体勢で厳しい口調で言い放った。
「言っておくが『楓晩さんのことが好きだから』と言うのはなしだ。なんでそこまで好きなのかを聞いている。僕のファンだからと言うのも禁止だ。そりゃ気違いなファンだってこの世にはいるだろうが、あなたがそうだとは思えない」
安卓未は唇を締め、モニターを通して「あなたが私の電話に出てくれましたから」と答えた。
「アンドロイドが届く前に電話を?」
「はい、何度も」
「そんなにかけてたのなら僕が知らないわけが……」
冀楓晩はきゅっと硬直し、なんとなく二年間続いていた、あの名前どころか、片言すら吐いたことのない無言電話を思い出し、愕然とし眉を上げた。「あのいたずら電話はあなただったのか?」
「あなたは優しく、物語を述べてくださいました。しかも私が喋っていなかったり変な音を出したりしても、あなたは電話を切らないでくれました」安卓未は小幅に頭を縦に振り、機械音声で言った。
冀楓晩は目を丸くし、安卓未をしばらく凝視してから、「あんなんで……あんな取るに取らないことで、命を懸けようとしているのか?」と小声で言った。
「取るに取らないことなんかじゃありません!」
機械音声の音量は一倍ほど大きくなり、安卓未は目に涙を滲ませ唇を震わせた。「私に付き合ってくれたのは楓晩さんしかいませんでした。私が泣き喚いても怒らず、私の声に耳を傾けて、なんで私がそうしていたのかを考えてくれました」
──僕しかいないわけないだろ!
冀楓晩はそう言おうとしたが、この一週間閲覧した安家にまつわるあらゆる資料を思い出した。
そういった映像と資料の中で、安卓未は発表台にいようが病床や車椅子にいようが、終始その明るい笑顔を浮かべていた。彼を取り囲む人間がこの天才エンジニアに言及するときも、常に「病気と闘う」、「他人に希望を与える楽観さ」、「両親の意思を継いだ翼の折れた天使」といった枕詞がついていた。
もしあれらがすべて虚像だったとしたら……いや、安卓未の泣き声を聞いていた冀楓晩には虚像に違いなかった。あの立派で前向きな天才は企業イメージ向上のために作られた虚像に過ぎず、本当は涙も痛みも心の底へ無理やり押し込んだ孤独感を抱えた一人の患者だった、
冀楓晩に見たはずもないのに、まるで直接見たかのような鮮明な場面が脳裏をよぎった。星も夜景も目にできるだだっ広い部屋の中で、小柄、繊細かつ病弱な患者が全ての人が退室した後に笑顔を収め、声にならない悲鳴を上げ、生気ない泣き方をし、身動きできずにベッドシートを引っ張るのが目に浮かんだ。
冀楓晩のその推察を証左するように、安卓未は小刻みに震えている指先でモニターを通して、「父に『お前は安家の男だ。強くなるんだ』と言われました。母に『泣けば泣くほどつらくなる。楽しいことを考えるか、勉強をしなさい』と言われました。兄は私のことを可愛がってくれていますが、彼はとても忙しくて疲労していて、もうこれ以上負担をかけてはいけません。薪火と希兄さんはそんな私を思って、こっそりと時間つぶしになる、回線が繋がっている携帯をくれました」と言った。
「それで僕に電話をかけた」
冀楓晩は肩を落とし、額に手を当てて「まったくもう……もし僕が恋愛詐欺師だったらどうなるかわかっているのか?軽々しく知らない人に心を曝け出すなよ!」と言った。
「そんな人は私の泣き声を聞いたり、物語を作って述べてくれたりしません」
安卓未は少しだけ口角を吊り上げた。
「あなたは優しく私を心配してくれていました。大好きです」
冀楓晩は左手を握り締め、しばらく黙り込んでから目を逸らして「じゃあ二つ目の質問だ。あなたが惚れたのは電話の中の僕だったとして、アンドロイドとして家に来た時は幻滅しなかったか?」と聞いた。
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