7-4 冀楓晩はいつの間にかドアの隙間から漏れてきた光を見つめ、口角が上がって微かに震えた。
薪火は冀楓晩の思惑に気づいたようで、彼のアパートに到着するまで、彼に話しかけることはなかった。
冀楓晩は車から降りて家に帰り、十分ほど汗をシャワーで流してから、書斎に行って原稿を進もうとパソコンを立ち上げた。想定内のことだが、自分の調子は小未が来る前の状態に逆戻りした。
いや、悪化と言ったほうが正しいかもしれない。冀楓晩は真っ白なワープロソフトを眺めて、六回もスクリーンセイバーが起動してから深くため息をつきながらパソコンの電源を落とした。そして、書斎の電気も消して、寝室に向かった。
普段の就寝時間まであと二時間以上もあるが、体力が底につき、精神も大きく消耗している今なら、ベッドに入る途端眠りにつくだろうと思っていた。
しかしそうはいかなかった。手足が重たく意識も混濁しているが、どう寝返りを打っても眠りにつかず、覚醒と睡眠の間に挟まれ立ち往生していた。
冀楓晩が酒を飲んだり運動したりでもしようかと考えるところで、ドアの外からどすんと重いものが落ちた音がした。
『ドン!』
「しっ!静かに!晚ちゃんがまだ寝ているよ」
「わざとやったわけじゃないよ……でもやっと入れた。もう手がぐだぐだだよ」
「カバン寄越して。座って休みなさい」
「にゃぁ──」
「しっ!」
青年、中年女性と男性の声と猫の鳴き声が混ざり合った。冀楓晩はいつの間にかドアの隙間から漏れてきた光を見つめ、口角が上がって微かに震えた。彼は布団から出て裸足でドアの傍に歩いて、板に寄りかかりながら座った。
「うん?え?あれ?
「スーツケースに入ってるんじゃなかった?飛行機に乗ってたときあなたが入れたのを見たんだけど」
「あたしもそう思うのだけれど……ちょっとベンちゃんソファで爪とぐのやめなさい!」
「む……っ」
冀楓晩は耳をドアに当て、その中身も他愛もない砕けた会話を聞いて、口角の角度が大きくなるのと同時に、両目に涙が溜まっていく。
涙がこぼれ落ちそうになったところで、部屋内で聞いたことのない声がした。
「ドアを開けて彼らを見なくていいのかい?」
肩がびくっと震え、冀楓晩は声のした方向に振り向き、誰もいないはずのベッド側に、陰に潜んでいて顔の見えない人影が見えた。
「ドアを開けなくていいのかい?会いたかったはずでしょう」
人影は囁くようにそう聞いた。すらりとした体型からも、声の高さからも性別がわからず、冀楓晩の記憶にある人間の誰にでも当てはまらない。
しかし冀楓晩に恐怖の気持ちはない。なぜならそれは……
「ドアを開けたところで仏壇が見えるだけだ。彼らには会えない」
冀楓晩はこめかみをドアに当て、無表情で言った。
「この夢はもう何度も見た。ドアの向こうに何があるのかはよくわかっている」
「それで彼らに会うつもりはないと?」
「言っただろう。開けても彼らには会えない」
冀楓晩は人影を一瞥し、「今回の夢に少し変わったところがあっても、ドアの向こうにあるものが変わることはない」と言った。
「変わろうが変わるまいが、彼らはドアの向こうにいる」
「だから言っただろうが!向こうには仏壇があるだけで、彼らは……」
「そこであなたを待っている」
人影は冀楓晩の声を遮り、ぎっしり締まっているドアに指差し「彼らはそこにいる。そこで、あなたの手が届くところで、永遠にあなたに付き添っている」と言った。
冀楓晩は愕然とし、たちまち人影が言わんとしていることに気づき、両目はすぐさま火が噴きだすように怒りに染まった。彼は立ち上がって人影に叫んだ。
「そんなわけあるか!どうせあんたは『忘れない限り、死者は永遠に心の中で生きている』とでも嘯くつもりだろ?あんなのは真っ赤な嘘だ。人間は死んだら終わりだ。僕の家族はどこにもいない。彼らに触れることはもうできないんだ!」
「生きた人間の手で死者に触れるのは確かにできないが、私たちには手以外にも、両目と意志を持っている」
「あんな非現実的な唯心論……」
「家族の顔をまだ覚えてるかい?」
「そんなの当たりま……うっ」
言葉は喉に引っかかり、冀楓晩は狼狽えて目を見張った。家族の声ははっきりと思い出せるが、彼らの顔の輪郭を掴むことはできなかった。
驚くことではない。なぜなら冀楓晩は家族がこの世を去ったことを意識してから、両親、兄、猫と一緒にいた場所に行けなくなり、彼らの映った写真を直に見ることさえできなくなったからだ。
「彼らのことを記憶から消してしまいたいのかい?」人影は囁くように聞いた。
「ぼ、僕は……」
冀楓晩は口を数回パクパクさせてから、両手で顔を覆った。「じゃあどうしろって言うんだよ!ぼ、僕は……みんながいなくなった事実を受け入れられないんだよ!頑張ってはみたんだよ!でもダメだったんだ!僕、僕は……彼らに死んでほしくなかったんだよ!一人で仏壇にいるの嫌だったんだよ!僕は……」
冀楓晩は最後まで言えなかった。それは人影が忽然と彼を抱きしめたからだ。線香のあっさりした香りが作家の身をまとう。人影は彼の背中をさすった。
「別れを告げない限り、彼らに再び会えることはない」
「別れなんて告げたくない」
「誰も告げたくはないのさ」
「なんで僕がこんな目に?」
「誰もいつかは合うのさ」
「怖いよ」
「怖いのは誰も同じさ」
「本当にドアを開けなきゃいけないのか?」
「そう。やがて起こることから逃れることはできないのだから」
人影は冀楓晩を放し、彼の頬を撫でた。
「ただあなたは一人ではない。あなたの家族も私も、生まれた時から、亡くなってもずっと、あなたの傍にいる」
冀楓晩は目を見張った。後ろのドアからぱっと金色の輝きが滲み出し、人影の温かな微笑とその手に持っている柳の枝と
※※※※
涙の跡がついたまま、冀楓晩は目が覚めた。掃き出し窓越しに灼熱の日差しを眺めてしばらく経ってから、ゆっくりとベッドから起き上がった。
彼はアパートの半分をも占めていた服を片付け、キュウリとトマトを洗って腹に詰め込んだ。すべてが終わってから、ベランダに行ってタバコに火をつけ、煙越しに道路を行きかう車と人々を俯瞰する。
この俯瞰はまるまる二時間続いた。冀楓晩はタバコの火をにじり消し、携帯を取りに室内に行ってから、またベランダに戻って数回深呼吸をして、足を広げ、塀の上に跨ぐように乗った。
乗ってから一秒を経ったところで、ポケットに入った携帯が鳴り出した。彼は携帯を取り出して通話ボタンを押した。「薪火か?」
「楓晩さん、早まったことをしないでください。カウンセラーの予約も、金銭的ほかあらゆるサポートを喜んで提供いたしますので」
「要らん。僕の問題はすでに解決済みだ……よいしょっと」
冀楓晩は身を翻してベランダに戻り、アルミ製の引き戸に寄りかかって「自殺するつもりはない。ただあんたに用事があるからちょっとした賭けをしてみたんだ」と言った。
「自分の命で賭けをするのは合理的ではありません」
「場合にもよる。安卓未と面と向かって会いたいんだ。手配してくれる?」
「……」
「ダメか?」冀楓晩は漂う雲を眺めてそう聞いた。
「小未はあなたに会いたがりません。言っておきますが、あなたのことを嫌っているわけではありません。ただ病気でやつれている姿をあなたに見せたくないということです」
「たとえ僕がここから飛び降りようとしても?」
「どこから飛び降りるというのです?」薪火は一秒固まってからそう聞いた。
「ここ」
冀楓晩は足を上げて百センチ余りの塀を蹴ってみせる。「八階から飛び降りたら、死に至らなかったとしても大怪我はするだろ?」
「楓晩さん……」
「安卓未に伝えておけ。会わなかったら、僕はここから飛び降りるってな」
「おやめください。たちの悪い
「間違いなくそうだろうな。僕は安卓未の兄から恐喝を受け、そして恐喝でやり返す。兄から売りつけられた恨みは弟に晴らしてもらわねば」
冀楓晩は肩をすくめ、携帯の画面に映っている時計をちらっと見て言った。
「十分をくれてやる。……十二時四十七分までに返事しろ。もし返事がノーあるいは返事がなかった場合は僕がここから飛び降りる」
電話の向こうはだんまりを決め込んだ。冀楓晩は携帯をスピーカーモードにして洗濯機の上に置き、タバコケースから最後の一本を取り出して火をつけ、空に向かって煙をくすぶらせる。
それからおよそ七、八分が経ち、薪火の声がした。
「小未は会うと言ってくれました。しかし彼はまだ集中治療室を出ておらず、今すぐ会えるというわけではありません。面会時間を来週水曜日午後に延期できるのでしょうか?」
「いいだろう。住所を送って僕が自分で行くか、それとも迎えに来てくれる?」
「私がお迎えに行きます」
「じゃあまた来週」
冀楓晩が通話終了ボタンを押そうと画面にタップしようとしたところで、薪火は聞いた。
「何をするおつもりなんです?」
「……」
「私には言えないようなことですか?」
「……」
「楓晩さっ……」
「わからない」
冀楓晩の声は震えを帯びはじめ、右手で左手の腕をつかんで、指をこわばらせる。
「僕は気が変わったり、約束を取り消したり、あるいは遥かどこかへ逃げていなくなったりするかもしれない。だから……わからないんだ」
「……」
「じゃあ水曜日午後でな」
冀楓晩は素早く電話を切り、小刻みに揺れ動いている指先を見つめて、一深呼吸をしてゆっくりと屈み込む。
怖いのだ。彼は。
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