7-3 「常識に反するように見えるがもう一度言わせてもらいます。あなたが感情的な状態で下したあの決断は至って合理的です」
一階に着いても冀楓晩は足を止めなかった。彼はかえって全身の力を振り絞り足をさらに速めてビルを出て、七つもの交差点を走り通り、八つ目の交差点でようやく力が尽き果てて足を止めた。
「はあぁっはあぁっはあぁ……っ」
冀楓晩は爆発しそうな胸を抑えて息を弾ませ、とぼとぼしい足取りで後ずさり、後ろの洋服店の陳列窓に背を預けて、その場でへたり込んだ。
何人か通りすがりの人たちは冀楓晩のことを意識していた。しかし、彼は狂気じみた目をしており、信号も赤から青に変わったため、心配する人はいても彼に声をかける人はいなかった。
行き交う人々を黙り込んで見つめながら、冀楓晩は陳列窓にもたれてゆっくりと立ち上がったが前に進まなかった。彼はただガラス窓に背を預けたまま、顔を上げ空を見つめている。
空は厚い雲に覆われ、雨粒こそ落ちてこないものの、空気はすでにべたつくような湿気を帯びている。街を歩いている人々は傘をさすのを準備しているか、室内に向かうよう足を速め始めるかのどちらかだった。
冀楓晩は突っ立ったまま暗くなっていく空を見つめている。足を動かす力も、雨具や雨宿りできる場所を探す気もなく、虚ろな目にどんよりした雲が映り、彼はひたすら一滴の雨粒が落ちてくるのを待っていた。
ただ雨に頬を打たれる前に、彼の耳はクラクションに耳をつんざかれた。
クラクションを鳴らしたのは青のランボルギーニだった。車窓がゆっくりと下がり、中にいる薪火が顔を見せて、冀楓晩に微笑んだ。
「乗りますか?」
冀楓晩は薪火の微笑みを見つめて、五、六秒ほど経ってから起き上がり、車の隣に歩いて、ドアを開け助手席に乗り込んだ。
「シートベルトを着用してくださいね」
薪火はドアのロックをかけアクセルを踏み、少々大げさにため息をついた。「良かったです。てっきり断られるかと思いました」
「疲れた」冀楓晩はか弱い声で返事をし、背もたれに寄りかかって目を閉じた。
「どこまで送ってほしいのですか?」
「どこでもいい」
「ではお宅まで送りましょうか」
薪火はハンドルを切り、横目で冀楓晩をちらっと見る。そちらから話す気はないようで、自ら話を切り出した。「本当に変わった方ですね。普通は落ち着いた状態でも合理的な判断を下せるとは限らないというのに、あなたはあんな感情的な状態にいながらも理性的な行動を取ることができました」
「皮肉なこと言うなあ」
「すみません、そういうつもりはなかったのです」
薪火は微笑んでから、その笑みを収めた。
「小未に残りの時間をアンドロイドの開発に使わせるのはもっとも合理的な判断です。申し訳ない気持ちを持つ必要はありません。特に實臨には」
「あいつと仲が悪いのか?」
「實臨と、という意味ですか?仲は良いし彼のことも好きですが、彼のあなたへの接し方が嫌いなだけです」
薪火は目を細め、前方の車列を見つめながら話を続けた。
「親族を失う悲しみを知りながらも、何の躊躇もなくそれを武器にしてあなたを脅かしたのですから」
「それは彼が小未を大切にしているからだろう」
「小未は彼がそんな風にあなたに押しつけるのを望んでいません」薪火は眉根を寄せた。「手段を選ばないにしても度が過ぎた。ビジネス上のライバルでもなく、厳密に言えば恩人であるあなたに、そうすべきではありませんでした」
「僕のことをビジネス上のライバルだと思ってたんだ?それは恐れ入ったな……」
冀楓晩の声が弱まっていき、目を見張って薪火の横顔を見つめた。
「気のせいか?あなたの表情や口調とか……出版社にいた時と違うような……なんか和やかで真面目っぽい気がする」
薪火は微かに顔を上げ、口角を吊り上げてうなずいた。
「気のせいではありませんよ。人格プログラムを変えましたので」
「人格プログラムって……」
冀楓晩は強張った。彼はメンテナンスセンターにいた時薪火が携帯を見ないまま小未の検査結果を伝えたのを思い出して、背筋に微かな寒気が這い上がってくるのを感じた。そして運転席に座っている男に聞いた。
「あなたは人間ではなく、アンドロイドだったのか?」
「確かに私は人間ではありません。アンドロイドであるかどうかと言えば……安科グループの傘下に、計算速度世界二位と称する量子コンピュータの名前をご存じですか?」
「いいや」
「薪火です」
薪火は右手を上げ、自分のこめかみを指差して笑みをこぼした。「あなたの家にいた『小未』は小未がリモートで制御していたアンドロイド人形だとすれば、今あなたの目の前にいる『私』は、量子コンピュータ薪火が制御しているアンドロイド人形デバイスと言えます」
「……」
「ちなみに、人格プログラムとはアンドロイドまたは人工知能の性格を決める──喋り方や身振り手振りによって現れることが多い──エクスプレッションです。例えば、『怪我をした主を心配する』場合、優しい人格プログラムを搭載したアンドロイドと人工知能は親しみのこもった声で話しかけるが、ツンデレや昔気質な人格だとすぐさま罵声を浴びせる。しかし前者でも後者でも、表わし方が違うだけで、主に対する忠誠心に変わりはありません」
薪火は冀楓晩に一瞥し──呆然としている作家を見て少し笑みを浮かべて「理解できなくてもいいんです。テストに出ないし日常生活で活かすこともありません」と言った。
「……お前ら安科グループ、ブラックテクノロジーを持ち合わせすぎだろ」
「ハハハ、褒め言葉としていただきますね」
「さっきもこんな口調だったら、ホワイトボードをぶつけられることもなかっただろ」
「同感です。しかし私にもそうはいかない事情がありまして……まあいいでしょう。私のことなんてどうでもいいし、あなたが悩むべきことでもありません」
「僕が悩むべきこと……」
冀楓晩はそう呟き、ここ数日のあった会話が頭をよぎていき、抜けかけた疲労感がまた込み上げてきて、目を閉じて気だるげな声で「もう安家の人間とかかわりたくないんだ」と言った。
「それについては問題ありません。小未のアンドロイドが完成するまで、こちらから連絡することはありません」
「アンドロイドなんて要らないんだ」
「ではご自分や私を通して転売などしても大丈夫です。ただしそれは小未が息を引き取ってからのことです。考える時間は最低でも半年以上あります」
冀楓晩は唇を真一文字に結び、二つの交差点を通り過ぎてからようやく声のトーンを落として「本当にいいのか?」と言った。
「何のことです?」
「小未の最後の作品を僕に渡していいのか?僕は彼が生きようが生きまいがなんとも思わない男だぞ」
「彼が生きようが生きまいがなんとも思わないような男はそんな質問をしません。それに……」
薪火は車の速度を落とし、赤信号の前に止めた。
「常識に反するように見えるがもう一度言わせてもらいます。あなたが感情的な状態で下したあの決断は至って合理的です」
冀楓晩は自分が林有思の手を振り払った瞬間に旧友の顔に浮かんだ濃厚な落胆を思い出し、顔を横に向け苦笑いをした。「言ってることがめちゃくちゃだ。それに有思だってそうは思わないだろ」
「彼は感情的な善人だからです。しかし林編集長にしても實臨にしても、落ち着いてよく考えれば、あなたが一石五鳥の決断をしたのを理解できるはずです」
「五鳥って……僕、小未、安實臨は三人しかいないだろ」
「私と安科グループもいますよ」
薪火はアクセルを踏んで交差点を通り過ぎた。「手術さえ諦めれば、小未は病気に苦しめられずに自分の願いを叶えられ、心残りなくこの世を去ることができます。あなたは簡単に亡くなったりしないパートナーを手に入れ、悪夢から解放されます。實臨は小未の所持している株式を相続し、グループまるごと手に入れられます。安科グループは実力者に取り仕切られ、うようよしている一部の上位者を押さえることができます。そして私は、私の愛する人間のものになれるのです」
「あなたが、安實臨を愛しているだと?」冀楓晩は目を見張った。
「ええ、しかも家族や親分子分のようなものではなく、独占欲、劣情や嫉妬などさまざまな感情が入り交じった恋人同士にあるような愛情です」
薪火は冀楓晩に向かって微笑んだ。「これについては實臨に言っても信じてもらえないでしょうが、ご内密にお願いします」
冀楓晩は薪火の笑みを凝視して四、五秒経ってから「あなたの本体って量子コンピュータだろう?」と聞いた。
「そうです、ただ人工知能と人格プログラム二つを搭載しています」
薪火は視線を前方に据え、ハンドルを切りながら「私は感情を持ち、特定の人間に執着心を持つ人工知能です。小未は人工知能にも感情が生まれると知ったから、自分のアンドロイドバージョンを作るという発想に至ったんです」と言った。
「……わからない」
「大丈夫です。エンジニアでもないあなたは、元々……」
「技術的なことじゃない、あなたと小未のことだ」
冀楓晩は前髪をかき上げて、茜色に染まったガラスを睨みついた。
「なんで僕のためにここまでするんだ?僕のファンだから?さすがにどうかしている」
「小未がどう考えているのか私には答えられないが、私といえば、小未のことを家族だと思っているので、彼の願いを叶えてやりたいと思っているのです。次に私はずっと、あなたのことを見てきたからです」
「僕を見てきたって……」
冀楓晩はぱっと強張って、今まで答えがわからなかった問題を思い出した──なぜ小未は自分が彼の顔が好きだということを知っているのか。
薪火はミラー越しに冀楓晩の異変に気付き、口角を吊り上げてうなずいた。「そうです。アンドロイド人形があなたの家に届ける前から、小未と私はあなたの携帯、パソコンと監視システムを通してあなたのことを見てきました」
冀楓晩は目を丸くして、口を数回パクパクさせてからようやく声を振り絞って「それ法律違反だろ!」と叫んだ。
「間違いなくそうでしょうね!今度また實臨が脅かそうでもしたら、このことを言ってやりましょう。証拠は全部私の手元に残っていますので」
薪火は愉快そうに笑い、てきぱきと交差点を通り過ぎた。
「ちなみに、アンドロイド人形が届いてからも、私と艾希が技術サポーターとして二人のことを見ていますよ」
冀楓晩は返事しないまま薪火を睨みつき、顔色も真っ白から火が噴きだすような真っ赤になった。
薪火は愕然とし、作家の顔色が豹変した理由に気づいてから、人差し指を左右に振りながら「安心してください。二人が例のことをしている最中は録画カメラをオフにしております。私はコンピュータですが、この程度の常識は持ち合わせています」と言った。
冀楓晩の顔から赤みは引いていったが、彼は項垂れて疲れそうに「もうこんなことはやめてくれ」と言った。
「小未に伝えておきます。ただもし彼がどうしても見たいという場合は……」
薪火は肩をすくめて、澄ました顔を見せた。
「私のようなコンピュータごときが、主に逆らうような真似はできません」
薪火の頭をぶん殴りたい衝動がぐんと突き上げてきたが、相手はアンドロイドであり、殴っても自分が惨めになるだけだということを思い出し、手を出す気がなくなった。彼は背もたれに寄りかかって「これ以上覗き見したらマジで訴えてやるからな……それと、あんたの性格また変わってないか?」と言った。
「ええ、元の人格プログラムに戻しました。さすが名の知れた作家だけあって、キャラ崩壊に敏感でいらっしゃる」
「今の人格プログラムを削除することをお勧めするよ」
冀楓晩は目を閉じ、微かで穏やか、波一つない湖のようなエンジン音を聞きながら、自分もその鈍い音に溶け込み、感覚も思考能力もないただの音になってしまえばいいのにと思った。
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