7-2 「實臨、楓晩さんに嘘をついてはいけません」

「あんたの弟って……」

 冀楓晩は昨晩自分に衝撃を与えた真実を思い出し、瞬く間に体が強張った。安實臨を見つめてから目を逸らし、ミーティングデスクのほうに歩いて「藪から棒に入ってきた依頼を受けるつもりはないし、人のつむじを見る趣味もない。協力するかどうかはあんたが座って始終をしっかり説明してから決める」と言った。

 安實臨は腰を伸ばし、従順そうに冀楓晩の後に続いた。作家がチェアを引いて座ってから、彼の向かい合わせのパソコンチェアに座って手を組み、「昨日あなたが林編集長が去ってからすぐ弟が住んでいる研究開発施設に行ったんですが、そこで小未は明け方に手術室に入っていたことがわかりました」と言った。

 冀楓晩はびくっと指が震えたが、感情を殺し、安實臨の話を遮らなかった。

「原因は頭蓋内圧の上昇でした。小未は長期的な睡眠不足状態にあり、人工知能の作成に没頭していたことも人工ニューロンの劣化に拍車をかけ、最終的に頭蓋内圧亢進となりました」

 安實臨は手を組んだまま、話を続けた。

「緊急手術により頭蓋内圧は下がりましたが、まだ集中治療室に滞在しています。小未の容態からして、半年後に予定していた人工ニューロン置換術はできなくなったと医者から伝えられました。理由はその手術は救うどころか、小未を殺すことにしかならないからなんです」

「……」

「人工ニューロン置換術とは小未が現在使用している人工ニューロンを外し、彼の体と適合性のある、かつ性能も安定性も上昇したニューロンに置き換える手術です」

 安實臨は遠い目をした。「あの子は十二歳の頃にALSが発症し、当時人工ニューロンの移植ができる最低年齢は十八歳で、僕の養父が必死に名医を探し、相関技術の開発にも投資し、小未本人の努力もあり、なんとか十四歳で手術を行うことになり、二年近くもの時間をかけてようやく移植が完成したのです」

「……」

「それで全てが終わり、小未も健やかに余生を過ごせるだろうと思っていました。しかし彼の十九歳の誕生日当日に、神様は再び彼から移動能力を奪ってしまいました」

 安實臨は口を真一文字に引き結び、しばらく黙り込んでから言葉を続けた。「ケーキを切っていたら小未は急に倒れて、緊急搬送はしましたが、医者から小未の人工ニューロンは脳と拒絶反応が起こり、それで劣化してしまったとのことでした。支持療法に切り替え、容態をベストに整えてからニューロン置換術を行うほうがいいと伝えられました」

「……」

「あれから僕は小未の体をよく気遣うことになりましたが、こなさなくてはならない仕事が多すぎて、小未がちゃんとご飯を食べているか、きちんと休憩を取っているかは、ほとんどビデオ通話か他人を通すことでしか確認できませんでした。ところが……」

 安實臨の声が途切れて、斜めに薪火を睨みつく。「僕は今まで信頼してきた人に騙されていて、本当は小未はまともに安静せずに試作機と機体に搭載される人工知能に取り組んでいたことを、昨日まで知りませんでした」

「正確に言うと、人格プログラム──人工知能の下位プログラムです」薪火は微笑んでそう言った。

 安實臨はかっと薪火を睨みつき、はっと我に返って怒りを抑えて、「すまない」と声を落として言った。

 冀楓晩は二人のやりとりに気をとめず、安實臨が述べていたことを思い出し、若干掠れた声で「それであんたは小……あんたの弟を僕が試作機を作るのを辞めて、ちゃんと安静して手術を受けるように説得させろってことか?」

「そうです!」

 安實臨はぱっと顔を上げ、その目には涙と期待が滲んでいる。「小未の推しのあなたがそう言ってくれれば、きっと彼も開発を断念して安静するようになってくれるんです」

 冀楓晩は唇を結んだ。林有思が電話で言い淀んで、頑なに自分を出版社まで足を運ばせた理由がやっとわかった。

 利害関係や特殊な感情を持たない場合、人を医療処置を受けて延命するよう説得するのを断ることはめったにないだろう。しかし冀楓晩と小未──安卓未──二人の間に利害関係こそないものの、感情は特殊といったらない。

 冀楓晩はまだ昨日の真実から立ち直れていないし、最初の激怒から落ち込み、恐怖、慕い、茫然、悲しみなど様々な感情が次々と心の中で溢れかえる。金属製の子猫のついた幸運のブレスレットを踏みにじんでやりたいと思うのと同時に、この唯一の記念の品が傷ついてしまうのを深く恐れている。

 こんな状態では冀楓晩は安卓未に顔を合わせられないし、したくもない。林有思は彼の親友と担当編集者として、この頼みを固く断るべきだった。

 しかしそれでは安卓未の命を断ち切るのも同然──もし安實臨にほかに弟を納得させる案がなかったら、林有思は冀楓晩のために小未に銃を向ける。しかし旧友の精神状態のためにもう一人を見殺しにすることは彼にもできなかった。

 しかも林有思は冀楓晩が小未を守るために銃に撃たれたのを目の当たりにしていた。冀楓晩にとって安卓未はどれほど大切な存在であるかをよく知っているから、躊躇わざるを得なかった。

 結局、林有思は冀楓晩を出版社に呼び込んで、直接に安實臨と冀楓晩を交渉させることにした。それは責任から逃れるためではなく、決定権を旧友に委ねるためだった。

 冀楓晩の視線は安實臨の肩をよぎって、真後ろに立っている林有思と搗ち合い、旧友の目から濃厚な心配と不安を読み取った。

 冀楓晩は友人に心配するなと言いたいところだが、言ったら嘘になる。安卓未が集中治療室に運ばれたことを知ってから、冀楓晩はきゅっと胸が疼いていた。小未の容態を知りたいのと、自分を騙した人間のことなどもううんざりだと二つの感情が心の琴線を乱し、頭を縦にも横にも振れずにいた。

 安實臨は冀楓晩の葛藤に気づき、携帯を取り出し、「冀さん、僕の無礼な態度と小未の欺瞞のせいで、今は僕の弟に会いたがらないかもしれませんが、もしよければ、彼に安静して、直接にあなたに謝るようにとビデオを撮って送っていただければと思います」と言った。

 冀楓晩は口をパクパクさせてから、顔を振った。

「彼に謝られても許す気はない」

「それはもちろんです。許すことは被害者の義務ではありません」安實臨は微笑んで、携帯を冀楓晩に渡そうと前へ出した。

 冀楓晩はその携帯を見つめ、一分近く黙ってからようやく手を伸ばした。指が携帯に触れそうになったところで、もう一人の手が彼の腕をつかんだ。

 その手の主は薪火だった。彼は深くため息をつき、安實臨に向かって「實臨、楓晩さんに嘘をついてはいけません」と言った。

「嘘なんかついていません」

「そこまで言うのなら……確かに嘘にはならないかもしれませんが、あなたはもっとも肝心なところを隠しましたよね?」

「肝心なところって……」

 安實臨は一秒くらい呆気にとられ、薪火の言おうとしていることとその目的に気づき、すぐさま怒り出し「あなたは小未を殺す気ですか!」と怒鳴った。

「彼の願いを叶えようとしているだけです」

 薪火は直ちに冀楓晩の腕を放し、安實臨の肩を掴んで、先ほど成年男性二人でやっとねじ伏せた安科の最高経営責任者を片手で押さえ、作家に振り向いて「手術の成功率はたったの三割です」と言った。

「なんだと?」冀楓晩は愕然とした。

「人工ニューロン置換術の成功率は、たとえ小未が体の状態をベストに整えて、この世に最も優れた医者が執刀していても、成功率は三割しかありません」

 薪火は冷酷ともいえるほどの落ち着きで「つまりもし手術を受けると、小未は六か月後に七割の確率で手術台の上で死にます。もし受けなければ、彼は九か月から十か月ほど生き延びることができます。手術を受けなければ、残りの時間で最後の願いを叶えることができるんです」と言った。

 冀楓晩は目を見張り、薪火の言っていたことがまだ飲み込めないまま、前方から怒鳴り声が聞こえた。

「なにが願いを叶えるんだ!あんなのは自殺だ!」

 安實臨はパソコンチェアに座ったままだが、明かなしわができたスーツの肩と強張った手足から、彼は必死に立ち上がろうとしているのがわかった。「手術を受けないと必ず死ぬが、受ければ三割の確率で生き残れるんだ。しかしあたな……あなたが小未を手術を諦めようとそそのかすとは、それであなたのご身分に申し訳が立つとでも思ってるのか!」

「そそのかすなんてしておりません。彼は自分自身の意思で決断を下したのです。私と艾希は協力をしたまでです」

 薪火はびくともせずに安實臨を押さえ、冀楓晩を見つめた。

「楓晩さん、手術の成功率が低く、あるいは治る見込みがなく延命措置しかとれない病気にかかった場合は緩和医療に方針を切り替え、患者に最期の時間で願いを叶えさせることも多いです。小未はまさにこの部類です。彼の意思を尊重していただきたく存じます」

 冀楓晩は返事しないまま、薪火と目を合わせてしばらく経ってから「小未の願いは何だ?」と聞いた。

「彼の人格と記憶が完全に搭載されたアンドロイドを作り、大好きな作家さんを永遠に守ることです」

 薪火は冀楓晩に少し微笑んだ。

「アンドロイドの機体の開発はすでに成功しています。およそあと五か月分のデータ収集で人格プログラムが完成し、あとは小未が息を引き取ってから記憶を装填し、もう一か月で完成できる計算です」

 冀楓晩は薪火の笑顔を見て、ふわっと魂が抜けかかり、周りの声、照明、息と物音などすべてが遠くなったように感じた。自分の心臓の音だけが耳の膜が破れそうになるほど急速に近づいた。

 前回こんな気持ちをどのようなところで味わったのか、彼はよくわかっている。

 ──焼香!

「冀さん!」

 安實臨はパソコンチェアから転がり落ち、冀楓晩の前に膝をついた。「あなたも家族を失ったことのある人間だから、僕の気持ちがわかるはずです。もし一度だけ火事の現場に突っ込んで家族を救える機会があったら、あなたはそれを諦めますか?」

 ──一礼!

「諦めるわけがないでしょう!どれだけ成功率が低いだろうがリスクが高いだろうが、自分すらも巻き込まれようが、あなたもきっと突っ込んでいたのでしょう!一縷の望みさえあれば諦めるなんてできないはずです!」

 ──二礼!

「小未は僕のたった一人の家族です。血は繋がっていませんが、彼は僕の弟であり、僕を照らす太陽なんです。こんな大事な時に傍にいてやれなかったのは確かに僕の過ちではあるんですが……どうか、どうか僕に償う機会を」

 ──三礼!

「あなたの欲しいものなら何でも用意いたします。金、名誉、地位、男も女も……小未が命を諦めず手術を受けるように説得してくだされば、何でもいたしますから!僕を一人に残さないでください!」

 ──遺族から礼を!

 周囲がしんと静寂に包まれた。何が起こったのか冀楓晩にはわからなかったが、頬から湿っぽい感触が伝わってきてようやく、自分が泣いているのに気付いた。

 林有思はゆっくりと冀楓晩のほうへ歩いて、慎ましく手を取ってそう聞いた。「晚ちゃん、お前……」

 冀楓晩は反射的にのけぞって、パソコンチェアもそのせいで後ろに滑って、もう一つのパソコンチェアにぶつかって止まった。

「僕と関係ない」

 自分の声を聴き、目の前の愕然あるいは配慮に染まった顔を見て、胸と頭がキンキンと疼く。ささやくように「僕と関係ない」と繰り返した。

「冀さん……」

「僕と関係ないんだ!」

 冀楓晩はそう突き放し、大股で会議室を出た。林有思と編集者たちの手を振り払い、出版社のドアを体当たりで開け、エレベーターも待たずに階段のほうへ走り、今にも転がりそうなスピードで一階に向かっていった。

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