第七章 アンドロイド人形の真相Ⅱ
7-1 「うまい飯でも食って、そんでタクシーに乗って出版社に来てくれ」
冀楓晩は酒好きではないし、昼間から飲むのもどうかと思っているが、林有思の提案の前に、彼は一秒の躊躇いもなく頭を縦に振った。
林有思は弁護士を事務所まで送ってから、とある昼間からやっている居酒屋に入って焼き鳥セット、おかずとジョッキサイズのアイスウーロン茶を頼んで、メニューを冀楓晩に渡した。
冀楓晩は人気のビールと日本酒に見向きもせず、アルコール度数がもっとも高い焼酎を、しかもボトルで頼んだ。
しばらく経ってから、炭火の香りを纏った焼き鳥と甘酸っぱいピリ辛おかずが次々とテーブルに運ばれてきた。林有思は焼き鳥、ハツ、沢庵とご飯を矢継ぎ早に腹に詰め込んで、冀楓晩も焼酎を水割りもしないまま牛飲していた。
それは酒豪でも耐えるかどうかわからない飲み方で、特に酒に強いわけでもない冀楓晩にとってはなおさらのことだ。目の前の景色も、頭の中の思考もぼやけていき、最後は暗闇となり全てを呑み尽くした。
いつ、どうやって居酒屋を出たのか、冀楓晩にはわからなかった。目が覚めたらもう翌日の正午で、正午の日差しが掃き出し窓越しに頭を焼きつけて、二日酔いの気持ち悪さに拍車をかけた。
額に手を当てゆっくりと起き上がり、水を持ってくるようにと小未を呼びつけようとしたところで、整然としたベッドシートが目に入り、言葉は喉に引っかかって声にならなかった。
半分皺だらけで半分キレイなベッドシートに、ふわふわのままでいるというのと沈み込んだという二つの枕。空気中には自分の呼吸音しかない。冀楓晩は半開きの口を閉じ、筋肉の凝りと痙攣を抑えて、最後には両ひざに顔をうずめた。
こうしてベッドに座って十分近く経ってから、ようやくベッドから起き上がってキッチンに水を取りに行った。
昨日慌ただしく自宅を出たときはダイニングルームもキッチンも片付けてなかったが、今このころ置きっぱなしの食器はシンク台になく、食べ残したサンドイッチとサラダもテーブルに見当たらない。あるのは、瓶に便箋が貼ってある二日酔い解消ドリンクだけだった。
「『締め切り、一週間延長する』って……やっぱり昨日は有思が送ってくれたんだな」
冀楓晩はドリンクを手に取って独り言をこぼし、キャップを開けて一気に琥珀色の液体を飲み干した。瓶をテーブルに置こうとしたら、一抹の光が視界を掠めていった。よく見たら、それは幸運のブレスレットについた金属製の子猫の照り返しだった。
──インターネットでは、幸運のブレスレットは幸運をもたらすと言われています。楓晩さんの運はいつも悪いので、これは絶対必要です。
──私はあなたに永遠に寄り添うために生まれたアンドロイド人形です。決してあなたを一人にさせません。
──また……明日。
ドリンクを握った手が一瞬強張り、冀楓晩は空になった瓶を壁に強く投げ、ワインレッドの瓶は瞬く間に硝子の破片と化した。
冀楓晩の怒りはこの程度では収まらなかった。編み紐がちぎれそうになるほど幸運のブレスレットをむしり取り、ブレスレットとそれについた金属製の子猫を取った手をあげ、しばらく経ってからまた手を下ろした。
幸運のブレスレットが指の間に引っかかったまま、冀楓晩はのけぞってテーブルに体をもたれ、床に散らばっているガラスの破片を見つめてから、顔を上げ、目を閉じ深呼吸をした。
「平気さ……どうってことはない、そうだ……元に戻っただけだ、平気……平気……平気だ、元に戻っただけさ」
そう呟いて、鼻と目頭の熱が引いてようやく、目を開けブレスレットを下ろし、破片を片付けるよう箒と塵取りを取りに行った。
壁の隅から冀楓晩は大掃除を始めた。床、ベッドの下、棚の隙間、窓、タイル、すべての引き出しと机など……どこもかしこも見逃すことなく、たんすにしまっていた服、ベッドシート、布団カバー、タオルさえも引きずりだして洗濯機に入れた。
ベッドシートをテーブルチェアにかけている――ハンガーが足りなくなった――ところで、冀楓晩は自分の携帯の着信音が聞こえた。
着信音は冀楓晩の寝室からだった。彼はマットレスの上から携帯を手に取り、画面に林有思の番号が映っている。通話ボタンをタップし「なんだ?」と聞いた。
「で……出た!」林有思の声から隠しきれない落胆が伝わってきた。
「なんだそのリアクションは」冀楓晩は眉間にしわを寄せた。
「だって……まず確認したいんだが、お前の体と精神の調子はどう?」
「『まあな』と言えるかどうかはわからないが、今自宅をまんべんなく掃除したところだった」
「なんでいきなり掃除なんて……まあ掃除する元気があるならいいだろ。昨日会っていた安科グループの最高経営責任者のこと、まだ覚えてる?」
「忘れろと言うほうが無理だな」
冀楓晩はベッドシートを外したマットレスに腰を掛け、掃き出し窓越しに夕日を見つめながら、能面のような顔をして「で、彼がどうした?僕を横領ででも訴えるつもり?」と聞いた。
「それはないが……なんと言えばいいんだろ、もっとやばいことをやったんだ。お前にどう伝えりゃいいかわからない」
「言ってくれ」
冀楓晩はマットレスに体をもたれて横になって、目を閉じた。
「どうせ昨日よりやばいことはもう起こりっこない」
「……」
「有思?」
「その声からして、どうせ起きてからまだ何も食べてないんだろ?」
林有思はめったにない柔らかな口調で「うまい飯でも食って、そんでタクシーに乗って出版社に来てくれ」と言った。
「今ここで……」
「お前ひとりで聞くのは忍びないんだ」
林有思はきっぱりと冀楓晩の声を遮ってから、また柔らかな口調に戻った。「出版社に来てくれ。タクシー料金はこっちで立て替えてやるから」
冀楓晩は困惑した。林有思とは十五年近く以来の付き合いだが、彼がこんな口調で話すのは初めてだった。友人への気遣いと好奇心に駆られ、冀楓晩は起き上がって「料金ぐらい自分で払えるさ。じゃああとで」と言った。
※※※※
食欲はちっとも湧かないが、友人との約束を最低限に果たすべく。冀楓晩は申し訳程度に卵を入れたインスタント麺を食べてから、タクシーに乗って出版社まで来た。
出版社の位置するビルに入った途端、副編集長小玉がエレベーターの前に立っているのに気づいた。それで眉間にしわを寄せて「なぜあなたがここに?」と聞いた。
「先生を出迎えるようにと編集長に言われました」
小玉はエレベーターの開くボタンを押し、冀楓晩を案内してエレベーターに足を踏み入れた。
「編集長はご自分で出迎えたかったが、急な来客で離れなくなってしまい、私が迎えに来ることになりました」
「出版社に来るのが初めてじゃないし、案内しなくても平気さ」
「先生が迷子になるのを心配しているわけではありません。先に伝えておきたいことがあるからなんです」
小玉は行き先ボタンを押し、真っ青な顔で話を続けた。
「安科グループの最高経営責任者と董事長秘書が、社内で言い合いをしているんです」
「……なんだと?」
「一時間半ほど前に安實臨さんが先生を会いにここに来て、そして二十分ほど前に董事長安卓未さんの秘書薪火さんも来ました。彼は安實臨さんを連れて帰ろうとしましたが、安實臨さんはそう従わず、それで会議室で言い合いになりました」
小玉は憔悴した顔でエレベーターが出版社の位置するフロアに着くのを見て、エレベーターから出て従業員名札で出版社のガラスドアのロックを解除した。ドアを開いると小玉は冀楓晩に振り向き、「先生、安實臨さんからは必ず離れるようにしてください」と言った。
「そんな大げさな……」
『バン!』
出版社の奥から大きな物音がし、冀楓晩と小玉はしばらく呆気にとられて、物音がした方向に走って行った。
物音がしたのは出版社の西側にある会議室だった。冀楓晩と小玉が会議室の入り口に辿りづいたら、安實臨は林有思ともう一人の編集者に羽交い絞めにされて壁側に引っ張られようとしている。薪火は一人でデスクの隣に立ち、頭を右側に振り、その足元には少し曲がったホワイトボードが落ちている。
「實臨よ實臨……」
薪火は手で首周りを揉んで、屈んで曲がったホワイトボードを拾っていかにも関心が込められた声で言った。「何度も言いましたが、もう一回申し上げましょうか──私に手を出さないでください。あなたが怪我をしてしまいますので」
「この血も涙もないクソッタレが!」安實臨はそう喚き叫び、林有思ともう一人の編集者から逃れようと身をひねる。
「私はクソなんて垂らしておりません」
薪火はホワイトボードをデスクに置き、激昂している安實臨にため息をついた。「小未のこととなると浮足立つのはわかっていますが、あなたは冷静な人なはずです。落ち着いてよく考えてみてください。これはあなた、私、小未、安科グループと楓晩さんにとって一石五鳥のエンディングです」
「てめえ一人以外全員損して、取り返しのつかない最悪のバッドエンドだろうが!」
「實臨……」
「安科グループは最高経営責任者と董事長秘書が勤務時間中に人んちでレスリングやれるほど暇なのか?」
冀楓晩は二人の間に割り込んで、汗だくになっている林有思に「こんなにめちゃくちゃにされても通報しなかったのか?お人好しすぎるだろ」と聞いた。
「五分……いや、少なくとも二分前までは喧嘩になってなかったんだ」
林有思は苦虫を噛み潰したような顔をして、安實臨を見つめて「安さん、楓晩も来ているんだし、ちょっと落ち着いて話さないか?もしダメなら、俺もあなたを無理やりここから連れ出すしかない」と言った。
「……いいだろう」
「じゃあ離すから」
林有思は部下を一瞥し、二人で同時に手を離した。そして、安實臨をじっと見つめながら後ずさった。
安實臨は突っ立ったまま、目を閉じ息を深く吸い込んでから吐いて、再び開けた目に先ほどの怒りはもうなかった。そして彼は襟を正し、冀楓晩に向かって九十度のお辞儀をした。
その仕草は冀楓晩にとっては完全に予想外だった。愕然として思わずのけぞった。
「いきなりどうした?」
「冀さん……」
安實臨は床を見つめながら、震えた声で言った。
「僕の弟を救ってください。あなたの協力を得るためなら、なんでもしますから」
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