6-4 「この嘘つき噓つき噓つき噓つき噓つき!」

 安實臨と冀楓晩が話している途中で、エレベーターの扉が開き、灰色のスリーピーススーツを着た一人の男がVIPフロアに足を踏み入れた。身長は二百センチ近く、肩幅は広く厚みがあり、足の伸びが良い上に体つきもがっしりとしている。エキゾチックさを感じさせるその黒髪と金色の瞳に金色のメガネフレームといった風貌は、顔立ちもコディネートもよく目立っている。

 しかしながらフロアの奥にいる四人は男が大股で歩いてきているのにまったく気づかず、弁護士が携帯メールの確認をしに頭を右側に振って初めてその男が視界に入り、そしてはっと息を呑んだ。

 そのリアクションに釣られてその場にいる全員は注目を右側に向けると、目を見張るでなければ、先ほど弁護士のしたリアクションを繰り返すだった。

 安實臨は前者だった。彼は眉を上げるもすぐ落ち着きを取り戻し、男に「薪火シンフォ、あなたはなぜここに?」と聞いた。

「ここに私の存在が必要ですので」

 男──薪火──は愉快そうに口角を吊り上げ、顔に冀楓晩に向けて微笑んだ。

「こんばんは。メンテナンスルームに横たわっているその試作機についてはもう心配要りません。艾希アイシーが向かっているので、必ずベストな状態に戻してみせます」

「艾希とは誰のことだ?」冀楓晩は眉をひそめた。

「弊社のトップ製体師です」

 安實臨は素早くそう返事をし、薪火を見つめて「僕の質問に答えてください。あなたは何をしにここに来たんですか?」と言った。

「皆さんの疑惑を解くためです」

 薪火は涼しい顔でそう答え、手を胸元に当てる。

「アンドロイド人形──實臨の言う試作機──は小未から冀楓晩さんに贈られた誕生日プレゼントです」

 VIPフロアは静寂に包まれ、冀楓晩、林有思、弁護士、それと安實臨の四人全員はぼんやりと薪火を見つめている。ただ前述の三人は困惑であり、最後の一人は愕然である。

「小未から冀楓晩に……」

 安實臨の声は震え、携帯を持っている手は指が白くなるほど力が入っている。「つまり、小未は研究所のすべての心血、時間、資金、それと機密事項をふんだんに注いだ……あらゆる面で貴重極まりない試作機を、この部外者に渡しただと?」炎の矢のような目線を薪火に向けて聞いた。

「その通りです。あなたが反対するだろうと踏んで、あえて事実を伏せ、そして全ての痕跡を丁寧に消しておきました」

「あなたたち……あなたは……」

 安實臨の顔色は真っ赤から白に、拳でテーブルを重く叩いて怒鳴った。「会社の資産をなんだと思っている!」

「小未の資産です。実際もそうです。あの試作機に用いられた技術も経費もそれを作った研究所も、全て小未の個人資産です」

「もしこの男が試作機を壊して、あるいは安科のライバル企業に売りつけでもしたらどうするつもりだ!」

「それは杞憂です。楓晩さんはとても小未を可愛がっています。昨晩生身でスタンガンから小未を守ったほどです。あのとき艾希は驚愕のあまりに言葉を失って、私も感動で核心ゾーンの温度が上昇してしまいました。この世に小未を守るためなら銃に撃たれても構わない人間はあなた以外に、楓晩さんしかいません」

「僕だけがいればいいんだ!」

「予備役は多ければ多いほど……」

「何の話をしているんだ?」

 冀楓晩は話に割り込んで、薪火と安實臨を見比べて、「あんたらの言う『小未』はどの小未なんだ?まさかうちに届けられた小未じゃないよな?彼はただのアンドロイドで、個人資産なんて……」と聞いた。

 薪火は冀楓晩の声が出なくなっていくのを見て、何かを思い出したんだろうを考え、それを肯定するように頷いてみせた。「その通りです。あのとき小未が使ったのは、彼自身のクレジットカードです」

 冀楓晩は目を見張った。あのクレジットカードとはブラント店で宅配を頼むほど買い物をした時使ったものだとわかっている。あの時は林有思のクレジットカードだと思い込んでいて、あんなに買ったらクレジットカードの限度額を超えてしまうと心配していたのだ。

 もしあのクレジットカードが小未自身のものだとしたら、それは小未の与信限度額が途轍もなく高いことを意味し、すなわち目覚ましい資産または収入を所持しているということになる。

「ちなみに、林編集長に振り込んだお金は、こちらで断っておきました」

 薪火は手を上げ、そして下ろしてポケットに入れた。「今日中にあなたの口座に返金いたします。あんな大金が入ってきたら林編集長も騒ぎ出して、小未の正体が予定より早くバレてしまうと思いましたので」

 冀楓晩は七、八回ぐらい口をパクパクさせてからようやくしわがれた声で「小未はいったい何者なんだ?」と言った。

「本名は安卓未、安科グループのトップエンジニア及び董事長、そして最高経営責任者安實臨の弟。それと精神的にはあなたが立ち向かって守ったアンドロイドです」

「精神的に?」

「あなたの知っている小未は……」

 薪火は声を止め、しばらく手をこめかみに当てていたら、手を下ろして微笑んだ。「楓晩さん、ちょうど良いニュースが入ってきたのでお伝えいたします。艾希の検査によると、あなたの誕生日プレゼントは通常運転しているだけでなく、使用状況もほとんどのユーザーより良好であることが判明しました。アンドロイドを使うのは初めてらしいのですが、どうやらあなたはメンテナンスの仕方を完全に理解しているようですね」

「そいつは良かった……いや違う!小未は確かに故障しているんだ。しかも有思が問い質す前から故障している。あんたらの検査が不完全だったんだろ!」冀楓晩は高ぶってそう言った。

「それは、アンドロイド人形ではなく、小未の──精神的な故障だからです」

「精神的な故障って……」

 冀楓晩は語尾を伸ばし、薪火がアンドロイドではなく「アンドロイド人形」と言ったことに気づいた。そして、少し前に安實臨が弟の身体状況が芳しくないことに言及し、さらには自宅にある固定式と移動式Wi-Fiのことを思い出した。パズルの最後の一ピースのようにそれらのことを説明できる、一つのでたらめな可能性が浮上した。

「あのアンドロイド人形を制御しているのは人工知能でも人格プログラムでもない、小未──安科グループの董事長かつトップエンジニア安卓未です」

 薪火は冀楓晩の推察を言い当て、愕然とした顔でフリーズする全員に向けて「わかりやすかったでしょう?小未は人工ニューロンを使用しており、人工ニューロンのデバイス連携電子機器制御技術はすでに何年も前から完備されています。それに小未自身も何度もうっかり口を滑らせたことがあったでしょう」と笑みを浮かべながら言った。

 冀楓晩は口を開けたが声は出ないままだった。血管に入った血液が全てドライアイスにでも変わったかのように、思考ができなくなるほど体が凍えた。

 一方安實臨は怒り心頭に発し、ぱっと薪火に進み寄って襟首をつかんだ。「そんなんじゃ小未が持たないだろ!たとえ神経の病気がなくても、あの子の体力じゃ負担が重すぎる!」

「もし毎日八時間シャットダウンして休んでいたら、半年くらいは持てたのでしょう。ただ……愛する人と共に寝て、共に日の出を迎えることの魅力が大きすぎて、彼を過労させてしまいましたね」

 薪火は苦笑いし、安實臨に襟首を掴まれたまま冀楓晩に向かって「これがアンドロイド人形である小未が強制シャットダウンになり、他の人格に切り替わる原因です。リモートオペレーターが疲労で回線落ちた場合はシステムが予備人格プログラムを起動させるのですが、データが足りなくて最適解を導くことに失敗した。それであなたは異変に気付いたのです」と言った。

「今は僕が話しかけているんだ!」安實臨はさらに薪火のネクタイを引っ張った。

「それはわかっています。しかし私は楓晩さんの世話を小未に頼まれたのです。あなたの不満は……あまりそう強く引っ張らないでください。怪我をしてしまいますよ」

「薪火──」

「落ち着いてください。深呼吸を」

 薪火は宥めるように手を上げたが、かえって彼の顔色が白くなるほど怒りに油を注いでしまった。そこで薪火は宥めるのを諦め、手を下ろしてまた視線を冀楓晩に向けた。「とにかく、また何か問題点がありましたら、アンドロイド人形を連れて帰ってください。小未が目を覚ましたら人形を通して説明しますので」

「会社の資産を持ち帰らせるなんて誰が許した!」

「法律上、あの人形はすでに楓晩さんのものです」

「いつの間に……」

 薪火と安實臨が言い争っているのを見て、冀楓晩の考えはだんだん目の前から離れ、記憶にあった場面に飛んでいった。

 ──……、アンドロイドだから。

 ──それは私がアンドロイドであることと関係がありますか?

 ──それはとても重要なことだ。君が人間なら僕がどう反応するか悩まないといけない。

 ──あなたのために生まれたアンドロイドです。

 ──人間はバックアップできない。

 過去にあった会話が頭の中でフラッシュバックしてくる。冀楓晩は体を氷で包んでいくような寒気に骨を貫かれ脳髄まで達し、そして瞬く間に果てしない炎と化した。

「人形はあんたらにくれてやる」

 冀楓晩は自分の声が聞こえた。その声に安實臨のような激昂でも、薪火のような厚みもないが、刃のように灼熱した空気を切り裂け、VIPフロアを包んだ争いを終わりにした。

 それから彼は他人を顧みず、踵を返してエレベーターに向かった。

 林有思はその途中でやっと我に返って、弁護士を引っ張って旧友に追いつく。エレベーターの中で彼は旧友に一瞥し、小声で聞いた。

「晚ちゃん、人形を連れて帰らないの?」

「……」

「連れて帰るのは俺も賛成できないが……本当にいいのか?今までこんなに大事にしてきたのに」

「……」

「大丈夫?」

 冀楓晩はだんまりを決め込んで、エレベーターの扉が開くのすら待たずに強引に外に出て、大股でメンテナンスセンターを出た。林有思は冀楓晩の後につき、まっすぐ歩いてから右に曲がり、最後には路地の奥で無造作に畳まれた段ボールの前に止まった。眉根を寄せて迷子にでもなったのかと聞こうとしたところで、旧友は段ボールに蹴りを食らわせた。

「クソっ!クソクソクソクソ!嘘つきやがって!バカにしやがって!くそったれ董事長、くそったれ誕生日プレゼント!何が永遠なんだ!この嘘つき噓つき噓つき噓つき噓つき!」

 冀楓晩は激しく段ボールを蹴り続けて、後ろにある道路の車の音すらも遮ってしまうほど、物音と罵声が路地に響き渡る。

 林有思と弁護士は驚きすぎて、強張ったまましばらく経ってから慌てて顔を上げ、周囲のアパートは誰も窓を開いていないのを確認してからほっと安堵のため息をついた。

 冀楓晩から段ボールへの暴行は十分以上続き、声がかすれ足もずきずきしてきてからようやく辞めた。目の前にある散らばった段ボールを睨みつけながら喘ぎ、ぽんと肩に手を置かれてやっと振り返った。

 手の主は林有思だった。彼は目が充血した旧友をしばらく眺めてから、なんとか笑顔を作ってみせた。「ちょっと飲みに行かない?」

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