6-3 「冀さん、あなたの言う『小未』というのは、あの試作機のことですか?」
深謀遠慮、抜け目のない人間相手には本気でふざけることが有効な手段であると事実により証明された。あれから一時間余り、安さんから冀楓晩に声をかけることはなかった。ただオムレツでなにか表立ってはいけない計画を実行しようとしているのではとでも疑っているように、時々視線を向けてくるだけだった。
しかし冀楓晩にそんな計画はまるでなく、彼はモニターに映っているエンジニアの数が三人から四人、四人から五人に増えていくのを眺めながら、次々とオムレツを腹に詰め込むだけだった。
冀楓晩が胃の限界になるまで食べ、メンテナンスルームにいるエンジニアの数もこれ以上増えないほど多くなったところで、安さんの携帯が鳴った。
「もしもし……案内してやれ……平気さ、ここには保安ロボットがいる」
安さんは携帯を置いて、冀楓晩に話をかけた。
「あなたの友人が弁護士を連れて一階まで来ているんですが、その中にちょっと目つきの悪い人もいるらしく、受付係がなかなか通してくれませんでした」
「御社のエンジニア、あまり使えないようですね」冀楓晩は白衣を着た人たちで混雑としているモニターと、微動だにしない小未を眺めてそう言った。
「うちのトップエンジニアや製体師に会ったことさえあれば、そんなことを言わなかったでしょう」
安さんは微笑んで、従業員にレモネード一杯を頼み、携帯をいじりながらドリンクをすする。
しばらくして、二人の正面にあったエレベーターの扉が開き、受付嬢、林有思と弁護士がVIPフロアに踏み入れた。目つきの悪い編集者はすぐお抱え作家を見つけ、走るとも言えるスピードでテーブルに近づき、「晚ちゃん、無事だよな?」と聞いた。
「食べ過ぎは無事の範疇に収まると思う」
冀楓晩は肩を竦め、視線を下に向けて、小声で話した。
「ただ小未は無事ではなさそうだ」
「小未」その言葉に安さんは眉根を寄せたが、言葉を出す前に林有思が連れてきた弁護士が先んじて口を切る。
「あなたが安科グループの最高経営責任者、安實臨安さん、ですよね?」弁護士がそう聞いた。
「こいつが安科グループの最高経営責任者だと?」林有思の声はワンオクターブほど上ずった。
冀楓晩は声を上げなかったが、林有思から電話がかかってきてから初めて、向かい合わせに座っている人間をまっすぐ見つめた。
安科グループ最高経営責任者の写真や動画は見たことないわけではないが、前回見たのは安實臨と弟の安卓未との写真で、安卓未にばかり気を取られて、あまり印象に残らなかった。
安實臨は安科グループ元董事長の養子で、弟の安卓未とは血が繋がっていない。見た目や身振り手振りなども似たところが全くないため、冀楓晩は十八歳の安卓未そっくりのアンドロイドと数ヶ月共に生活していながらもその事実に気づかずにいた。
「僕が安實臨です」
安さん──安實臨──はうなずいて、ため息をついた。
「この僕が出頭していることから、あなたたちがどこからこのアンドロイド試作機を手に入れたかを弊社はいかに重要視しているかを理解し、ご協力をいただきたい」
「僕は嘘をついちゃいない。小未が誰から送られてきたのか本当に知らないんだ」冀楓晩は吐き捨てるように言った。
「それについては俺が保証する。このアホは昨日まであのアンドロイドが俺からの誕生日プレゼントだと思い込んでいたんだ」林有思は手を上げた。
「安さん、依頼人からあなたに見ていただきたい映像があります」
弁護士はブリーフケースをテーブルに下ろし、その中からタブレットを取り出して安實臨の前に置いて再生ボタンをタップした。
タブレットに二分割した画面が映っており、右のほうは冀楓晩の自宅の玄関とリビングルームで、左のほうは外の廊下で、一人の配達員がケーキの紙袋を提げながら、二つの天井に着きそうなほど大きな合金製箱をドアの外まで運んで、インターホンを押そうとしている。
冀楓晩はこれは小未が送られたあの日の監視カメラ映像だとすぐにわかり、林有思にぽつりと聞いた。
「この映像どこから手に入れたんだ?」
「お前んちの監視システムからだよ。権限を与えたのもう忘れたのか?」
林有思もぽつりと返事をする。
合金製箱が開かれ、冀楓晩がガラス越しに小未を見つめるところで、弁護士は一時停止ボタンをタップした。
「安さん、この映像からわかる通り、まずは配達員が試作機を冀さんに届けて、しかも冀さんは開けるまで中身がわかりませんでした。たとえ誰が試作機を盗んだのだろうと、冀さんとは一切関係ありません。もし御社が泥棒を探すつもりでしたら、その配達会社から調査することをお勧めします。こちらも配達員と配達車両の正面映像を喜んで提出させていただきますので」
「とても魅力的な提案です」
安實臨はそう言いつつも、顔に魅力に取りつかれる様子は一切ない。ただ携帯を少し揺すぶって「一時間前にこの提案を聞けたら賛成したのかもしれませんが、およそ四十分前に、当社のエンジニアから最高権限のキーを用いても核心ゾーンのロック解除ができなかったと伝えられました」と言った。
「それはこちらの提案とは……」
「しかし冀さんの録音が流れた途端、シャットダウン状態だった試作機の受信モデルが素早く起動し、核心ゾーンにも反応が確認されました」
安實臨は冀楓晩に視線を移した。
「冀さん、この設定はあなたがやったのではありませんよね?」
「言いたいことあるなら遠回しせずにはっきり言え」冀楓晩は声のトーンを落として言った。
「僕が言いたいのは、試作機を盗んで冀さんの家に届けたのは誰であれ、その人物は最初から試作機を冀さんに渡すつもりでした。それはつまりその人物が冀さんに異常なほど感情を持っていることを意味している。でなければコスト千万に上り、ビジネス価値が億を下らない商品をただで贈ったりはしないでしょう」
「それはちっとも意外に感じねえな。晚ちゃんには狂熱ファンがいっぱいついてるからね」林有思は斜めに冀楓晩を見てそう言った。
「冀さんのファンリストを提供していただけませんか?」安實臨はそう聞いた。
「狂熱ファンのリスト?もちらんだいじょっ……」
「狂熱ファンではなく、全てのファンのリストです」
安實臨は林有思の話を遮って、愕然としている編集長に尋ねた。
「ファンレターやプレゼントを出版社に送ったことのあるファン、その全員分のリストを提供していただけませんか?」
林有思はさすがにこれはどうかと直感的に思ったが、一方旧友を救い出すにはこれしか方法がないともわかりきっているため、躊躇って口をパクパクさせているところで、隣からきっぱりと返事の声が出てきた。
「だめだ」
冀楓晩はそっけなく言い放った。氷の刃でも宿っているかのような冷たい視線を安實臨に向けた。
「警察ならまだいいが、あんたのような民間企業主ごときに僕のファンの個人情報を手に入れる資格はない」
「個人情報保護法に触れる恐れもあります」弁護士はそう一言補足した。
安實臨は肩を落とし、悩みと哀れを滲ませた声で言った。
「冀さん、どうやらあなたはまだご自分の立場を……」
「あんたのそのオブラートに包もうとして、本当はオブラートにぶっ刺さっているだけで調子に乗っているような言い方にはもううんざりだ」
冀楓晩は安實臨の声を遮り、林有思の阻止の意図が含まれた目線を無視し、椅子から立ち上がって安科最高経営責任者の前に来た。
「僕がメンテナンスセンターに来た目的はただ一つ――小未を直すことだ。できるのならいいが、できないのなら、あんたが警察や調査局やヤクザを引きずり出そうが、監視カメラ映像でもなんでもあんたにあげるつもりはない」
「あなたに送られてきた試作機は故障していないし、故障だろうと通常だろうと、その試作機はあなたのものではありません」
「それはこっちの問題で、あんたらの仕事は小未を再起動させて、昨晩僕にまた明日と言った時の人格に戻すことだ」
冀楓晩はメンテナンスルームのモニターの上辺を手に取って百八十度回し、安實臨に向かって無表情で、双眸だけ轟々と燃え上がっている。
「小未に目を覚まさせろ。あんたらの倉庫盗難事件の話はそれからだ」
安實臨は口を真一文字に結び、冀楓晩と目を合わせてから視線を携帯に移した。
「倉庫ではなく、研究所です。僕の弟が取り仕切る、安科のトップレベルの研究所です。試作機も彼がトップ製体師と共に作ったものなんです。核心ゾーンをスキャンするにも、彼に頼るほかありません」
「じゃあ彼を呼んで来い」冀楓晩はそう言った。
「そう簡単ではありません。うちの弟は体が……」
安實臨は何かを抑えているように、声が弱まっていく。ショートメールを送信しようとした指が二秒ほど止まり、また携帯を叩き始めて、冀楓晩に聞いた。
「冀さん、あなたの言う『小未』というのは、あの試作機のことですか?」
「そうだ。何か文句あんのか?」
「いいえ、ただ僕の弟とそっくりな試作機に、弟と同じ愛称をつけたのが面白いなと思いまして」
「僕がつけたんじゃない。小未は届けられた時から小未って名前だったんだ」
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