3-1 彼の人生は軌道に戻りつつある──冀楓晚はそう信じていたが、高校時代の自分にやられた。
冀楓晚は深呼吸して、痛くて硬くなった太ももを動かし、斜めのアスフォルト道路を歩き続けた。
ここは冀楓晚のアパートから車で約二十分の山で、交通量が少なく空気が澄んでいて、山麓から山頂まで徒歩で二時間しか掛からないため、近隣住民がよく日帰りハイキングしに来る。
冀楓晚はハイキングに全く興味がなかった。彼はここにいる理由はただ一つ……
「楓晚さん、見て見て!」
小未は冀楓晚から五、六メートル離れた山壁に立ち、木の根元に横たわっている手のひらサイズの多足の昆虫を指差して尋ねた。「これはなんですか?どうしてこんなに大きいですか?」
「あれはカブトムシ。僕は虫が好きじゃないので見せないで」
「楓晚さんは虫が嫌いです」
小未の声と顔は一瞬冷たくなり、カブトムシへ殺意のこもった視線を移し、右手の五本指を同じ方向に揃えて手刀にした。
冀楓晚はすぐに小未が何をしようとしているのかを理解し、足の痛みを無視して急いで数歩走って小未の手を掴んで言った。「ストップ!外で虫を勝手に殺したら君のことが嫌いになる」
「勝手に殺しません、楓晚さんが嫌いな虫だけを殺します」
「僕はこのカブトムシが嫌いではなく、ただ彼と視覚的または物理的に接触したくないだけ」
話している間に冀楓晚は小未を引っ張って前に進んだ。昔の彼は心の中でこの山、あの虫、頭の上の太陽と暴走率が七割に近いアンドロイドについて愚痴を言うが、今日の彼はそうせず、現実を受け入れてひたすら山道を登った。
理由は簡単だ。彼は自業自得だからだ。
さかのぼること九日前、冀楓晚は小未と十分間の約束をした後、彼は平和な一週間を過ごした。この期間中、アンドロイドの料理スキルが着実に向上し、ステップバイステップで相手に教える必要がなくなったため、彼の執筆速度は一時間二行から一時間六行に進歩し、そして小未のことで平均毎日二回ほど、思い迷い口角が上がったりしていた。
彼の人生は軌道に戻りつつある──冀楓晚はそう信じていたが、高校時代の自分にやられた。
冀楓晚は3LDKのアパートに住んでおり、それぞれの部屋は寝室、書斎と物置である。
物置部屋では段ボールとプラスチック製の収納ボックスでいっぱいに。そのうち一つは、冀楓晚が子供の頃から高校までの創作ノートを置いていた。これらの黒歴史……ではなく、記録は昔祖父母の家に保管されていたので、幸か不幸か、今日まで保存されていた。
小未は掃除のため二日間物置部屋に滞在したが、はじめは冀楓晚もあまり深く考えていなかった。いずれにせよアンドロイドは一時間ごとに書斎に行き、十分間彼を見つめていたが、そうして三日目になり、彼はやっと人間でさえ五坪未満の部屋を掃除するには数時間しか掛からないことに気づいた。
「小未!中で何して……え!」
冀楓晚はドアノブを握り物置部屋の外で凍りつき、冬用布団、読者からの手紙、大学の教科書と論文など重ねて入れた黄ばんだ収納ボックスが引き出されたのを見た。ボックスの蓋は床に横たわり、振り返るに忍びない彼の青春はノートという形でアンドロイドの手により見られていた。
このシーンは冀楓晚の羞恥心を引き起こし、彼の頭が十秒ほど真っ白になり、突然二つのことに気付いた。一つ目は、自分が部屋に入ったのを小未は全く気付いていないこと。二つ目は、よく考えると過去数日間小未は十分間の約束を厳守しており、時間オーバーも暴れるのも、網の目を掻い潜るのもしていなかった。
これにより、冀楓晚は小未がページをめくることをやめさせず、静かに物置部屋から出た。
次の二日間、冀楓晚の生活は非常に平和だった。しかし、作品の更新が途中で止まっても報いがないかもしれないが、同居人兼熱狂的なファンであるアンドロイドに、打ち切られた小説を含む黒歴史を読ませるのは、絶対に得策ではないことを事実が証明した。
「楓晚さん……」
小未は書斎のドアを押し開け、パソコンの後ろにいる冀楓晚を見ながらおずおずと尋ねた。「まだ一時間経っていないのはわかっていますが、ちょっとお邪魔してもよろしいですか?」
「正当な理由があれば、一時間が経っていなくても来て大丈夫だよ。どうしたの?」
「楓晚さんの物置部屋でこの本を見つけました」
小未は手に持つ色褪せたノートをあげて言った。「ここに書いた物語『角欠け』はとても素晴らしいですが、部屋中を探しても続編が見つかりませんでした。続編がどこにあるか知っていますか?」
冀楓晚はぼろぼろになり、『
「続編がないとは……」
「僕は書き終わってなかった。その時……多分振られて、しかも高校受験時期のはずだ、打ち切った後、それを再開しなかったので続編はない」
小未は目を大きく開き、数秒呆然してパニックに陥って尋ねた。「じゃ、あの、
「誰が誰を思い出したって?」
「翦が夜狐のこと、『角欠け』の主人公ですよ!夜狐は翦のために多くの犠牲を払いましたし、翦も夜狐のために再び支配されることを甘んじて受けました。彼らはお互いをとても大切にしているから、きっとお互いの記憶を取り戻すことができるに違いないですよね」
「それは覚えていない」
「そんな!」小未は声を上げた。
「それは僕が中学の時に書いたストーリーだ!中学校を卒業して十七年か十八年経ってるからその後の展開とっくに忘れてたよ」
「忘れてたって……」
小未はノートを持っている手を下ろし、震えながら枯れた声で尋ねた。「つまり、翦が夜んのことを思い出したかどうかは確認できないだけじゃなくて、彼らが無事に一緒にいるかどうかもわからないですか?」
──彼らは一緒にいる。
冀楓晚はこのように答えたかった。今の彼は悲劇を書かない作者ではあるが、本物の中二時の彼は違った。当時の彼はあらゆる種類の生離死別、求めても手に入れない話が大好きだった。
冀楓晚の沈黙から答えを読み取った小未の指が緩み、ノートを落とし、作家を一分近くじっと見つめた後、ゆっくりとかがんでノートを取り、書斎を出た。
そこから二時間、アンドロイドは十分間作家を見つめる権利を放棄し、夕食の時間になると、まるで幽霊のようにキッチンに入り込んだ。夕飯の支度から食事の終わりまで、彼の目には涙があった。
冀楓晚は、明日小未が充電を終えて再起動したら自分の黒歴史を忘れて、また活発で変態な子猫に戻ることを望んでいたが、彼の期待は裏切られた。翌日、翌々日、その次の日になっても彼を見つめているのは涙目であった。
四日目になると、冀楓晚は小未がどこからともなく二つの木板を掘り出し、翦と夜狐の墓石を作り始めたのを見た。
──もうこのまま放っておけない。できるだけ早く彼の注意力を逸らさないと。
冀楓晚の理性と羞恥心は同時に叫び、彫刻刀を持った小未の手を掴み、アンドロイドと目が合う時、彼が山や虫や太陽に文句を言えない言葉を吐いてしまった。
「一緒にお出かけしない?」
※※※※
冀楓晚が山の頂上に着いたとき、最初の考えは彼が死にかけているということだった。
小未が山腹で騒ぎを起こすのを防ぐため──アンドロイドは植物、昆虫、鳥類、登山者全てに強い好奇心を持っているため、歩みを止める機会を与えず、彼は全力疾走した。
運動習慣のない人にとって、この行動は死を求めるのに等しいのだ。道端のガジュマルの古木に辿り着いたとき、冀楓晚の足が折れそうになり、心肺が爆発しそうに喉がカラカラで、擦ると火をつけることができるほどだった。
彼は小未の手を離し、膝を押して息を切らして言った。「水……リュッ……リュックの中の……水を頂戴」
小未は速やかにリュックを下ろし、水筒を出し、蓋を外して冀楓晚に渡した。
冀楓晚は顔を上げ、水をごくごく飲んでいた。水筒の水を半分飲んでからやっと手を垂らして深呼吸し、目の隅からアンドロイドのクリスタルのように透き通った華奢な顔は、赤くも喘ぎも、汗をかきもせず、少し乱れた額髪以外は、全て出かける前と全く変わらなかった。
「君は……平気そうに……見えたな」冀楓晚はため息をつき、不平を言った。
小未は相手からの恨みを感じず、明るい笑顔で頷いて言った。「はい、私は全て正常です。移動式7GボケットWIFIの接続も安定です」
「それは良かったね……」
冀楓晚は無表情に答え、少し離れた東屋に向かって足を引きずり、石のベンチに座って息を深く吐いた。
小未は冀楓晚の後ろについて行った。彼は座らず、東屋の石段に立ち、山の麓の通りや建物を俯瞰し、右前方の二十階を超えるビルに指差して尋ねた。「楓晚さん、そこは私たちが住んでいる家ですか?」
「そこは……多分そうだ。そこじゃなくても近くだ」
「楓晚さんの一番お気に入りのカレー屋さんを見ました!」
「一番お気に入りじゃなくて、一番よく注文するだけ。だってそこは配達範囲内で唯一オムレツのある店だから」
「隣の公園の大きさはこぶし半分くらいですね」
「団地内にある小さい公園だから」
「ごみ収集車は小さなゴキブリのように見えますね」
「ゴキブリの話を言うな」
冀楓晚は厳しい口調で言い、それから水をごくごく飲んでカラカラの喉を潤した。
小未は首を伸ばして周りを見回し、口角を上げて驚いて言った。「すべての景色がとても小さくなっていて、小さいですが広闊な感覚もありました……こんなに素晴らしい景色を見せるために私をこの山に連れてきたのですか?」
「まあ、そうかな」
冀楓晚は罪悪感を持って答えた。小未を外出させた動機は相手の注意力をそらすためであり、この山を選んだ理由は、山自体も、家から山麓までの道も自分が書いたシーンがなかったからだ。
彼は人前で壊れたくないので、外出するときは本書いてあったシーンを絶対避けないといけない。
「楓晚さん!」
小未は突然大声で叫び、腕を伸ばして十メートル以上離れた香炉に手を伸ばし、「そこから煙が出ていますけど、消防署に通報しますか?」と尋ねた。
「いや、それはお香だから煙が出るのは普通だ」
冀楓晚はゆっくりと体を動かし、手で顎を支えて香炉の後ろにある土地公廟を見て、「それは天公炉と言うもの、基本的にどの廟にもある。参拝者が火のついた線香を香炉の中に入れて、煙で天公様に挨拶をする。いわば人間の最も古い無線基地局だ」と言った。
「では、私たちも入れに行きますか?」
「天公様か土地公様に祈ること、または聞きたいことがあればね。やりたいの?」
「やりたいです!」
「じゃ……」
冀楓晚は立ち上がり、少し止まってから石のベンチに再び座り、弱々しく言った。「十分間休ませてから行くわ」
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