2-3 これにより、冀楓晚の心の中に存在する理性と感性の天秤が揺れなくなった。

 冀楓晚は体の疲れや喉の痛みで目が覚め、薄暗い天井を見つめた。最初は全身の不快感に戸惑ったが、昨日雨の中で立ち止まったことを思い出すと自分に何が起こったのがすぐ理解した。

「風邪で熱が……」

 彼は枯れた声で囁き、解熱剤を探すため布団から出てベッドからゆっくりと降りようとしたが、足が床に触れた瞬間にドアが開いた。

 ドアを開けたのは小未だ。彼は湯おけとタオルを持ってドアの前に立っていた。冀楓晚がベッドから降りるのを見るやいなや、彼をすぐにプラスチック製の湯おけをキャビネットに置き、ベッドの横にあるハンガーにかかったコートを取って来て作家をしっかりと包んだ。

「要らない……」

「今は体が冷えたらダメです」

 小未は珍しく重々しい口調で話し、ドアに向けて冀楓晚を支え助けた。「お腹空きましたよね?ダイニングに連れて行きます」

「お腹が空いていない……解熱剤を飲めば大丈夫だ」

「ダメです」

 小未は冀楓晚をダイニングテーブルに押し付けて座らせ、振り返ってキッチンに入ってしばらくパタパタしてから、レモンのスライスが入ってストローをさしているカップをテーブルに置いた。「これはハニーレモネードです。まずこれを飲んでください。スープを温めて来ます」

「何のスープ?」

 冀楓晚の質問には答えなかった。何故ならば小未は彼が喋る前に既に振り返って小走りでキッチンに戻った。あの枯れて掠れた声で聞いた質問は二人の距離が離れているため、相手の耳に届きにくかった。

 彼は尋ねるのを諦め、頭を下げてストローを口に咥えた。

 最初は、ほんの数口飲むつもりだが、暖かい蜂蜜の香りとフルーティーな酸味が喉を通り抜けた時、喉を掴んだような痛みが、少し和らいだ。

 甘さが苦味を消し去り、作家は思わずもう一口を飲んだ。

 小未がテーブルに戻ったとき、ハニーレモネードは底をつき、アンドロイドの口角はわずかに緩み、すぐに緊張を取り戻して、スプーンと大小一つずつの磁器のボウルをダイニングテーブルに置いた。

 磁器の茶碗は空で、どんぶり茶碗は熱いスープで満たされ、透き通ったスープの表面には細かく刻んだネギと千切り生姜があり、ネギと生姜の間には一口サイズのスズキの魚肉が入っていた。みずみずしい香りが視界に溢れていた。

「魚の骨は全て抜きました」

 小未はスープを茶碗にすくい取り、息を吹きかけて適温であることを確認し、茶碗を冀楓晚の前に置き、「ゆっくり食べてください。お風呂の準備をします」と言った。

「風呂の準備って……また逃げた」

 小未の背中の影を見て、冀楓晚はスプーンを取り、ため息をつきながらスープを飲み込むと目を見開いた。

 風邪で味覚や嗅覚が鈍くなったが、口の中の魚介スープは甘辛く、魚肉の柔らかさと玉ねぎと生姜のシャキシャキ感が舌に吸い付き、弱った体に栄養を与えた。

 小未は冀楓晚が二杯目のスープを飲んでいた時にダイニングに戻ってきて、三杯目を入れてから、冷えなくなった解熱シートを剥がすのを手伝った──その時、当事者はやっと額に何かあることに気づいた。それから、食べ物と飲み物でいっぱいになった冀楓晚を風呂場に連れて行った。

 風呂場に足を踏み入れた後、冀楓晚はついに小未が話している『準備』が何であるかを理解した。アンドロイドは浴槽にお湯を入れ、エッセンシャルオイルのバスソルト、ユーカリ、松葉、ローズマリーの香りを混ぜた森のような香りとミストが浴槽を暖める。

 小未は冀楓晚を湯船のそばに連れて、冀楓晚を湯船の縁に座らせ、彼の上着に手を伸ばした。

 冀楓晚のぼんやりした脳はアンドロイドが何をしようとしているのかを理解したとき、コートはすでに脇に置かれ、上着の裾が相手によって持ち上げられたところだったので、彼は急いで上着を押し下げて言った。「やめなさい、君は……何をしているの!」

「服を脱いで、お風呂を手伝わせてください」

「自分で脱いで洗える!」

「楓晚さんは風邪です」

「僕は風邪だけど、障害者じゃ無い!」

「風邪は適切に治療しないと、障害者になります」

「このレベル……うう!」

 冀楓晚は小未に力ずくで上着を奪われて、アンドロイドはすぐに内外のズボンを脱ぎ、肌が冷たさを感じるやいなや、体にぬるま湯が降り注いだ。

「私は楓晚さんのために生まれ道具です」

 小未は浴槽から水をすくい、冀楓晚の肩にかけ、汗を洗い流して言った。「ですから、遠慮せず私を奴隷にしてください」

 冀楓晚は本当に小未の言葉遣いに突っ込みたかったのですが、アンドロイドの口調は深刻すぎて、霧が原因なのか眼鏡を外されたのか分からないが。彼は相手が泣きそうになっていると感じた。

 それで彼は突っ込みを飲み込み、ただ頭を上げて低い声で言った。「ありがとう。でも断る。SFでは、アンドロイドの奴隷化は人類の滅亡につながる」

「楓晚さんを滅ぼしたいものは、私がなんでも滅ぼします」

「これがもし猫であれば、しばらく命を…うわー!」

 冀楓晚はうっかりしてバランスを崩して後ろに倒れたが、幸い小未はすぐに手首をつかみ、作家が爆弾のように水に落ちるのを防いだ。

 冀楓晚が再び自分の目を疑ったのは、小未の全身がこわばり、目が大きく開いていて、彼よりも浴槽に落ちそうになった様に見えたからだ。

「僕は大丈夫」

 冀楓晚は思わずこう言った。

「ただ滑っただけで、本当に湯船に落ちても死なない、せいぜい水でむせるくらい」

 小未はまだ唇に力が入って緊張しているが、肩は少しリラックスしていた。「お風呂に入るのを手伝います」

 裸で小未に寄りかかると、冀楓晚は少し恥ずかしくなった。この状態は、愛猫が「ねぇねぇ、かまってーー」と何ら変わらないと必死に自分に言い聞かせることしかできなかった。

 小未は生き物でさえ無いし、コンピュータが体に触れると、誰が落ち着かないと感じるのか?

 ──しかし誰の家のコンピュータは人に触る?

 冀楓晚は自らの理性に聞いたとき、唇をすぼめ、現実に役に立たない疑いを捨て、浴槽に足を踏み入れ、腰を沈めた。

 温かなハーブの香りが冀楓晚の体を取り囲み、彼は筋肉を抑えきれずに弛緩させ、浴槽の端に足をまっすぐ伸ばした。

 冀楓晚の頭と首の間にタオルをすばやく詰めると、後ろから水の音が聞こえ、しばらくすると、ウォータージェットが頭に押し寄せた同時にアンドロイドは彼の頭皮を指のはらで洗う。

 これにより、冀楓晚はしびれを感じ、そして無意識に瞼が下がった。

「眠いなら、しばらく寝てください」冀楓晚の髪をシャンプーしながら小未は言った。

 冀楓晚は本当に眠くないと言いたかったが、風邪が引いた体は温水と適切なマッサージに完全に負けた。しばらく闘った後、彼は妥協することしかできなかった。「終わったら起こして」 

 ※※※※

 冀楓晚は答えを聞いていなかったが、十分くらい経って、アンドロイドは彼を起こした。割れ物を扱う様に彼を乾かして、新しいパジャマを着させ、寝室に連れて帰ってから、水と風邪薬を持ってきた。

 そして、冀楓晚は横になるのとほぼ同時に意識を失い、今度は夢も見ず、生理的欲求で目覚めるまでずっと寝ていた。

 彼が目を開けたとき、小未は非接触式温度計で体温を測っていたが、冀楓晚の目に合うやいなや、彼はすぐにひるみ、「起こしちゃいましたか?」と尋ねた。

「人間の耳は、非接触式温度計で起こされるほど良いわけではない」

 冀楓晚は上半身を起こし、驚いたことに、口はまだ乾き、筋肉はこわばっていたが、寝る前の喉の焼けるような痛みと、手足の疲労が半分以上解消されていた。

「ベッドから降りますか?私がお手伝いします」

「自力で大丈夫」

 冀楓晚は着実に床に足を踏み入れ、自分の感覚が勘違いではないことを確認した。彼の状態は、原稿に追いつかれて連日の夜更かしをした時よりも少し良くなっているかもしれない。彼は寝室から出て風呂場に向かった。

 彼はトイレをしてさっとシャワーを浴びると、アパートの空気は鶏肉の甘さに染まった。

「夕食の準備ができました」

 小未は食卓に土鍋を置いて、蓋を開けた。「固形の食べ物が欲しくなるのではないかと思ったので、ネギ鶏スープのお粥を作りました」

 冀楓晚がテーブルに座って、小未がお粥を入れてくれたのを見て、このシーンは前回テーブルに座ったときとほとんど同じだったが、風邪による目眩と疲労が治まった後、すぐに異常に気づいた。

 これは前回の食事に比べた異常ではなく、過去の小未に比べると──相手が電源を入れてから自分が熱で昏睡状態に陥るまでの間、アンドロイドはもはや鳥のように彼の周りを飛び回ることがしなくなり、しかも、よく教育され静かに頭を下げて、正確に主人に仕える訓練された使用人の様に振る舞った。

 明確に言えば口角を引き締め、「私は怖がっているけどバレちゃいけない」という表情でご主人様にご奉仕する態度であった。

 理性的に考えると、この変化は冀楓晚の問題を解決した、小未の行動と行為は世話をする必要がある子供ではなく、彼の役割──コンパニオンアンドロイドに近い。彼は安堵のため息をついてこの変化を喜んで受け入れるべきだったが、しかし……

 ──「楓晚さんと出会えて、同じテーブルに座って、楓晚さんが作ったオムレツを食べるのはとても幸せです」

 ──「これは雨だ!」

「お気に召しませんか?」

 小未の声と顔が冀楓晚の前に現れ、アンドロイドはスプーンをしっかりと握り、浅い色の瞳に強い恐れがあった。

 そして、これにより、冀楓晚の心の中に存在する理性と感性の天秤が揺れなくなった。

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