Ch.23 米酒

 紆余曲折な一日を経て、誰もが心身ともに疲れ果てていた。

 皆が赤レンガの家に戻るやいないや、譚景山はシャワーを浴びると一言を言い、パスルームに向かって行った。

 曹永賀は荷物を降ろして、ソファーに倒れ込んだ。譚雁光も腰を下ろし、自分に一杯の水を汲んだ。誰も喋る気分でなかったが、向経年はおそらく今皆は同じことを考えていると思った。

 ――譚景山はおかしい。

 しかし、譚雁光に配慮して誰も言い出せなかった。

 譚雁光はコップを持って、しばらく考えた後、ためらいがちに言った。「僕のお兄さんは……」

 向経年は何を言ったらいいかわからなくて、汗まみれの髪をかいた。

 逆に、空気を読めない曹永賀は、譚雁光がその話を始めたと聞くと、「譚兄、彼は絶対何かを知っているよね」と率直に言った。

 譚雁光は唇を動かしたが反論できなかった。彼の顔は青ざめになり、眉を深くひそめた。

「勝手に結論を出すな」向経年は答えた。彼は椅子を引きずって座り、気を揉みながら言った。「俺たちはここについて何も知らない。もしかしてお兄さんは、俺たちが気付いていない事何かを発見したかもしれない」

「後で彼と話します」譚雁光は早口で答えた。

 彼は足に乗せた両手をぎゅっと固め、硬い表情で目の前の床を見つめて繰り返した。「彼と話してみます。僕のお兄さん、彼は――」

「二人で話をしたらまた話そう、いい?」向経年は手を差し伸べ、譚雁光が自分のズボンにしがみついている手を覆い、軽く叩いた。「雁光、あんまり深く考えんなよ」

 譚雁光は首を横に振った。彼は強張った顔の筋肉を動かし、醜い表情を見せた。「僕は――」



「お兄さんのこと、本当にわかってるのかな」


 #


 譚雁光は、譚景山がシャワーを終えるまで、部屋で三十分近く待っていた。

 譚景山は部屋に入るとすぐに、弟が何も言わずに彼を見つめているのを見た。彼は髪を拭きながら何気なく話した。「光ちゃん、風呂に行かない?長時間海にいたから、全身に汗をかいていて気分悪くない?」

 譚雁光は彼の話に答えずに、「お兄さん、ちょっと話そう」と言った。

 譚景山は動きを止め、彼をじっと見つめた。しばらくすると、ついに妥協したようにベッドの端に座った。

「何を話すの?」

「この島のこと、よく知っているの?」

「まさか、」譚景山はタオルを取り、「六十年前にある存在さえ知らない島のこと、知るわけがないだろう?」と言った。

「朝、あの奇妙な霧に閉じ込められたとき」譚雁光は彼をじっと見つめた。「どうやって――」

「どうやって霧の範囲をわかるって?」譚景山は話を続けた。「言ったじゃん?通常、海霧の範囲は広いんだよ。これは常識だよ。甘いね」

 でもあれは普通の霧ではなかった。譚雁光は思った。

 朝の鬼截路のような航行を考えると、今でも恐怖が残っている。彼は何かの手がかりを見つけるように譚景山の表情をじっくり見たが、そのあまりにも若い顔には一分の隙もなく、穏やかな表情をして逆に彼が理由もなく問題を起こしているように見えた。

「お兄ちゃん、日光を浴びるのが好き?」

「ん?」譚景山は弟が突然話題を変えたことに理解できなかった。「どうして急に?」

「昨日、永賀と一緒に行く約束をすっぽかした」と譚雁光は尋ねた。「その後、どこに行ったの?」

 譚景山は答えなかった。

「あなたは日光を浴びるのが嫌いだから彼を残したと永賀が言った。その時、あなたは日光を浴びるのが嫌いな人じゃないと思ったが、でもその後、あなたは一体日光を浴びることが好きかどうかはわからないことに気付いた」

「僕が忘れたのか?それとも最初から知らないのか?」譚雁光は必死に笑顔を作ったが、譚景山の反応から判断すると、かなり醜いに違いない。「お兄さん、僕はわからないんだ」

「僕はますます多くのことを忘れてしまう。もうあなたのことをわからなくなるほど……多い」

 譚雁光は、譚景山が何かを抑えているように、何度も深く息を吸い込むのを聞いた。その後譚景山は譚雁光の手を取り、しっかりと握った。「光ちゃん、お前の病気のこと、俺がなんとかするから心配しないで」

「たくさんのことを忘れたとしても、俺を……忘れたとしても、それは一時的だ」譚景山は彼をじっと見つめて強調した。「兄さんは解決策を見つけるから」

 譚雁光は静かに見返した。「……じゃ、昨日はどこに行ったの?」

「繁華街でぶらぶらしただけだ」譚景山は目をそらし、手を離した。彼はベッドの端から起き上がり、立ち去りながら譚雁光を催促した。「早く風呂入ろう!全身海の匂いがしてる」

「お兄さん……」

「光ちゃん」譚景山はドアノブを握り、譚雁光に背を向けた。その表情があまり見えなかった。「兄さんはあなたを傷つけはしないから」


 #


 阿財の要請により、向経年は岩礁海岸に戻り、阿財と一緒に釣り筏を勇伯家の近くの浜辺に泊めた。

 勇伯に再び会い、朝に起こったことはまるで幻覚のようだった。老人はいつものケチな感じでブツブツを言っている姿に戻っており、釣り筏を使った感想まで彼に聞いた。

 向経年は心の中で二人を少し警戒して恐れていたので、長くその場にとどまる勇気がなかった。釣り筏に問題がないことを確認すると、すぐに言い訳を探して帰った。しかし、行き来するのに多くの時間がかかったため、向経年が戻ったとき、通りかかった家の大半は電気が消されていた。

 薄暗い月夜に合わせて、蝉の鳴き声と夕風が梢を揺らす音がちらほら聞こえた。彼はゆっくりと赤レンガの家に戻った。中庭に踏み入れたところ、明かりは見えないが、酒の匂いがプンプンしてきた。

 向経年は遠くからレンガ壁横の木陰の下に人影が見えた。よく見ると、譚雁光はまたドアの横の長いベンチに座っており、下を向いて何をしているのかわからなかった。

 彼が近づくや否や、言葉を発する前にビンや缶の山を蹴ってしまい、パチパチと音を立てて散らばり、その音は静かな夜には耳障りだった。彼は下に向くと、赤ラベルの米酒二本とグラスの山があった。

 向経年は唖然とした。「夜なのに、外で米酒を飲んでるの?」

 譚雁光はゆっくりと顔を上げ、淡々と彼を一瞥した。「六十年前は米酒しかなかったんですよ」

 彼の表情があまりにも穏やかに見えるので、酔っているかどうか確定できず、向経年は彼をじっくりと観察した。彼は気をつけながらピンと缶の山を避け、譚雁光のそばに座った。

「どうしたの?」

「どうしたのって、ただ酒を飲むだけです」譚雁光は軽く答え、手を上げてもう一口を飲んだ——今になって向経年は、彼がまだグラスを持っていることに気付いた。

 向経年は眉を上げ、相手が説明したがらないのを見て、それ以上聞かず、去るふりをした。「――じゃ先に入るから、ごゆっくりどうぞ」

 しかし、彼が立ち上がってベンチを離れようとした時、譚雁光の手が彼の裾をつかみ、離れなかった。

「飲まないですか?」譚雁光は顔を上げて彼を見て、相変わらず表情が穏やかで、あたり前のように彼を尋ねた。

 向経年は、譚雁光がおそらく酔っていることを確認できた。今の彼はいつもの慎み深い態度とは随分違った。

 しばらく考えた後、向経年はもう一度腰を下ろした。一方、従わないと相手がどう反応するかわからない。一方、意地悪くて酔っ払った相手の姿を見てみたいと思っていた。

 彼が座るとすぐに、米酒をたっぷり入れたグラスを渡された。

「……」向経年は黙って受け取った。

 譚雁光は彼がお酒を受け取ったことを見て満足したようで、自分の位置に戻り、手に持ったお酒を見つめ、何を考えているのかわからなかった。

 このまま沈黙が続くと、外でどれくらい時間を使うかと予想できないので、向経年は先に口を開いた。

「お兄さんは?」なぜお酒を止めさせなかったの?向経年は後ろの言葉を黙って呑み込んだ。

「もう寝た……」譚雁光は酒が入ったグラスを見つめながら呟いた。「……彼の話をしないで」

 向経年は一瞬止まり、相手の機嫌が悪いと感じたため、優しい口調で、「彼はどうしたの?」と尋ねた。

 譚雁光は答えなかった。彼は俯いて何かを呟き、向経年が彼の声をはっきりと聞こえる前に、突然振り向いて向経年を見た。「――僕は彼のことを忘れたみたい」

「え?」向経年はその突然の言葉に戸惑った。

「僕の病気」譚雁光は前に振り向き、低い声で言った。「最近、忘れた事がどんどん増えてきた。お兄さんのいろんな好みはもう覚えていない」

「結局、彼はまだ僕のお兄さんなのかな?」

 譚雁光が言ったことは支離滅裂だったが、だいたい意味は理解できた。次第に記憶を失っていき、最終的に身近な人も全く別人になってしまうのではないかと恐れているのだろう。

「彼は何も言わないただのクソ野郎……説明したら死ぬのか?」譚雁光は呟いていた。彼はただ誰かに聞いてもらいたいだけで、回答が欲しく無さそうだった。ついでに悪口も言ってしまった。「ずるいやつ……顔と正反対だ……」

 向経年は頭を掻いた。病気のことについて彼は全くわからないし、兄弟間の問題についても彼が口を出さないほうがいいと思った。そう考えると、彼は言った。「多分十四歳の時、俺はある男の子と出会った」

 譚雁光は彼に視線を向け、明らかに困惑した顔をした。おそらく相手がどうしていきなり関係のない話を言い出したのを理解していない。

 向経年は話を続けた。「あの時、オヤジが俺を遊びに連れて行ったんだけど、とても田舎の町に行ったようだった。どこなのかもう覚えていない」

「当時、いきなりスケジュールを入れられて、俺も反抗期の最中だったので、最初に出発しようとした時、すごく抵抗感があった。その旅の前半にはずっと不快な状態だった」向経年は自分が若い頃の頑固さや敏感で高い自尊心に微笑んだ。「当時、オヤジは俺の同意を得ず、事前にも知らせていなかったことについて、全く尊重されなかったと思ったから、めっちゃ怒ってた。町に着いてもオヤジとは全く喋りたくないから、一人で走り回った」

「あの男の子に出会ったのはその時だった。彼はとても奇妙で、少し変わった子だった」向経年は昔を振り返り、「理由はわからないが一緒に遊んだ。彼は俺より少し年下だと覚えているけど、彼の顔、名前、一緒に何を遊んだかは全く覚えていない」と言った。

「最後、俺が帰る前に、証としてお互いに小物を交換した。彼は俺にそう言った。いつか外の世界で再会したら、お互いを認識していないかもしれないが、それでも大丈夫」

「……どうして大丈夫なの?」譚雁光は心配そうに尋ねた。

「『だって僕たちの魂は同じ色だから、個性の本質は変わらない。今はこんなに仲良しだから、何年も経って再会しても、きっともう一度一番の親友になる』と彼がそう言った」向経年は思わずに笑った。「無邪気だけど少し馬鹿な言い方でしょう?」

 譚雁光は黙ってうなずいた。

「でも、俺はそれが本当だと信じたい」向経年は空を見上げると、月は完全に出てきた。彼は手に持っている全く飲んでいない酒を置き、そして譚雁光の手からそっとグラスを取った。

「どうして?」譚雁光は手に持っていたグラスが取られたことにも気付かず、しつこく答えを求めた。

「時が経ち、現実があなたの時間を無駄にしたとしても、人の本質は変わらない。この不変の本質があるからこそ、人々が互いに絆を結ぶ礎だろうね?」向経年は答えた。「だから、いくつかのことを忘れていたとしても、兄弟の絆は変わらないと思う」

 話題を変え、向経年は彼に言った。「――それに、一緒に新しい思い出を作れるし、それが一番大事でしょう?」

「そうかな……」譚雁光はつぶやいた。彼はやっと手に持っていたガラスがなくなったことに気づき、困惑しながら自分の手を見ていた。

 その時、向経年は譚雁光の掌と指先が全部赤くなり、しかも少し腫れていることに気づいて、思わず彼を笑った。「他の人が酒飲むと顔が赤くなって首が太くなるけど、なぜあなたは手が赤く腫れるの?」

 話が終わった後、思わず彼の手を掴んで、じっと見つめながら、ついでに腫れた指を揉んであげた。


 不意に触れられ、譚雁光は一瞬震えてから凍りついた。相手のごつごつした指は熱くて、指の腹が薄いタコで覆われている。ザラザラした感触は、揉まれた指先から小さな電流をもたらした。触られた指先から胸までピリピリと登ってきて、いたずらしている羽毛のように、次々に襲って来る。

 譚雁光は隣で彼の手を引っ張って遊びをしている男を見て、相手は真剣に彼の腫れた指を揉んでいた。彼の眉と目の彫りが深く、この時に俯いているから、相手に一途に愛情を注ぐような錯覚を与えてしまう。鋭い輪郭は月明かりに滲まれて優しい弧度になり、彼の手を持っている姿はまるで可愛い小動物を抱えているように――精巧な嘘のようだった。

 酒の匂いを伴い、恥ずかしさを混ざっている怒りに襲われた。この怒りは激しく理不尽であり、荒れ狂うアルコールのせいで彼は久しぶりに理性を失った。

 すると、譚雁光は悪い態度で口を開いた。「――おい!」

「ん?」相手の機嫌の変化を察知した向経年は、訝しげに見返した。

「わざとだよね?」

「……なに?」

「僕の手!」譚雁光は力強く手を引っ込め、男を激しく睨みつけた。「お前は、わざとだよね!」

「待って、わざとってなに?」向経年は相手の黒目が自分を鋭く睨んでいるのを見て、獰猛で邪悪なふりをしたいようだが、その少しぼんやりした目つきと相まって、小動物の脅威に近い感じだった。

 そんな譚雁光を見ていて、向経年は泣いていいのか笑っていいのか、どう反応したらいいのかわからなかった。「何の話をしているのか全くわからないんだけど?」

「数日前からこんな感じでどんどん近付いてきてる!近づかないでって言ったのに全く聞いてくれない!」譚雁光は何かのスイッチを入れたようで、怒って不平を言い続けた。「どんどん近づいてきてるだけならまだいいが、手を出しやがって!お前はストーブのようで、寄ってくると暑いから、知らないの!?」

「あ、えっと……」向経年は少しやましい気持ちで頬を掻いた。

 譚雁光はいつも控えめで礼儀正しい感じがしていた。向経年は偶然に相手の違う表情を発見した。その反応がとても面白いので、からかわずにいられなかったが、予想外に彼を爆発させてしまった。

「もうわかっているからそうしてるだろう?」譚雁光はまだ爆発している。「僕をバカにして面白いの?」

 この話に対して向経年は本当に理解できず、すぐに抗議した。「待って!バカにしていないよ!わかるって何?」

 言葉が落ちた途端、真っ赤な手が伸びてきた。


 譚雁光はいきなり男の襟元を掴み、強く相手を引き寄せた。「お前は僕が男好きだってわかっているからわざとそうしてるじゃないの?」と小声で怒鳴った。

 向経年の目を見開き、相手の怒った表情を凝視した。彼の頭の中が数秒間真っ白になった後、優しい声で彼を慰めた。「えっと……まず落ち着いて……」

「なぜ僕は落ち着かないといけないの?」相手の慰めを聞くと譚雁光はさらに怒った。彼は男の襟元を掴み、さらに近寄った。「何で僕だけ落ち着かないといけないのよ?このクソ!」

「わかった、わかった……俺だ、俺が落ち着かないと」向経年は急いで相手の言葉に従い、自分の襟元を掴んだ手を軽く握った。「まず手を離して——」

「お前の手が熱いから触らないで!」

「わかった、わかった、じゃ自分で離して……」

「何で僕が手を離さないといけないのよ?!」

「……」



 一晩中話し合った後、向経年はやっと泥酔した人を自分の部屋に戻るよう説得した。相手が無事に部屋に入ったのを見て、彼はやっと安堵した。外に出て散らばった酒のボトルを大人しく片付けた。譚雁光が座っていた場所に近寄ると、地面にまだ水垢が残っており、未知の液体で描いた怒った顔の絵だった。

 さっき酔っ払って怒鳴ったり悪口を言ったりした相手の姿を思うと、彼は思わずフッと笑ってしまった。そのわがままで理不尽な性格は、考えてみるとちょっとかわいい――向経年は唖然とした。


 ……かわいい?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る