Ch.22 霧

 翌日の夜明け、向経年は曹永賀を連れてヨットへ荷物を取りに行った。懐中電灯、方位磁針、ライフジャケットなど必要なものだけを持ってきた。曹永賀は昨日よく眠れなかったので、朝早く起きた時、少し怠そうだった。荷物をまとめながら居眠りしていた。

 二人は手早く片付けをした後、赤レンガの家で待っていた譚兄弟と合流した。四人はいくつかの衣類と昨日阿月おばさんからもらった保存食を持って勇伯のところへ駆けつけた。

 向経年が勇伯家の塗装が剥がれたドアをノックすると、相手は眠りを邪魔されて不機嫌そうな顔をしていた。おじさんはブツブツ言いながら彼らを釣り筏のところに連れて行った。「お前たち、朝一で駆けつけてきてノックするなんて、わしが驚いて死にそうだった!」

 向経年は恥ずかしげもなく前に出て詫びた。「勇伯、ごめんなさいね。俺たちはあまり時間がないから、できるだけ早く引き揚げに行きたいですよ」

 勇伯は冷たく鼻を鳴らし、釣り筏を指差した。「もういいよ、このボロ船はあと何回かしか使えないから、自分らで何とかしてくれ」

 修理された釣り筏は浜辺に停泊しており、向経年はそれが前回見たときよりもはるかに綺麗になっていることに気付いた。老人は想像以上に口と腹が違い、きちんと手入れをしたことがわかった。

 皆は勇伯に何度もお礼をしてから荷物を釣り筏に載せた。そして、力を合わせて釣り筏を波打ち際に押し出していった。勇伯は手を後ろで組み、ゆっくりついて行った。


『バシャン——バシャン——』」

 釣り筏ようやく水に入った。向経年が譚兄弟を先に船に乗せた後、曹永賀を乗せてエンジンをかけてもらい、彼自身は後ろで釣り筏を一気に海へ押し込む準備をしていた。

「永賀、準備できた?」向経年が声を上げて叫んだ。

「行けるよ——」

 曹永賀の返事を聞いてから向経年は動き出した。彼が力を入れようとしたとき、後ろからバタバタと言う乱雑な足音が聞こえ、誰かが彼の腕を力強く掴んだので、向経年はパッと振り返った。

 老人の痩せ細った手は蔓植物のように彼の腕をしっかりと掴み、皺だらけの顔は獰猛にしてパニックに陥っていた。曇った目はピントが合わずに揺れ、嗄れた叫び声が老人の喉の奥から絞り出されているようだった。「行っちゃいけない――あの海、行っちゃいけないよ――」

 向経年の心臓が一瞬激しくドキッとしたが、彼は冷静を保とうとした。「勇伯、離してください、危ないですから……」

 しかし、老人は彼を無視して泣き叫びながら、彼を必死に引っ張り続けていた。「行っちゃいけない……行っちゃいけないよ……」

「どうしたんですか?」話し声が聞こえた譚雁光は船の端から頭を突き出して尋ねた。「手伝いましょうか?」

 向経年は老人を支えながら、「大丈夫、俺が何とかする」と答えた。

 そのとき、向経年を引っ張っていた老人は突然動きを止め、動かずに向経年をじっと見つめ、「この島からは出られないよ」と嗄れた声でゆっくり言った。

 向経年と譚雁光はその言葉に唖然とした。

 老人は彼を放したが、曇った目から放つ視線は彼の魂を貫きそうだった。「……お前たちは戻ってくるよ」

 向経年は老人の曇った目から目を離すことができず、体が強張り、頭が真っ白になった。膨大な情報量を処理できないパソコンがクラッシュしたように、悪寒が彼を襲った。


「――向経年!」

 譚雁光の声だった。向経年は彼がこんなに大きな声を出したのを初めて聞いた。彼は正気を取り戻し、何かに争うように力を入れると、釣り筏はスムーズに海に出た。

『ブォン!――』モーター音が鳴り、船が前に押し出されていた。

 船縁を掴み、向経年は船に飛び乗った。思わず振り返ると、老人はまだ岸に立っていた。

「どうした?さっき何かあったの?」曹永賀はコンソールの後ろから頭を突き出し、何があったのがわからない様子だった。

 向経年は大きく息を吐き、「永賀、スピードを上げろ!」と言った。

「何で急に?出発したばかり――」

「とにかく、早くスピードを上げろ!」


 #


 彼らは最初、島に沿って座礁した場所まで向かった。そこに着き、あの頃の嵐の位置を確認した後、スピードを上げて進んだ。

 釣り筏のスペースは広くないので、向経年は気にせず船底に座った。しばらくすると、譚雁光がやってきて、彼のそばに座った。

「さっき……」二言だけ言った後、譚雁光は立ち止まった。言葉では言い表せない不安な気持ちでいっぱいで、彼は何を言ったらいいかわからなかった。

 老人の声が心に残り、あの讖言のような言葉は何かの前兆か呪いのようだった。譚雁光はそう考えないように努めたが、恐怖心は彼がうまくコントロールできるものではなかった。

 突然視線の中に手が現れ、彼のあぐらをかいた足を軽く叩いた。譚雁光は顔を上げ、腕のほうに沿って目を向けた。

「あまり考えないで」向経年は譚雁光のぱっちりとした目を見て、慰めるように叩いた。「おじさんは年を取っているから、ナンセンスな話をするのもがよくあるんだ」

 譚雁光が何か言おうとしたとき、突然前から譚景山の声が聞こえた。

「あのさ――」譚景山は振り返って彼らを見た。「霧が出てきたよね?」

 いつから始まったのかわからず、周囲に薄霧が広がってきた。彼らは島から少し離れたところを航海していたので、海以外に何にも見えなかった。霧はかすんだ白いガーゼのように幾重にも重なり、次第に視界が狭くなってきた。

「何でいきなり霧がかかったの?」向経年は急いでコンソールに行き、「永賀、方向は変わってる?」と尋ねた。

「いいえ、ずっと見てる」曹永賀は答えた。

 向経年がコンパスをちらりと見て、確かに方向は正確だったが、周囲の霧が濃すぎるため、このまま進むとルートから逸脱する可能性がないとは言えなかった。それを考慮すると、彼は曹永賀に船を止めるように指示した。

「霧が少し晴れるのをちょっと待とう」向経年は他の者たちに言った。


『カチッ——』エンジンの音が止まり、周りはさらに静まり返った。

 急に出た霧は指先が見えないほど濃かった。彼らはお互いの姿をほとんど確認することができず、遠くにあるものが全く見えなかった。濃霧は白いカバーのように、船全体を蒸篭みたいに覆った。彼ら四人は、自分以外に何の生き物もいない真っ白な空間に身を置くようになった。

 しばらくしても、霧が消える気配がなく、しかも風も全く吹いていなかった。曹永賀が耐え難く口を開いた。「向兄、霧はしばらく消えそうにないから、とりあえず進もうか?」

 霧が消えない様子を見て、向経年は同意した。「……じゃ、出発しよう」

 静かな広い海に再びモーターの音が響き渡った。船は、白い布をハサミで切り裂くように、少しずつ突き刺して行き、よろめきながら前進した。

 船の前進につれて、曹永賀は霧が少し晴れたことに気づき、興奮して叫んだ。「向兄!見て!目の前は陸地だよね?」


 向経年は前に出てじっと見つめ、間も無く顔が真剣になり、振り返って叫んだ。「だめだ!永賀!引き返せ!」

「はあ?」曹永賀は反応せず、ばかげた様子で尋ねた。

 船体が白い霧を突き破り、目に入ったのは見慣れた海岸と座礁したヨットだった。

「東啓島に戻ったぞ!」と向経年は叫んだ。

「――どういうこと?」譚雁光も立ち上がって状況を確認しようとした。見慣れたヨットを見て少し立ち止まり、「霧の中でルートを外れました?」と言った。

「おかしいな!コンパスをずっと見ているけど、ルートは全然外れてないよ?」曹永賀は大騒ぎをして船首を回した。船体が急に傾き、皆が慌ててよろめきながら支点を探した。

「船の運転本当にできるのか?」船縁に半分横たわっている譚景山は曹永賀に叫んだ。

「じゃ、譚兄が運転したら?」曹永賀も負けないように反論した。

 船首は向きを変え、島の反対方向へ高速で向かった。向経年は、徐々に遠ざかる海岸を見て、なぜか不安でたまらなかった。

 案の定、向きを変えて間も無く、白い霧がまた濃くなった。

「……霧がまた現れているよね?」譚雁光は突然、彼らが再び濃霧に囲まれており、視界がまた遮られたことに気付いて驚いた。

 向経年はさらに不安になり、彼のまぶたがピクピクした。彼は歯を食いしばって言った。「永賀、止まらずにこのまま進んで」

「はい!」


 船はスピードを上げて白い霧の中を進んでいた。水しぶきをあげ船体にかかり、突然海上の沈黙が破れた。霧は音もなく速く過ぎ去り、四人は黙って息を潜め、運命を受け入れるように何かを待っていた。

 すると、ややあって霧が再び突然消えた。晴れてきたと同時に、曹永賀の悲鳴を伴っていた。

「――どういうことなんだ?!」曹永賀は信じられないように叫んだ。

 あの見慣れた黒い岩礁の海岸、同じく座礁した船。今、目の前にある光景は、不吉な予兆のように、たくましく立ちはだかった。

「引き返せ!」向経年が咆哮した。彼は二三歩でコンソールに来てコンパスを必死に見つめていた。コンパスは、船の向きと共に素直に方向指示が変わり、外れていなかった。

 しかし、彼らが三度目に白い霧を突き破っても、同じ黒い岩礁海岸を見たとき、向経年はコンパスがもう死物になった事に気付いた。

 この時、太陽は高く、灼熱の姿勢で容赦なく日光が降り注いだ。誰も暑さを感じず、筏に乗っているメンバー全員が骨まで浸透された寒さに包まれていた。誰も口を開かず、お互いの異常な呼吸音が心の動揺を示していた。

「……一体、一体どういうことなのよ……」曹永賀は震えながら口を開いた。泣きそうな声だった。「鬼截路なのか?」

「その白い霧に何か問題があるのですか?」譚雁光は尋ねた。気持ちを抑えるために最善を尽くしたが、向経年は彼の不規則な呼吸から相手の気持ちを察知した。

 向経年は、喉から心臓が飛び出しそうな気持ちを抑えるため、深呼吸をした。何の異常もないコンパスをちらりと見て、曹永賀に代わり自分で舵を取った。

「――もう一度行こう」向経年は低い声で言い、舵を切った。今回、彼は一度もコンパスを見なかった。

 残念ながら、結果は変わらなかった。再び白い濃霧を抜けた先には、見慣れた景色があった。唯一の違いは、今度海岸に立っている人がいるのだ。


 ――阿財だった。


「おい――向さん――」阿財は手を降って彼らに向かって叫んだ。「引き揚げはどうだ?——」

 向経年は応答しなかった。阿財の声は、何かの未知の召喚のようだった。眩しい陽光が彼の角膜を刺激したせいで、岸辺にいる人影は残像のように見えるので彼の認識は混乱させられた。恐怖が彼を襲い、その首を絞めていた。他のメンバーも彼と同じように恐怖を感じていることがわかった。そして、曹永賀は彼のそばで壊れた機器のように震えていた。

 灼熱の太陽の下にいるのに、冷や汗が額を流れた。向経年は何かを言おうとしたが、彼は喉から「ハァハァーー」の息音をしか絞り出せなかった。


「ーー着岸しよう」

 突然、譚景山が喋った。彼はすべての人に背を向け、海岸を眺めていた。「海でぐるぐる回り続けても意味がない。あの白い霧がある限り、僕たちは出られない」

 向経年は彼を見て、困惑の気持ちを隠せず、「この島には問題あるのに、それでも戻りたいのか?」と聞いた。

「じゃあ、どうすればいい?」譚景山は振り返り、不機嫌な態度で彼を見た。「ずっと海で時間潰し?」

「でも、この島はおかしいよ」向経年は強調した。「この島ではまだどんなことが起こるのがわからない、霧が消えるのを待ったほうがいいかもしれない」

「それで、ずっと海で待つの?いつまでに待ったらいい?」譚景山は鋭く言い返した。「みんなが餓死するまで?」

「待って」譚雁光はその時突然話を割り込んだ。「迂回してその霧を避けたらどう?島の他のところから出発してみては?」

「海霧は避けられないよ」譚景山はどうしようもなく答えた。「この海、島の外はすべて霧なんだ」

 譚雁光は口を開いて、そっと尋ねた。「――お兄ちゃん、島の外は全部霧があることは、どうやってわかったの?」

 譚景山は一旦言葉を切り、すぐに答えた。「海霧の範囲は通常数十平方キロあることを知らないの?この島もそれほど大きくなく、今風もないし、霧は晴れないよ」

 譚雁光は兄をじっと見つめ、しばらくしてから「……うん」と答えた。

 少しの間、誰も喋らなかった。

「今はどうしたらいいの?」曹永賀は思わず尋ねた。変な雰囲気に囲まれた三人を見て居ても立ってもいられなかった。「航海を続けるべきか?」

「――島にも戻ろう」ややあって向経年は口を開いた。

「向兄……」

「永賀、大丈夫。戻ろう」

 曹永賀は皆の重い表情を見て、少しためらった後にエンジンを始動した。半刻ほどして、釣り筏がよろめきながら着岸した。四人は無言で船から飛び降り、釣り筏を岸に押し上げた。


 海岸に立っていた阿財は彼らが着岸したのを見て、すぐにやってきて彼らの収穫を確認しようとした。「どう?何かを引き揚げたの?」

 向経年は無理して彼に微笑み、「……何にも」と言った。

 阿財は案の定の表情を浮かべて、向経年の肩を叩いて、「気にしなくていいよ。海は深すぎるから引き揚げられないのが普通だよ」と慰めた。そして、「後でもう一度釣り筏の状態を確認して勇伯に返さないといけないな」と呟いた。

 阿財に催促され、皆は荷物を持って初日島に来たときのルートにもう一度踏み出した。向経年は一番後ろにいた。


「――譚景山」岩礁海岸で、向経年が初めて彼を呼んだ。

 譚景山を除き、全員が立ち止まって振り返った。

「あなたは、家に帰りたいよね?」

 波が岩礁海岸にぶつかり、風が次第に強くなってきた。

「――バカを言うな、当たり前だろ?」譚景山は振り返っていなかった。


「あなたたちよりずっと家に帰りたいのだ」

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