けもの

東雲そわ

第1話

 犬よりも大きな足跡だった。それでいて歩幅は妙に短く、辺りに不規則に散らばっている。

 懐中電灯で照らすと、幅広の肉球を中心に四つの足指が浮かび上がった。太く長いその先端は、地面を抉るように深く鋭く刻まれている。

 最後に雨が降ったのはいつだろうか。すっかり乾き切った土で覆われた農閑期の田んぼの上。深夜に吠えだし、いつまでも鳴き止まない番犬を黙らさせるため、散歩に連れ出した私が見つけたのがその足跡だった。

 寂れた田園が広がる殺風景な田舎町だ。熊や猪が闊歩するような山もなく、ぽつぽつと佇む林や竹藪に狸や鼬などの小型の野生動物が潜む程度で、近所で大きい生き物といえばヒトを除けば、我が家の番犬タローしかいない。

「なんだろうねこれ」

 タローに話しかけても、足跡に鼻を近づけスンスンしているだけで、もちろん人語は返ってこない。

 スンスン、スンスン。

 鼻先を地面にこすり付ける様に臭いを嗅ぎながら、タローがその奇妙な足跡を辿っていく。

 やはりその足跡は不規則で、タローは発情期の雌犬に振り回されるかのように田んぼの中をぐるぐるぐるぐると回り続ける。周囲に気を使う必要のない深夜ということもあり、長めに伸ばしていたリードが弛んでは伸び、弛んでは伸びを馬鹿みたいに繰り返していた。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。

 かかりつけの獣医に「やや肥満」と診断されたビッグなボディをせっせと揺らして歩くタローは、早くも息が上っていた。

 やがて疲れたのか、それとも単に飽きただけか、ようやくそのループから抜け出したタローが、畦道を挟んで隣り合ったもう一つの田んぼの方へと向かっていく。

 そこには、足跡よりも大きな痕跡があった。

 何かが砂浴びでもしたかのように、地面が大きく荒れていた。その中程まで進んだタローが、ほんの一瞬、小さな唸り声を上げた。気のせいかと思える程に、短い唸り声。勘違いでした、とでも言うように、タローはまたすぐに鼻をスンスンと鳴らし始めたので、何に対して警戒心を見せたかはわからない。本当にただの勘違いだとしたら、番犬としての資質を疑うところである。

(野犬かな……?)

 タローが地面を転がり回ったとしても、その荒れた地面の面積にはまだ足りない。タローよりも一回り、二回りは大きな何かが、そこにいたと思わせるような──。

 秋田犬の血を色濃く受け継ぐタローよりも大型な犬。そういった犬種が存在しないわけではないけれど、そんな大型野犬が辺りをうろついていたとすれば、保健所なり警察なりが緊急出動するレベルの事件である。近隣の農家にはまだ小学生も多く、田んぼを突っ切る畦道を通学路としている子供もいる。目ざとい人間の多い田舎の習性から考えても、野犬が野放しにされている可能性は低いと思われた。

(猪の群れ、とか)

 複数犯の可能性も考えられた。

 突如街中に現れては暴走する猪のニュースが定期的に報じられる世の中だ。人口密集地に現れるくらいなのだから、逆に過疎地に現れることがあっても不思議ではない。民家の軒下や納屋を漁れば、冬場だろうと食べ物には困らないし、たぬきかカラスの仕業程度にしか思わないぐらいにはセキュリティも緩いのだ。

 見れば、タローはその荒れた地面のあちこちで穴を掘り始めていた。前足で二度、三度掻いた程度の浅い穴。地面の下に何かがいる、というよりは、少しイライラしているような仕草だった。

「どしたのタロー」

 声を掛けても、タローはその不可解な行動を止めることはなかった。

 暫くタローの様子を窺っていると、その鼻先がある方向を向いて静止した。ピンと張ったリードの先で、低い唸り声が鳴っている。今度は勘違いではないらしく、確信をもって、野性味溢れる犬歯まで剥き出しにしている。

 タローの鼻が指し示す方向には、一軒の民家が存在する。

 高齢のおばあさんが一人暮らしをしている住家だった。先月亡くなったおじいさんの葬式には町内の人間の多くが参列し、私はタローの散歩の途中にその葬儀の様子を遠くから眺めていた。死因はなんだったのか、私は知らない。

 奇妙な足跡も、その方向へと向かっていた。規則正しく、真っすぐに。

 タローがその足跡を追って歩き出したそのとき、不意に強い風がどこからともなく吹きつけてきた。

 強風に煽られた砂ぼこりが私とタローの周囲で舞い上がり、私は咄嗟にリードを掴んでいない方の腕で目元を隠し、瞼と口をぎゅっと閉じた。

 冬場にしては妙に生温くて湿った風が、私を撫で回すように吹き続ける。

 一秒、二秒、三秒、四秒。

 正面から吹き始めた風は、秒単位でその風向きを変え、まるでつむじ風の只中にいるような感覚に襲われた。

 ワン!

 タローが吠えるのとほぼ同時に、風はそこから消えるように止んでいた。

 目を開けると、タローは何故か私の足元にいた。その大きな体を私の太ももに擦り付けている。普段は雄々しく反り返る尻尾も、なぜか子犬のように丸まっていた。

「タロー?」

 私がその頭を撫で回しても、タローは私にすり寄ったまま離れようとしない。寝ているとき以外はほとんど開きっぱなしのだらしない口も、真一文字に結ばれている。

「どしたんよー?」

 しゃがみ込んで視線を合わせると、タローは思い出したようにハッハッとベロを突き出して荒い呼吸を再開する。その強烈な口臭が顔面に直撃して思わず顔を背けた私は、それとは違う臭いが漂っていることに気がついた。

 目の奥にまでこびり付き、涙腺を侵すほどに不快な臭い。

 風が運んできたその臭い正体を、私はまだ知らなかった。

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けもの 東雲そわ @sowa3sisu

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