ほぼ実話の夜の散歩

ここのえ九護

二十年前の深夜二時


 あれは、今から大体二十年くらい前のことです。

 当時の私は学校生活があまり思うようにいかず、家族や友人とも距離を置き、やり場のない憤りを体を鍛えることで発散する日々を送っていました。


 体を鍛えると言っても、ジムに通ったりするお金はありませんし、家の中でのトレーニングは否応なしに家族と顔を合わせることになります。

 近所の方とも顔を合わせたくなかったので、トレーニングの時間は自ずと夜遅く。

 基本的には、深夜の零時を回ってから家の外で行っていました。


 実家は閑静な住宅街の一軒家でしたが、当然そんな夜中に外を出歩いている人なんていません。

 私はそれをいいことに、家の前の道路に寝転がったり、逆立ちしたり、くるくると軽業じみたことをしたりとやりたい放題。


 誰の目も気にせず、公道を占有して行うトレーニングは、当時の私が抱えていた悩みやしがらみをすべて吹き飛ばしてくれるような、開放感に満ちていました。


 ですが、そんな日々も長くは続きませんでした。

 私のトレーニングの音がうるさいと、町内会から苦情がきてしまったのです。夜中に跳んだり跳ねたりしていたわけですから当たり前です。

 

 当時の私は色々と鬱屈してはいましたが、特に反社会的だったというわけではありません。

 なので苦情を受けた私は、町内会の皆さんやご近所様に謝罪をし、今後は決してご迷惑をかけないと約束しました。

 そして、トレーニングの場所を移すことにしたのです。


 ちょうど実家から歩いて数分の場所には、そこそこの大きさの川がありました。

 その川沿いには長く大きな雑木林と原っぱが広がっており、今後はそこで深夜のトレーニングをするようになりました。


 ただ、実はこの場所には一つ大きな難点がありました。

 この河原、人の手が一切入っていないのです。

 当然、街灯のような明りも数キロに渡って存在しません。

 途中途中にかけられたさび付いた小さな橋も、真夜中になると視認すら困難でした。


 かくいう私も、この河原はトレーニングに最適だろうとは思いつつも、あまりにも暗く、人の視界から離れていたため避けていたのです。


 しかし約束は約束ですし、私もご近所様に迷惑をかけたくなかったこともあり、その後はその河原でトレーニングを開始しました。

 ただ、実際に河原でのトレーニングを初めてみると、その場所が完全な闇ではないことに気付きました。

 周囲に人工的な光がないことで、月や星の光を目が拾うようになったのです。


 新月の日はあまりの暗さに驚きましたし、逆に満月の日にはここまで月は明るいのかと感動しました。

 月の光が弱い夜は逆に星の光が頼もしく見えましたし、そのような僅かな光を反射する、川の水面の美しさに目を奪われたこともありました。


 やがて、当時の私にとってその暗い河原沿いの空間は、夜を越えた夜とでも言うような、普段の日常とは隔絶された特別な場所になっていきました。

 それこそ、今で言えば異世界にいるような。そんな不思議な光景の中で、夜の時間を過ごすことが楽しみになっていたんです。


 その日も、私は家族が寝静まったのを見計らってランニングウェアに着替えると、軽くストレッチをしてから河原へと向かいました。


 その日はほぼ新月で、いつもよりも星が良く見えたのを今でも覚えています。

 私はいつも通り筋トレのメニューを終え、河原沿いを走っていました。距離は大体五キロメートルほどだったと思います。


 すでに折り返し地点を越え、家に向かって一定のリズムで闇の中を走っていた私の視界に、小さな赤い光が見えたんです。

 その光を見た私は、すぐに妙だぞと思いました。

 今までその場所でそんな光を見たことも、確認したこともなかったからです。

 

 今思うと、怖い物知らずだったと思います。

 そこで立ち止まって用心すればいいものの、当時の私はむしろ好奇と高揚をその赤い光に感じたのです。


 ただでさえ非日常の象徴だった深夜の河原で、さらに特異なものを見つけた私は、そのまま一切速度を緩めずその赤い光目がけて走って行きました。


「すみませんね、こんな夜中にどうしました?」


 その赤い光の正体。

 それはパトカーでした。パトカーは河原沿いの舗装されていない道の中程まで強引に乗り上げると、そこで赤いランプをくるくると回して止まっていました。


 私の姿を確認したのか、二人の警察官がパトカーから素早く降りてきて進路を塞ぎます。正直、これには本当に驚きました。

 今は深夜二時。しかもここは道じゃありません。車が走れるような場所じゃないんです。


 それまで浮ついた非現実感で高揚していた私の心は、警察という現実そのものの存在によって一瞬で締め上げられました。

 へなへなと心がしなびていく感覚。これも今でもよく覚えています。


「その、ランニングを……」

「ああ、だからそんなに汗かいてるんだ。止めて悪かったね。もう行っていいよ」

「ここは暗いから、気をつけて」

「あ、ありがとうございます」


 意外にも、二人の警官との会話はそれだけでした。

 警官は汗だくの私の顔を一目見て、なにか納得したように頷いてそのまま行かせてくれました。


 別にやましいことがあったわけでもないのに、私はそそくさと、逃げるようにその場所から急いで離れました。

 そして百メートルほど走ってから、そっと後ろを振り返ったんです。そうしたら――


「もういない……?」


 振り向いた私は、そこでまた驚きました。

 さっきまでそこに止まっていたはずのパトカーの姿が、消えていたからです。


 いえ、本当は消えていなかったのかもしれません。

 何度も言うようにその河原はとても暗く、パトカーがまだ停まっていたとしても、赤いランプが消えていれば、パトカーの車体を確認するのは難しかったからです。


 一度戻れば、確認できたかもしれません。

 ですがさすがの私も、先ほどまで沸き立っていた非日常への好奇心その他もろもろを打ち砕かれたばかりで、今度ばかりは恐怖が勝りました。


 不思議な体験をしたという疑問と、同程度の恐怖。

 それ以外にも様々な感情をない交ぜにしたまま、結局私はパトカーの存在を確認せずに帰ったのです。


 その後、私はその近辺に五年ほど住み、深夜のランニングも変わらず続けました。

 ですが、二度とその場所にパトカーが停まっているのを見ることはありませんでした。


 誰しも、生きている間に不思議な体験の一つや二つはするものだと思いますが、この出来事は今もはっきりと覚えているほど不思議な出来事でした。


 もしあの時、当時の私がパトカーを確認しに戻っていたら、どうなっていたのか。どうもなっていなかったのか。


 今でも、時折考えることがあります。


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