満月の夜に彼女と出会った

矢木羽研(やきうけん)

月下幻想

月のきれいな夜だった。南天に昇った満月は春霞のおぼろを纏い、街灯のない田舎道を青白く照らしている。ここは田舎のはずれ、林と畑の狭間にある、見捨てられた住宅地。空き家や放棄分譲地が点在し、人が住む家まで数百メートルは離れている。こんな時間にこんな場所で誰かと出会ったとしたら、それは人ではないのかも知れない。


数区画ほど歩いたところで、空き地に何かがいるのを見つけた。青白い人の形。さてはこれは幽霊か、「くねくね」とかいう怪異だろうか。いや、れっきとした人間のようだ。真っ白なワンピースに長い黒髪の彼女は、一見すると不気味ではあったが、とても美しかった。


「こんばんは」

戸惑っていると向こうから声をかけられた。

「こんばんは。……月が綺麗ですね」

とっさにあいさつを返す。

「あら、初対面でそんなことを言うなんて」


彼女はくすくすと笑いながらそう言った。僕はとっさに思い出した。明治の文豪が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという、故事だか都市伝説だかわからない話を。もちろん彼女自身も真に受けていないようだが、その翻訳ありきの回答というわけだろう。


「……お一人ですか?」

「ええ、つい最近越してきたのですよ。小さな空き家を買い取りまして」


彼女は左手で髪をかき上げながらそう言った。指輪の付いていない薬指を見せつけるかのように。「お一人ですか?」の言外の意味、つまり「夫はいるのですか?」という質問に対して暗に答えるかのように。


「僕も1年ほど前に越してきたんですよ」


このあたりに多い放棄分譲地や空き家を、格安で買い取って移住する若者が増えているという話である。こんな僻地であっても、仕事はリモートやら、少し離れた市街地のショッピングセンターでのパートタイムやらを探せばないこともない。出世は望めないが、静かに暮らすにはうってつけの場所である。


「そうですか、私はまだこのあたりに詳しくないので、いろいろ教えて下さいね」


ここまでのやり取りを交わして、この夜は彼女と別れた。


**


次の夜も、その次の夜も、僕は彼女に会った。しかし不思議なことに昼間に会うことはなかった。夜にいつも会う場所の周囲を探してみても、人の住んでいるような家は見当たらなかった。


**


「こんばんは」

「あら、こんばんは」


今夜も彼女に会った。家を出るまでは「どこにお住まいですか?」と聞いてみようと毎回思うのだが、なぜか彼女を前にするとその質問ができなくなる。なぜか、聞いてしまうとどこかへ行ってしまいそうだったから。


「ところで、あなたはお酒は飲まれますか?」

「ええ、嗜む程度ですが。どうされました?」

「実家から地酒が送られてきましてね。飲む相手もいないので、これからご一緒にどうですか?」


こちらから相手の素性を聞けないのならば、逆にこちら側に引き寄せてしまえばいい。妙齢の女性を男所帯に連れ込む、それも深夜に!断られてもともとのつもりで僕は誘いをかけた。


「あら、よろしいのですか?こんな夜分に」

「明日の仕事は午後からでしてね。そちらは?」

「ええ、私も問題ありませんわ」


*


こうして、彼女は誘いに乗って僕の家まで付いてきた。


「どうぞ」

「それでは、お邪魔致します」


玄関の蛍光灯に照らされた彼女は、ちゃんと人間の肌の色をしていた。僕はなんだか安心した。


「汚い家ですけど、ここから見る景色だけはなかなかですよ」


僕は彼女を、縁側のある部屋へと案内した。東の空には下弦の月が低く浮かんでいる。時刻は午前0時の少し前といったところか。その間に酒を用意する。今の季節なら常温のままが良いだろう。2つのコップ――何の色気もないデザインというのが寂しかったが――と共に盆に乗せ、彼女のもとへ運ぶ。


「どうぞ」


僕が彼女のコップにお酌をすると、彼女も同じように返してくれた。


「それでは、乾杯」

「乾杯。月が綺麗ですね」


今度は彼女の方から「月が綺麗ですね」の言葉が出た。僕たちはコップを打ち合わせる代わりにそっと目の前で掲げ、静かな月見酒が始まった。


*


「お酒、まだありますけどどうします?」

「ふふ、今夜はこれくらいにしておきましょう」


僕たちは四合瓶を二人で空けた。お互い、下戸というわけではないが強い方でもないようだ。彼女は暗い月明かりの下でもわかるくらい、頬が薄紅色に染まっていた。その頬にそっと口づけをすると、彼女も僕の頬に口をつける。その次はお互いの唇が重ねられた。


*


「あらあら、何をなさるおつもりですか?」


何度目かの口づけの後、僕は彼女の白いワンピースのボタンに手をかけると、彼女が微笑みながらそう言った。拒む様子はない。


「月の下であなたの体を見てみたいのですよ」


僕がボタンを外し終わると、彼女は立ち上がって自らワンピースを脱ぎ、丁寧に畳んで座布団の上に置いた。


「あまり人様にお見せできるような体ではありませんけれど」


確かに、モデル体型とは程遠い、年齢は僕と同じ30代半ばだろうか。お腹も少し出ている(もっともこれはお互い様だけど)。しかしそれでも彼女は美しかった。


「他の誰でもなく、僕が見たいのですよ」


彼女は抵抗することなく下着を脱がされ、ついに月明かりの下で一糸まとわぬ姿になった。


*


「……いいんですね?」

「今さらそれを聞くのですか?……意地悪な人」


昼間干したばかりの、まだほんのりと春の陽気を残している布団の中で睦み合う二人。彼女の言葉と体の反応を見計らいながら、僕はゆっくりと彼女の中へと滑り込んでいった。


*


「声、我慢しなくていいですよ。どうせ家の周りには誰も居ないんですから」


一突きごとに彼女の口から漏れる淫らな声が、彼女の余裕と神秘のヴェールを少しずつ剥がしていく。彼女は怪異でも幽霊でもない、れっきとした一人の女なのだ。しかしそれでも、心の内ではいつ彼女が消えてしまうのか、まだ不安で仕方がなかった。


*


「このまま出しますけど、いいですよね」


彼女が首を縦に振るのが見えた気がしたが、もとより意思など聞くつもりもなかった。僕は彼女の中に欲望を吐き出した。彼女をここに繋ぎ止めるために。彼女を僕のものにするために。もう、どこにも行かせやしない。


**


夢ともうつつとも知れない夜は明け、朝日を浴びて僕は目覚めた。しかし彼女は未だに僕の腕の中で、安らかな寝息を立てている。朝の日差しの中で見る彼女の寝顔は、なんだか妙に可愛らしく、守ってあげなければならないと本能的に感じた。女性に対して庇護欲を覚えるのは何年ぶりだろうか。


*


「責任、とってくれますよね」


身支度を済ませ、一緒に朝食を食べながら彼女が口にする。


「もちろんです」


僕は即答した。軽卒にも程があるとは思う。お互い、まだ素性どころか名前すら知らない男女である。それに酒の勢いもあったとは言え、昨夜の行為はあまりにも衝動的すぎる。しかし、お互いこの僻地に流れ着いた変わり者同士、なんだかうまくやっていける気がする。

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満月の夜に彼女と出会った 矢木羽研(やきうけん) @yakiuken

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