深夜の見廻りほど辛いものはない

沢田和早

深夜の見廻りほど辛いものはない

 空高く昇った満月がすでに夜九ツを過ぎたことを教えてくれている。二人の侍は時折立ち止まりながら足音を盗んで通りを歩いていた。どちらも小袖に袴を履き、腰には打刀だけの一本差しだ。


「あの男に相違ないか」

「うむ。姿形は別物だが匂いでわかる」


 二人から五間ほど前方を一人の男が歩いていた。灯火が要らぬ月明かりの中、「祭」と手書きされた江戸提灯をぶら下げている。小袖の着流し、白足袋、草履。鷹揚に歩いていくその姿はどこぞのお武家様か大店おおだなの若旦那かといった風情だ。二人の侍はこの男を尾行しているのである。


「ちょいとお前さん」


 道端の女が男に声を掛けた。二人の侍は足を止め物陰に身を隠した。


「遊んでいきなよ。夜明けはまだ遠いよ」


 女の着崩した総模様の振袖からは白粉おしろいを塗りたくったうなじが見えている。持っているのは丸めたゴザ。手拭いで頬かむりをしているので顔は見えぬが声の調子から察するに相当な年増であろう。言うまでもなく女は夜鷹、夕暮れになると通りに立ち、男に声を掛けて色を売る街娼である。


「拙者に言っておるのかな」


 男の返事を聞いた夜鷹は脈ありと思ったのか、いそいそと男に身をすり寄せてきた。二人の侍は息を潜めて耳をそばだてる。


「そうさ。懐の財布には金子きんすがたっぷり詰まっているんだろう」

「何故そう思う」

「誰だって思うさ。満月の夜に提灯ぶら下げて歩くなんて、よっぽどのお大尽だいじん様に決まってる。あたしらは爪に火を灯すような暮らしだってのに、惜しげもなく蝋燭を使っているんだからねえ。お前さん、羽振りのいいとこ見せておくれよ」

「すまぬがそなたと遊ぶつもりはない。されどここで出会ったのも何かの縁。つれなく追い返すのも気の毒だ。どうだ、蕎麦でも食わぬか。ご馳走してやろう」


 男は蕎麦屋の屋台を指差した。夜鷹蕎麦だ。蕎麦の代金が夜鷹の花代と同じなのでそう呼ばれている。


「夜鷹のあたしに夜鷹蕎麦とはシャレにもなりゃしない。それに見くびってもらっちゃ困るよ。あたしはこれでも吉原の遊女だったんだ。蕎麦一杯じゃ足りないね」

「ならば二杯食わせてやる」

「二杯も食えない。一杯分は銭でおくれよ」

「よかろう」


 男と夜鷹は蕎麦屋の屋台へ歩いていく。が、二人の侍はまだ歩き出そうとはしない。


「あの女、男の仲間ではないのか」

「わからぬ。偶然出会ったのか、それとも夜鷹の客を装って待ち合わせたのか。しばらく様子を見よう」


 男と夜鷹は蕎麦を食べ始めた。ほとんど会話はない。やがて食べ終わった男が歩き出した。夜鷹はこちらへ戻って来る。


「どうやら仲間ではなかったようだな」

「行こう」


 二人の侍は物陰から飛び出した。夜鷹の前に立ち塞がり、男から貰った蕎麦一杯分の銭を懐に仕舞おうとしている、そのか細い腕をしっかと掴んだ。


「な、何をするのさ」

「その銭を貸してくれぬか。すぐ返す」

「貸したが最後、そのまま逃げるつもりだろう。誰がだまされるもんか」

「ならば代わりの銭と交換してくれ。一文だけでいい。こちらは二文出す」


 侍の差し出した一文銭二枚を見て夜鷹は一文銭を渡した。何の変哲もない銅貨だ。


「これでいいのかい」

「ああ。もう用はない、行けっ!」

「言われなくても行くさ」


 夜鷹は小走りに去って行った。その姿が夜陰に消えるのを待って、侍は一文銭に術を掛けた。術を解く術だ。


「どうだ」


 一文銭はいつの間にか一枚の木の葉に変わっていた。二人の侍は確信した。


「間違いない。奴だ」


 直ちに男の後を追う。着流しの男はいい気分で鼻歌を口ずさみながら歩いている。二人はその前後に回り込み、正面を塞いだ侍が刀を抜いた。


「見つけたぞ。観念しろ」

「ずいぶん遅かったな。待ちくたびれたぞ」


 月光にきらめく刃を見せられても男は平然としている。あまりにも堂々とした態度に気後れしながら侍は口上を述べる。


「我ら狸の里と公儀の間で交わされた密約を忘れたか。満月の夜は人に化けてはならぬ。その御禁制を何故破った」

「満月の夜に狸が化けたがる理由を知っておるか」

変化へんげの術の効果が最大になるからだ」

「拙者が狸だという証拠はあるのか」

「まずは狸特有の匂い。残り香をたどることでそなたを探し出せた」

「しかし狸臭い人間もいよう」

「それだけではない。決め手は夜鷹に渡した銭だ。解術によって一文銭が木の葉に戻った。あれはそなたの銭。そしてこのような術が使えるのは狸の里の狸以外にない」

「なるほど」


 交互に返答する侍の言葉を聞いて男はすっかり観念した様子だ。


「して、拙者をどうするつもりか」

「狸の里に連れ帰り、しかるべき罰を受けてもらう」

「もし拒んだらどうする」

「斬る」

「ならば斬ってみよ」


 両手を広げた男目掛けて侍の刀が振り下ろされた。袈裟懸けに斬られた男が反転するともう一人の侍が短刀を抜いて胸を刺す。男はその場に倒れた。流れ出した血が地面を朱に染めていく。


「これで、終わったのか」

「ああ、恐らくは」


 二人の間には沈黙が横たわっていた。聞こえてくるのは倒れ伏した男を見下ろす二人の荒い息遣いのみ。その静寂を破ったのは場違いに明るい老人の声だった。


「そこまで。二人とも合格じゃ」


 夜鷹蕎麦を作っていた屋台の親爺おやじが二人の近くに立っていた。合格の言葉を聞いて安堵する二人。


「おお、蕎麦屋が里長さとおさでありましたか。気が付きませんでした」

「当たり前じゃ。おまえらのような青二才に気付かれるほどもうろくしてはおらん」

「合格ありがとうございます。頑張った甲斐がありました」

「標的を探し出すのに少々手間取ったが、見付けてからの流れは完璧じゃった。迫力ある口上、淀みない問答、鮮やかな刀さばき、いずれも及第点に達しておった」

「これでようやく忍び働きができるのですね」

「うむ。お役目に励めよ。我ら隠密狸の名に恥じぬようにな」


 隠密狸、それは公儀のめいを受けて密偵業務に従事する、将軍直属の狸である。

 戦国時代より優秀な隠密狸を輩出してきたのが狸の里だ。一人前の隠密狸と認められるには試験に合格しなければならない。今夜行われたのはその試験だったのだ。


「里長、そろそろ起きてもよいか」

「おう、忘れておった。天晴あっぱれな斬られっぷりじゃったぞ」


 狸侍に斬られて血だらけになっていた着流しの男がふらふらと立ち上がった。死体に化けていたので地面を濡らした血は偽物だ。もちろん怪我もしていない。怪我人に化けた直後に死体に化けるという、高度な連続技を使えるのは上級の隠密狸だけである。


「さて、それでは帰るとするか。二人とも里に着くまでは侍変化を解かぬようにな。一応合格はしたが試験は里に帰るまでが試験じゃからな」

「はい」


 並んで歩き出した二人に少し遅れて里長狸と着流しの男も歩き始める。男が心配げに尋ねた。


「里長のご指示があったとはいえ、あの夜鷹に偽の銭を渡してよかったのですか。夜が明ければ木の葉に戻り我らの正体がばれてしまいます」

「ははは、おぬしでも気が付かなんだか。あの夜鷹はおまえと同じ、今回の試験の助っ人狸よ」

「なんと。これは見事にだまされました。しかし拙者の正体を見破らせるために偽の銭を使うのは安直に過ぎましょうぞ。今回の試験、手心を加え過ぎたのではないですか」

「それほど甘くせねば誰も合格せぬのじゃ。我ら狸の力は年々衰えておる。やがては術など使えぬようになるのではと心配になるほどにな。そしてそれは人の世も同じ。十五代続いた将軍の世もそろそろ終わるのかもしれぬのう」


 里長狸は夜空を見上げた。新しい時代の波がすぐそこまで押し寄せてきている、そんな気がした。







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