金曜日の夜
茂由 茂子
大人という生き物
眠らない街を歩くのが好きだ。カラフルなネオンの色に包まれながら、喧騒の中を歩くのが好きだ。道端で知らないおじさんが寝っ転がっており、道の脇では誰かが嘔吐をしてそれを介抱している人もいる。そんな中をあてどもなくふらりと歩くのが好きだ。
特に金曜日の夜は面白い。明日が休みだからなのか、羽目を外して飲み歩いている人の数が増える。そうすると、観察できる事柄も増えて自分の気持ちも高揚する。時にはパトカーのサイレンの音が鳴り響いて、わくわくする。
中でも最も面白いのが、レンガ調の雑居ビル付近だ。隣のビルとの間に螺旋状の非常階段があるのだが、そこに差し掛かると最高潮に達する。
「まーたお前か」
「げっ。見つかった」
今日はグレーのパーカーでフードを被り、その人に見つからないように通り過ぎようと思っていたのだけれど、あっさりと見つかってしまった。
「夜な夜なふらふらとこの辺を歩くなっていつも言ってるでしょ。こっち来な」
紫煙をくゆらせたその人は、自分に向かって手招きをした。その指先は人でも殺せそうな尖った爪がきらりと光っており、今日は緑色をしている。その人の手招きを受け入れ、雑居ビルの裏へと連れて行かれる。
雑居ビルの裏には自販機があり、少し飲み物を飲むスペースがある。誰がこんなところでジュースを飲むのだろうと思うのだけれど、きっと雑居ビルで働く人の休憩スペースなのだろう。
「どれがいい?」
その人はいつも、自分にジュースを奢ってくれる。小銭を自販機へと入れると、どれか選べと言われた。
「じゃ、これで」
オロナミンCのボタンを押すと、ガコンと大きな物音が立った。ジュースが落ちてきたのだ。
「あんたいつもそれだね。お腹壊さないの?」
その人は煙草を唇から離し、ぷはーっと白い息を吐きながら椅子へと座った。雑居ビルには煙草を吸う人が多いのだろう。テーブルの上には灰皿が当たり前のように置かれている。その人はそこに灰をとんとんと落として、またそれを咥えた。その流れるような所作を見るのが好きだ。
「自分のお腹は丈夫なんで。それにあんたみたいに薄着じゃないし」
「あんたじゃなくて“お姉さん”。あたしはこれが仕事だから仕方がないんだよ」
お姉さんと呼べと言ったその人は三月と言ってもまだ夜は寒いのに、胸元ががっつり開いているボディコンを着ていた。スカートの丈も短くて、足を組み直したら中が見えてしまいそうだ。それでも少しは防寒をしようという気持ちがあるのか、気持ちばかりのガウンを羽織っている。
「仕事も大変ですね」
「仕事だから大変なんだよ」
その人の真正面に腰を下ろし、きゅぽんっと音を立てながらオロナミンCの蓋を開ける。しゅわしゅわのそれを一気に喉へと流し込む。随分と歩き回って身体が熱くなっていたから、炭酸の爽快さが気持ちいい。
「あんた、今日でここに来るのも最後にしなよ」
その人とここで出会ってから、もう一年が経とうとしていた。
「どうしてですか?」
「あたし、結婚することになってさ。明後日で店、辞めるのよ」
頭をガンッと殴られたように感じた。まさか、その人にそんな時が来るなんて思いもしなかった。というより、キャバクラで働いている人と結婚が結びつかなかったという方が正しいかもしれない。
「そ、そうなんですね。それはおめでとうございます。確かに、ご結婚されるのなら夜の仕事は続けられないですよね」
「そうそう。だからもう、あんたのことを守ってやれる人が居なくなるから、ここに来るのは今日を最後にしな。最後の金曜日だよ」
「あんたに守ってもらわなくても大丈夫だよ」
自分がここへ歩きに来るのはストレス発散だ。日常とは違う空間を歩くことで、なんとか正気を保っていられる。
「馬鹿。中学生の子供に何ができる。警察に補導されるか、変な大人に捕まって足も洗えない世界に落とされるかのどちらかだよ。前者ならまだマシさ。でも後者はどうにもならない。死んだように生きなきゃいけなくなる。そうなる前に、ここに来るのを辞めな」
いつもは自分の話をただ聞いてくれるだけなのに、今日は違った。
「……でも、ここに来る大人は多いじゃないですか」
「大人だからだよ。大人の世界に子供が足を突っ込んでも、大人に利用されるだけされて、自分の人生を歩けなくなる。あんたが何に憧れたっていい。でもその前に、それに見合う大人になってからにしな」
「お姉さんはそうしたんですか?」
「あたしは利用されるだけされた側さ。結婚できるのもラッキーなくらいだよ。ほんの少しでも踏んだ床が違ったら、きっとあんたとだって出会っていない」
その人はまたふうっと紫煙をくゆらせた。大人の事情は分からない。でもこの人が今、全力で自分を止めようとしてくれていることだけは分かる。
「分かりました。もうここには来ません。その代わり、金曜日の夜はどこに散歩へ行ったら良いと思いますか?」
眠らない街を歩かないとなれば、他の場所を歩くしかない。ここへ来るなと言ったその人には、代替案を提示してもらう必要があるだろう。
「眠れない夜があったら気兼ねなくここに」
その人はガウンのポケットから小さなカードを取り出して、それをテーブルの上でスライドさせながら自分の方へと差し出した。そこにはどこかの住所と電話番号が書かれている。
「あたしの連絡先だよ。あんたに半端に関わってしまった責任を、あたしはとらなきゃいけない。だから、ここへ来るのを辞めてあたしのところに来たらいい。……旦那になる人にも、あんたのことは話してある」
自分のために動いてくれる人が、この世界にただ一人でも居ると思わなかった。カードを大事に受け取ると「ありがとうございます」とお礼を言ってパーカーのポケットへと忍ばせる。
「はっきり言ってあんたの親はクズだ。だから、あんたが親を捨てることができる年齢になるまで、手を貸してやる」
「どうしてそこまで……」
「言ったろ?責任だって。大人は責任をとらなきゃいけない生き物なんだよ」
「えー。責任とらなきゃいけないなら、大人になりたくないなあ」
「馬鹿。大人は楽しいんだよ。楽しいから責任がつきまとうってだけさ。あんたも早く大人になりな。一緒に酒飲もう」
「あんたと酒飲んだら酷そう」
「なにー?言ったな!」
「このこの!」とその人に髪の毛をぐちゃぐちゃにされた。随分と激しい撫で方だったけれど、痛くなかった。自分の頭を撫でてくれるのはこの人くらいだ。
しばらく話をしてから、「じゃあ、また」とその人と別れた。いつもより別れの時間が早かったのは、その人にはこの後の予定があったからかもしれない。手持無沙汰になったので、家へと帰る。
自分のアパートへと着くと、そっと音が鳴らないように玄関の鍵を回して扉を開けた。古い扉なので気を抜くと、ぎいっと大きな音を立ててしまう。玄関のたたきに転がっている靴を確認すると、まだ母親の彼氏のスニーカーがその中にあった。
奴はまだこの家に居るらしい。いつもより早く帰ってきてしまったのが、幸いしたようだった。身体が部屋の中へと入るのを全力で拒絶する。胃の中には何も入っていないはずなのに、吐き気がする。脂汗が背中と額を覆う。
居ても立っても居られずに、大きな物音がして奴らが起きてしまうことを気にする暇もなく、外へと飛び出した。走る。とにかく走る。
そして、パーカーのポケットから先ほどもらったカードとスマホを取り出して、その番号を入力する。呼び出し音が鳴る。すぐに「もしもし?」というあの人の声が聞こえた。
「自分です。今から行ってもいいですか?」
「当り前じゃん。おいで」
金曜日の夜 茂由 茂子 @1222shigeko
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