果て

古博かん

ハッピーフライトをきみに

 どこともつかない暗い道を、ケンジは一人で歩いていた。

 どこから、どのくらい歩いてきたのかは自分でもよく分からない。だが、こんなにたくさん歩いたことは、もしかしたら人生で初めてのことかもしれないと思った。


 少し息が上がって、時々、胸がツンと苦しい。

 遠くの方でかすかに聞こえる小さな電子音が耳につく以外は、取り立てて何かあるわけでもない静かな道だ。どこに続いているか皆目見当もつかないが、ふと見上げると、ところどころにチラチラと星がまたたいているような気がした。

 ケンジは夜目が利く方ではないから、ぼんやりとした視界に広がるどこまでも果てしない空間は、たぶん空なんだろう、くらいにしか思っていなかった。


 ケンジは、身も心もすっかりと冷え切っていた。

 たわむれに手指を擦り合わせたところで、からからに乾いた皮膚ひふに血が巡る感覚はしない。それでも、この暗い空間に吐く息は間違いなく白いのだ。


「おやおや、おやおや」


 宛てもなく歩き続けてくたくたになった頃、ケンジの目の前に、ケンジと同じくらいの大きさのセキレイに似た白い鳥が、おやおや鳴きながら現れた。


「きみ、だれ?」


 ケンジが尋ねると、白い鳥が体の長さの半分はありそうな長い尾をピタピタ上下に振りながら、くるっと小首を傾げてみせた。


「きみこそ、だあれ? こんなところで、何をしてるの?」


 流暢りゅうちょうにさえずる白い鳥に、ケンジは首をすくめて驚いた。怖いと感じることはなかったが、だからといって不気味に思わないわけじゃない。


「ぼく、ケンジ。何をしているのかは、ぼくにもよく分からないんだ。ずっと遠くから、歩いてきたことだけは確かなんだけど」


「おやおや」


 尾っぽを忙しなく上下に振りながら、白い鳥は驚くべきスピードと小走りで身軽くケンジに近づいてくる。後退あとじさろうか、咄嗟とっさに迷った間に、小さい見た目の割には鋭いくちばしが、ケンジの鼻先をツンと小突いた。


「それで、何をしたいの?」


「何って、何を?」

 自分の鼻をそっと片手で庇いながら尋ねるケンジに、白い鳥は「何でもさ」と返した。


「何でも?」

「そう、何でも」


 間近で見る白い鳥の羽毛に覆われた喉元が、尾っぽと同じくらい素早くピクピク動いている。


「急に言われても、何も思いつかないよ」


 困った様子で弱々しく答えるケンジに、白い鳥は少しだけ甲高くおやおやと鳴いた。

「なんと、もったいない!」


 大業おおぎょうに驚いてみせた白い鳥が、素早く身を返してチョイッとケンジの首根っこを摘むと、そのままついばんだ木の実を頬張るかの如くケンジを空中へ放り投げた。

 身構えて手足を縮こめたケンジを、白い鳥の方は取って食べるでもなく、さっと素早く背中をみせた。

 くるりと宙返りした小さな体が、すぽんとふかふかの羽毛に潜り込んだ時、ケンジの目の前には自分よりも大きな白い鳥の頭があった。


「さあ、しっかり掴まって!」


 言うや否や、白い鳥はケンジの真横で真っ白な両翼を広げると、鋭く跳ねて波打つように飛び立った。


「わあ……!」

 歩くだけでは、ただぼんやりとした暗がりだった空間が、あっという間に大小様々の星々を掻い潜って賑やかになった。暗闇に浮かぶそれらの合間を縫うように、白い鳥はケンジを乗せてどこまでもどこまでも飛び続けた。


「見て、あの星、たくさん人がいる! わあ、こっちも!」


 ぐんぐんと通り過ぎていく、そこそこの大きさの星の上で、並んでご飯を食べている人たちや、祭りで盛り上がっている人たちがいる。


「そりゃそうさ。どの星にも、星なりのってものがあるからね」

「そうなの? ぼく、全然知らなかったよ」


「おやおや」

 白い鳥は相変わらず淡々と鳴いて、ぐんぐん加速していく。


 振り飛ばされないようにしっかりと羽毛にもぐって、頭だけちょこんと出しているケンジの頬を、ひんやりとした風が撫でていく。

 夜風に当たるのは体に良くないと言われ続けたケンジだが、潜り込んだ体はとても暖かく、感じる風はとても心地よい。


「ねえ、あの人たちはなんで泣いてるの?」

「そりゃ、悲しいことだってあるだろうさ」


 一瞬で通り過ぎてしまった小さな星は、割れたたまごの殻のように欠けていて、その中で一握りの人々が俯いて顔を覆いながらうずくまっていた姿が気になって、ずっと後ろを振り返っていたケンジだが、その星も、あっという間に見えなくなった。


「どこへ行くの?」

「どこへだって、好きなことろへ!」


 空気の障害物でも飛び越えるように、白い鳥は時折ギュンと飛び上がり、そして三段跳びで山を描く。

 どんなジェットコースターよりも楽しい飛行だ。

 ケンジは拳を突き上げて歓声をあげた。生まれて初めて腹の底から出した大声だ。不思議と息苦しさは微塵みじんもなく、胸が苦しくなることもない。こんな感覚は生まれて初めてのことだった。


「じゃあ、ぼく、世界の果てを見てみたい」


「おやおや、それはまた奇特きとくだね」

 白い鳥は数度鋭く羽ばたくと、さらにビュンビュン加速した。


「ねえ、世界の果てって本当にあるの?」


「おやおや、おかしなことを訊くんだね」

 今、向かっているじゃないかと、白い鳥は鋭く飛びながら呑気に鳴いた。


「世界の果てには、何があるの?」

「それは、行ってみたら分かることだよ」


 それもそうか、とケンジは思った。

 羽毛に包まっているからか、体はぽかぽかと暖かい。それに何だか、少し眠たくなってきた。


「まだ少しかかるから、寝ているといい」

「いいの?」


 白い鳥はあっさりと、おやおや鳴いた。

 確かにケンジは、ただ白い鳥の背中で羽毛に包まっているだけだ。うまく飛んでいるところをみると、特に邪魔をしているわけでもなさそうだと理解した瞬間、すうっと穏やかな眠りの中に落ちていった。


 白い鳥は相変わらず、おやおやと鳴いている。

 時々、ケンジを呼ぶような空気の音が鳴るのだが、羽のように軽くぐっすりと眠るのは多分、初めてのことだった。


「よいせっと」


 白い鳥は細い両足を突き出して、トンと身軽く着地した。そのつんのめるような感覚で目を覚ましたケンジは、大きな欠伸あくびをするとのっそりと羽毛から頭を出した。


「着いたの?」

「ああ、着いた。着いたともさ」


 眠たい目をこすりながら周囲を見回せば、そこはただ白く神々しい空間がどこまでも広がる場所だった。

 何もない白く明るい空間では、白い鳥と同じくらいの大きさの、目の覚めるような真っ赤な鳥が待っていた。ケンジの眠気もいっぺんに吹き飛んだ。


「こんにちは、枢機卿カーディナル

「やあ、久しぶり。カラドリウス」


 白い鳥が、尾っぽをピタピタさせながら挨拶をすれば、真っ赤な鳥が、真っ赤なとさかをピッと持ち上げて返事をする。

 白い鳥の背中から頭だけ覗かせるケンジに、きゅっと視線を向ける赤い鳥が小首を傾げた。


「おやおや、その子は?」

「世界の果てを見たいと言うから、連れてきたのさ」

「おやおや」


 赤い鳥も、どうやらおやおや鳴くらしい。ケンジがじっと様子を窺っていると、枢機卿すうききょううやうやしく両翼を広げて、ぐんと胸を逸らした。


「ようこそ、世界の果てへ」


 白い鳥の背中から降りたケンジは、白く神々しい何もない空間を上から下までぐるりとくまなく見て回った。


「世界の果てには、何もないんだね」


「何もないとも言えるし、何でもあるとも言えるだろうね」

 枢機卿は、くるりと首を傾げて羽繕はづくろいをする。


「どういうこと?」

 ケンジが尋ねると、枢機卿はぐいーっと大きく伸び、数度羽ばたくと、それからおもむろに答えた。


「ここは、世界の果てを信じている人が作った空間だからさ」


「信じる人が作った? ぼくにもできる?」


「どうだろう、試してみたらどうだい?」


 ケンジは少し考えて、それから、やってみたいと思ったことを何でも信じてみた。


 どこまで走っても疲れない体。

 何でも美味しく食べられる味覚。

 肺いっぱいに空気を吸い込んで、喉が枯れるほどの大声。

 飛んで跳ねて転げ回って、ケンジは目一杯はしゃぎ回った。


 いつの間にかケンジの周りには、ケンジと同じような子どもたちが溢れていて、みんなで駆けずり回って一晩中賑やかに遊び回った。

 こんなにたくさんに囲まれて過ごしたのは初めてで、ケンジは弾けたように笑い続けた。


「さあ、そろそろおしまいだよ」


 白い鳥がピタピタと尾っぽを振りながら、はしゃぎ疲れて寝転がっていたケンジに告げた。


「いやだよ、ぼく、ずっとこのままがいい!」


 ケンジは珍しく駄々をこねた。

 それほど、この夜の出来事に心躍り、何より嬉しさが勝った。


 何もない白い空間に両手足を広げてジタバタと暴れながら、いやだ、いやだと繰り返すケンジをじっと見つめながら、白い鳥はそのままヒョイっと首をすくめてみせた。


「何事にも、始まりと終わりはあるものさ」


 それでもしばらくは、ぐずぐずと頬を濡らしていたケンジに、枢機卿が穏やかに問いかけた。


「本当に、ずっとこのままがいいのかい?」


 ここは、何もない空間——いつの間にか、ケンジと一緒に遊んでいた子どもたちも姿を消した。


「さっきから、聞こえてくるこの音は何だろうね?」


 無機質な電子音が再び静かに鳴り始める。

 そこに何だか、ケンジを呼ぶ音が混じっている気がする。

 それでもケンジは、両耳を塞いでうつ伏せになると、しばらくはそのままじっと黙って動かなかった。

 白い鳥も枢機卿も、やっぱり動かずに、ただじっと待っている。

 ケンジは分別のない子どもではない。やがて体の上をそっと吹き抜けていく風が変わったことを悟って、ゆっくりと顔を上げた。


「ほら、もうすぐ夜が明ける」


 うっすらと白み始めた果ての空から、ぴーんと張り詰めた澄んだ空気がやってくる。

 そこに混ざっていたのは、もっと幼いケンジと、ケンジが今まで出会ってきた人や物だった。

 さーっと吹き抜けていくたびに、全身がくすぐったくて、とうとう堪えきれずに小さな笑い声が漏れて出た。


「そうだね、ぼくは充分幸せなんだ、きっと」


 腫れぼったい目元を拭いながら、こっくりと頷いて起き上がったケンジを、果てから昇りくる太陽が燦々さんさんと照らす。

 ごそごそと自ら羽毛の中に潜り込んだケンジを確認すると、白い鳥は両翼を最大限広げて空気の山を越えるようにビュンと波打って飛び上がり、ぐんぐん加速しながら世界の果てを突き抜けた。



 白い部屋の白いシーツの上で、静かに眠るケンジの表情はどこまでも穏やかで、青白い頬でさえ、ふくふくと満足そうに笑みを浮かべていた。

 鼻腔をつく消毒薬の匂いと、容赦無く鳴り続ける電子音が、不規則に室内を跳ね回る。

「ケンジ」

 傍らで夜通し付き添っていた両親が握る乾いた小さな手のひらが、きゅうと指を握るかの如く、かすかに縮こまった気がした。

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果て 古博かん @Planet-Eyes_03623

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