海へ
ひなみ
本文
大きく伸びをしてベッドから体を起こす。
見渡せばここは真っ暗で、無機質な、ただの空間と言えるもの。
解きかけの問題集に、古びたピッチャーグラブ。家族四人で撮った笑顔の写真。
この部屋の時間は一年前から止まったままだ。
「さあ兄さん」
階下へと降り、リビングで押し黙り食事をする両親の姿を目に焼き付ける。
テーブルには未だに四つの茶碗が並んでいた。
「もう、いいか?」
食い入るようにその様子を見つめる
名残惜しそうに頷いた香澄は、最後に思い出の場所を見て回りたいと言った。
昔から俺はこいつには甘い。
夜の繁華街を二人、正面から来る誰もが俺達をすり抜けて
「散々練習してたのに、結局上手くはならなかったですね」
「いいんだよ、こういうのは楽しければ。そういうお前こそ……無表情でアイドルの曲、振り付けありで歌ってるのはかなり面白かったぞ」
「失礼な。ちゃんと笑いながらでしたよ?」
カラオケ店を出るとバッティングセンターのあった空き地に着いた。
「昔はよく通ったな」
「でも……憧れてた野球選手にはなれませんでしたね」
「ま、夢ってのはそういうもんだろ」
遊園地。
駅のホーム。
ゲームセンター。
駄菓子屋。
校庭。
秘密基地。
思えば俺には、香澄との思い出が数え切れないほどにあった。
そして、学校から家への帰り道で彼女と向かい合う。
ここは忘れもしない俺達の終わりの場所。
「ばか。兄さんは馬鹿です。どうして私なんて助けようとしたんですか。私さえいなければ、今頃!」
月の光に照らされた香澄は泣いているように思えた。
「それ以上は言わない約束だったろ?」
体を震わせた彼女の頬を、俺は優しくなぞる。
*
さざなみが寄せては返す砂浜。
今日目覚めてから、俺はここを最後にしようと決めていた。
「懐かしいですね」
微笑んだ香澄と手を繋いだまま深いところまで入っていく。
薄くなりゆく彼女の姿を視界に入れながら、俺は自分の手に視線を落とした。
透けて、揺れる
残された時間は僅かだ。
「もし次があるんだったらさ、またお前の兄ちゃんになってやるよ。その時は一緒にあの家に帰ろう。約束だ」
「私。兄さんの事、ずっと好きでした」
差し出した小指同士がすり抜ける。
彼女の笑う顔を最後に何も見えなくなった。
真っ暗な中、昔家族で遊んだ記憶が蘇る。まるでこの広い海に溶けていくように、俺の意識は途絶えた。
海へ ひなみ @hinami_yut
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