海へ

ひなみ

本文

 大きく伸びをしてベッドから体を起こす。

 見渡せばここは真っ暗で、無機質な、ただの空間と言えるもの。

 解きかけの問題集に、古びたピッチャーグラブ。家族四人で撮った笑顔の写真。

 この部屋の時間は一年前から止まったままだ。


「さあ兄さん」

 香澄かすみが俺に声を掛けた。


 階下へと降り、リビングで押し黙り食事をする両親の姿を目に焼き付ける。

 テーブルには未だに四つの茶碗が並んでいた。


「もう、いいか?」

 食い入るようにその様子を見つめるかすみに声を掛ける。


 名残惜しそうに頷いた香澄は、最後に思い出の場所を見て回りたいと言った。

 昔から俺はこいつには甘い。

 夜の繁華街を二人、正面から来る誰もが俺達をすり抜けて喧騒けんそうの中へと紛れていく。


「散々練習してたのに、結局上手くはならなかったですね」

「いいんだよ、こういうのは楽しければ。そういうお前こそ……無表情でアイドルの曲、振り付けありで歌ってるのはかなり面白かったぞ」

「失礼な。ちゃんと笑いながらでしたよ?」


 カラオケ店を出るとバッティングセンターのあった空き地に着いた。


「昔はよく通ったな」

「でも……憧れてた野球選手にはなれませんでしたね」

「ま、夢ってのはそういうもんだろ」


 遊園地。

 駅のホーム。

 ゲームセンター。

 駄菓子屋。

 校庭。

 秘密基地。


 思えば俺には、香澄との思い出が数え切れないほどにあった。


 そして、学校から家への帰り道で彼女と向かい合う。

 ここは忘れもしない俺達の終わりの場所。


「ばか。兄さんは馬鹿です。どうして私なんて助けようとしたんですか。私さえいなければ、今頃!」


 月の光に照らされた香澄は泣いているように思えた。


「それ以上は言わない約束だったろ?」

 体を震わせた彼女の頬を、俺は優しくなぞる。



 さざなみが寄せては返す砂浜。

 今日目覚めてから、俺はここを最後にしようと決めていた。


「懐かしいですね」


 微笑んだ香澄と手を繋いだまま深いところまで入っていく。

 薄くなりゆく彼女の姿を視界に入れながら、俺は自分の手に視線を落とした。

 透けて、揺れる水面みなもの色がはっきりとわかる。

 残された時間は僅かだ。


「もし次があるんだったらさ、またお前の兄ちゃんになってやるよ。その時は一緒にあの家に帰ろう。約束だ」

「私。兄さんの事、ずっと好きでした」


 差し出した小指同士がすり抜ける。


 彼女の笑う顔を最後に何も見えなくなった。

 真っ暗な中、昔家族で遊んだ記憶が蘇る。まるでこの広い海に溶けていくように、俺の意識は途絶えた。

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海へ ひなみ @hinami_yut

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