3.与えられた死

 両親を殺された、というフレーズが脳内に響き渡った。きっとこの言葉は嘘ではないだろう。それにしても、なぜ私は自分と似たような境遇の人間を引き寄せてしまうのかが不思議だった。類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだが、ここまでシンパシーを感じる人間に出逢うなんて滅多にあることではない。私はあえて藍沢の悲惨な過去には触れないでおこうと思った。きっと彼も思い出して辛くなるだろうから。

「色々あったのね。ところであんたの家はどこ?」

「もうすぐです。次の曲がり角を右に曲がってそこから二十分ほど歩けば着きますよ」

「わりと遠いのね」

「全然遠くないですって」そう言って藍沢は笑った。

 冷たい風が頬を殴るように吹きつけてきた。未だ太陽は雲に隠れたままだ。三月は私にとって肌寒い。すかさずバッグの中からマフラーを取り出し首に巻きつける。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫。それよりも早く行きましょ」

 藍沢は嬉しそうな顔で、「はい!」と声を張り上げる。

 ようやく右折する地点に辿り着くと、一人の老女がすれ違いざまに私たちを凝視してきた。不穏な空気が辺り一面に拡がってゆく。

「何でしょう?」

 藍沢が笑顔で訊くと、老女は何も言わないまま走り去ってしまった。まるでこの世の終焉、もしくは幽霊でも見たかのような形相で。私は気になり「今のおばあちゃん、何なの?」と尋ねる。

「分かりません。恐らく私の計画を知っている方だったのかもしれませんね」

「計画?」

「方舟で月に行くことです」

「なるほど」

 月の裏側——それは人間の心の裏側でもあるのではないだろうか。月の表面に見える影——それは日本では兎なのだが、外国から見ると違ったものとなるらしい。ただ、実際に月まで降りたった場合、そんなものは無いのだと思う。もしかしたらアメリカの国旗も無いのかもしれない。全ては行ってみないと分からないのだ。

 方舟、という名称には何やら秘密が隠されているような気がしてならない。藍沢の背中を追って歩いていると胸が高鳴ってくる。生死の境を彷徨っているような、そんな感覚。しばらくすると藍沢の歩みが少し遅くなってきた。何だろう、と思って声を掛けてみるが返事は返ってこない。

「ねえ、どうしたの」

 藍沢がゆっくりと振り返ったその瞬間、私は絶句してしまった。彼のその顔立ちは、テレビでよく見る宇宙人グレイのような顔をしていた。私は目を瞑って首を横に振る。

「どうかしましたか?」

 藍沢の冷静な一言に、私はそっと目を開いた。

「……あれ? さっき見たのは幻覚?」

 数秒前には恐ろしいものだったはずの藍沢の顔は元に戻っていた。

「はい? 僕はずっと僕のままですよ。何か可笑しなものでも見えましたか?」そう言って藍沢は薄ら笑いを浮かべる。

 怖い。

 本能的にそう思った。もしかしたら私は拉致されるのではないだろうか。確かに失うものは何もないとしても、命だけはまだ残っている。

「一瞬、あんたの顔が——」

「顔がどうかしましたか?」

 藍沢は真剣な表情で私を覗き込んでくる。だが、特に何かを隠しているようにも見えない。

「うーん、やっぱ幻覚だったのかもしれない。立ち話も何だし先を急ごうよ」

 私は藍沢の肩を手で押して前に進ませようとした。最近ろくなものを食べてないせいか、いつ倒れてしまうのか危惧しているのもあり、とにかく先を急ぎたかった。

「ユナさん」藍沢は歩きながら言った。「引き返すなら今しかないですからね。僕はもう覚悟を決めていますが、大丈夫ですか?」

「うん」

 アスファルトに触れる靴底だけはためらいを感じている。今になって何が惜しくなってきたのだろうか、私は。往生際の悪い動物のようにのろのろと歩くが、「怖い」という心の叫びはどんどん大きくなってゆく。結局、私は自分可愛さが強かったのだろう。きっと、何もかも経験したつもりになって、失うものは何もないなんて格好つけてきたのだ。

 人気のない道を歩いていくと、藍沢の足が止まった。

「着きましたよ」

「え?」

 そこは家どころか何もない空き地だった。

 やはり騙されたのか。私は握り拳を作って藍沢を睨みつける。

「何もないじゃない! やっぱり嘘ついてたのね!」

 まくしたてる私を他所に藍沢は不思議そうな顔で見つめている。次の瞬間、藍沢の両手が私の首を思いっきり絞めつけてきた。怪力が故に私は言葉を発することが出来ない。

「——実は両親を殺した殺人鬼は僕なんです」藍沢の声が微かに聞こえてくる。「僕も後で行きますから」

 抵抗することも出来ず、私の意識は遠ざかっていった——


 気付けば私はひとり湖の畔に座っていた。周囲を見渡すが藍沢の姿はない。エメラルドグリーンに染まった空を見上げると不思議と笑みが零れてしまう。私は藍沢に殺されたのだ。だとしたらここは月ではなく死後の世界ではないだろうか。まあ誰もいないこの場所でいくら考えても埒が明かない。もう何処だっていい。気づいたのだ。この圧倒的な孤独こそ、私が最も欲しかったものだということに。何だかとても心地良い、まるで死を恐れていたのが嘘だったかのように。何しろ痛みも苦しみも感じない今の状態は生前よりも遥かに幸せなのだ。

 殺されて良かった、殺されて良かった、と笑顔で口ずさみながら私は湖の中に入っていった。与えられた死の感触を確かめる為に。


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孤独な月 松本玲佳 @reika_fumizuki

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