2.奇妙な男

 翌朝。外に出て、ふと空を見上げると楕円形の雲の隙間から太陽が月を覆い隠すように輝いていた。今にも吸い込まれそうになりそうな広い空の下、私の視線は飛行機雲を追いかけている。そんな最中、すれ違った見知らぬ男が話しかけてきた。

「おはようございます」

「ん、おはよ」

 男の爽やかな挨拶に思わず反応してしまう。

 続けざまに男はこう言った。

「月の裏側には何があるのかと考えていたら、いつの間にか朝になってしまいまして。貴女はどう思います?」

 唐突な問いにたじろいでしまう私。考えたこともなかった問いにどう答えればいいのだろう。私は腕組みをしながら当てずっぽうで答える。

「えっと、湖?」

「え」男は驚いた顔で私を睨みつけてきた。

 多少の変化球を投げてみたつもりだったのだが、この反応を見ると何だか不安になってしまう。何処かで聞いたことがあるのだ。月に水分があることが発見されたということを。

 何だか面倒な展開になりそうだと思い、その場から立ち去ろうとすると、

「ちょっと待ってください。正午になれば月行きの方舟を用意できます。一緒に行って確かめてみませんか? ちなみに僕の名前は藍沢あいざわと申します」

 と男が引き留めるように言った。

「——」

 黙りこくってしまった私を他所に、藍沢という男は妖しい黒のロングコートを揺らすようにして身振り手振りを交え喋りまくってきた。その間、私は別の空間に居た。スマホが無くなった今、私を縛りつけるものは何ひとつなくなったはずだ。死別した両親と昨日別れた恋人は私に自由を与えてくれたのであって、今更、誰かに寄り添う必要などない。今の私は孤独に価値を見出しているのだから。

「正直僕はね——」と藍沢が切り出した。「月の裏側には海があると思っていたんですよ。でも貴女は湖と答えた。なんて神秘的で素晴らしい感性をお持ちになってるんだろうって思ったんです。嫉妬してしまったと言ってもいい位です」

「ありがと」私はぶっきらぼうに返す。「で、方舟って何のジョーク?」

「ジョークでもなんでもないですよ。方舟は僕の家の庭で製作中です。乗れるのは二人までだからちょうど良かったなと思ってます。ぜひ、この機会にご同行お願いします」そう言って藍沢は深々と頭を下げた。

 また文明か、と心がざわついた。何度過ちを繰り返せば反省するのだろう、人間という生き物は。しかし、ここまでされると流石に無視するのも気が引けてしまう。さてどうしたものか、と脳内会議が始まった。よくよく考えたら地球にいる以上、孤独を邪魔する存在は常に隣合わせにいる。今もそういう状況ではあるのだが、月に行ってひとりになれば、究極の理想となる次元に辿り着けるのかもしれない。

「行ってみようかな」私はポツリと呟いた。

「ほんとですか! ぜひ一緒に行きましょう!」

 藍沢は満面の笑みで右手を差し出してきた。私は渋るようにポケットから右手を出して厭々握手を交わした。

「そういえば貴女のお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」と藍沢が尋ねてくる。

「ユナ」

「いいお名前ですね」

「ありがと」

 ついうっかりと名乗ってしまった。どちらにせよ失うものは何もないので大した問題ではないのだが少しだけ後悔したような気がした。藍沢は誘導するように田舎の林道を早足で歩き始める。私も続くが、運動不足が祟ったのか、段々脚が痛くなってきた。まるで麻痺したような感覚である。

 一方、藍沢は軽快な足取りでスキップするかのように歩いている。勝手な憶測ではあるが、私と一緒に月に行くのがよほど嬉しいのだろう。私には分かっていた。藍沢が嘘をついているということを。非現実的な夢を見させておいて、自宅のベッドに押し倒そうとしているに違いない。ただ、私が藍沢の端正なルックスと巧妙な話術に惹きつけられているのも隠し切れない事実であって、このままついていって犯されようと構わないと思った。刹那的ではあるが私の人生はとっくに終わっているのだから。

「ユナさん」

「なあに」

 突然、後ろを振り返った藍沢の声は少々か細かった。

「もしも月の裏側にちゃんとした文明があったらどうなさいます?」

 突拍子のない質問に私は言葉を失った。

 この男は本気でこんなことを言ってるのだろうか。私が顎に手を乗せて考え込んでいると、藍沢は再び唇を動かし始めた。

「実は困ったことがありましてね。月に行く方舟は、燃料や造りの問題で往復できないんです。要は行くことはできるんですけど、地球に帰ることはできない。もし向こうに文明があったら何とかなるでしょうけど。その辺は大丈夫ですか?」

 ますます分からなくなってきた。理由は藍沢の目にある。私から見て、これは嘘をついている目ではないということがはっきりと窺えるのだ。

 少しの間が空いた。当たり前と言えば当たり前である。もはや現実なのか、夢なのか分からなくなっているのもある上、これほど返答に困った質問は今までに一度もなかったからだ。通行人さえいないこの田舎町にふさわしくない展開なのは間違いない。私は一度深呼吸をしてから小さく呟いた。

「別にいいよ」

 その瞬間、藍沢の表情が変わった。何とも形容し難い歓喜が見受けられる。

「初対面の僕をそこまで信用してくれるなんて——」

「だって私、失うものがもう何もないから。両親も恋人もいないし、現世にも未練なんてないし、どうせこのまま何もせずに老いていって死ぬのならその前に何かを成し遂げたいからね」

「僕もそうです。殺人鬼に両親を殺されてしまったし、復讐することすらできない。犯人はずっと逃亡中ですからね。それなら地球から脱出してユナさんと一緒に月に移り住んでしまいたいんです。何もかも忘れるために」


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