エピローグ 12月31日の来訪者・マイクロフトとストラディバリウス
第48話 1908年12月31日の来訪者
【作者より】
今回も(*注)だらけになっておりますが、1908年イギリスの時代背景と、聖典関連のものが多いので、シャーロキアンの方にはおすすめです
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――あれ? 誰か先客が来てるよ。せっかく驚かそうと思ったのに。
――仕方ない、帰るまで待ちましょう。
◇
1908年12月31日。サセックス州・サウスダウンズ。英仏海峡が見渡せる、シャーロック・ホームズの住む小さな農場。
「ノックの後、ドアが開くのにえらく時間がかかったな。今日来ることは電報で知らせておいたじゃないか。まさか引退しても、まだ敵に追いかけられてるのか?
私も年だ、もう馬車の馭者はひきうけられんぞ(*注1)」
「すまない、ちょっと考え事をしていたんだ。それより兄さん、だいぶ痩せたじゃないか。ホワイトホールの役所を引退したそうだが、体調でも悪いのか?」
コートを脱ぐのを手伝いながら私はそう言った。
昔は太って恰幅が良く、コートを抜ぐのに四苦八苦していたが、今はがぶがぶだ。顔色も悪い。変わらないのは広い額とキリッとした口元。落ち窪んで思慮深げな、薄灰色の眼差しだ。
「お前が引退してもう四年になる。私はお前より7歳年上、六十過ぎたんだぞ。歳を取れば、誰だって少しはくたびれてくるさ。久しぶりの長旅で流石に疲れた。我ながらこんな気力があろうとは思わなかったよ」
兄のマイクロフトには、ちゃんと軌道があって、それからズレると言う事がない。
ペルメルの家から、ロンドン中の社交嫌いの男たちの集まるディオゲネス・クラブ(なんと兄のアパートの目の前)、それからホワイトホールの役所。これをぐるぐると循環するだけ。
一度だけベイカー街の私の家に来たことがあったが(*注2)、その時は「惑星が軌道を外れた」とびっくりしたものだ。
兄には、数学に対する特殊な才能があって、政府のある所の会計検査を引き受けていた。年俸450£(ポンド)の下級官吏に甘んじ、どんな意味でも野心なんか持たず、名前も肩書も望まない。それでいて、国家にとって欠くことのできない人物だ。
各省で決定したことは全て兄のところに回されてくる。あらゆることを全て記憶し、その偉大なる頭脳の中で、問題は整然と整理・分類される。必要があれば、すぐに取り出し、即座に問題点と各々との関連を指摘する。そんなことが出来るのはマイクロフトだけだった。
マイクロフトの一言が、国家の政策を決定したことが幾度と無くあるのだ。兄は国家の安全と言うその特殊な仕事に命を打ち込んでいた。
暖炉のそばの安楽椅子にどっかりと座り、今では見ることの少なくなった、鼈甲製の
「引退祝いだ。久しぶりにお前の手料理を食べさせてくれ。今日は大晦日だが、うちのクリスマス定番の鴨のロースト・オレンジソース添え、母さん味のを頼む。お前ならいつも手伝ってたから作れるだろう。食材は持ってきた。少し小さいが新物のエシャロットもある。良い
「あの料理本のか!(*注3)最初の一行が『まず、鴨を捕まえます』懐かしいなあ」
「その通り。あれ読んで二人で笑い転げて、母さんにねだって作ってもらった。以来うちのクリスマス定番は、ガチョウじゃなくて鴨になった」
「ガチョウは時々高価な宝石を飲み込んだりするが、(*注4)私は鴨の方が好きだよ。母さんが死んだ年のクリスマス、寄宿学校から帰った私に兄さんが作ってくれた。驚いたよ、あの『めんどくさい』が口癖の兄さんがってね。もっと驚いたのは、クリスマスプレゼントが私の欲しがっていた、ストラディバリウス(*注5)だった事だ」
「そうだったな、ワインの後で、久しぶりにあのストラディバリウスを聞かせてくれ。昔、母さんが一度だけ弾いてくれた、ヴィバルディの四季の冬(*注6)がいい」
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(*注1)「シャーロック・ホームズ最後の事件」ワトソン君をビクトリア駅まで送る辻タクシーの御者を務めてくれ、前の日にはホームズさんを家に泊ています。
(*注2)「ギリシャ語通訳」ホームズ聖典中、マイクロフトの出てくる作品はあと「ブルース・パティトン設計図」事件の二つだけなのです。
(*注3)「独身モモ氏の料理法」モモはロートレックのペンネーム。1901年、ロートレックの死後、友人ジョワイヤンが書いたもの。初版は1930年。
ホームズさんが読めるわけないのですが、笑っちゃったので使いました。
彼の故郷フランス・アルビ市では、旧街道が世界遺産に登録されたのをきっかけに、ロートレックのレシピを正確に再現したレストランがブームになりました。
(*注4)「青いガーネット」。盗まれた宝石がクリスマス用のガチョウの餌袋から見つかります。ホームズは別のガチョウを用意。その手がかりを元に犯人に行き着きます。
(*注5)ストラディバリウスは、伊のアントニオ・ストラディヴァリウスの制作した弦楽器。18世紀の伊の法令に基づき、ラテン語で「アントニウス・ストラディバリウス・クレモネンシス」とラベルが貼られていて、やく520挺が現存。
バロック・バイオリンと呼ばれ、室内楽において、その音色が他の追随を許さぬ
膨らみを持ち、名器中の名器とされた。その値段は現在最低でも2億円。2011年
のオークションで1721年製「レディ・ブラント」は12億7420万円で落札した。
(*注6)アントニオ・ヴィバルディは、17〜18世紀の後期バロック派の作曲家。バイオリン合奏曲の四季が代表作。各楽章に
実は、ヴィバルディは一時期音楽界から完全に忘れ去られていて、再評価されたのは1949年、四季の楽譜の出版とレコードの発売からでした。特に1955年の「イ・ムジチ合奏団・四季」のレコードは、2500万枚を売る大ヒット。(名盤中の名盤。私は1968年版を持ってました)だから本当は、19世紀人のシャーロットさんが、これを弾けるわけないんですが、思い入れがある曲なので、使ってしました。彼の人柄については、直木賞作家・大島真寿美作「ピエタ」を、お読みください。
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