第49話 暖炉の燃える部屋で
――わぁっ、ホームズさんのバイオリンが聴ける。凄く上手なんだって。
――いい匂いがしてきた。お腹すいたな。
――持ってきたご馳走つまみ食いしちゃおうか。
――ダメ、もう少し待ちなさい。
◇
鴨のローストが焼き上がった。兄さんがデキャンタ(*注1)のワインの味を確かめて、ワイングラスに注ぐ。
「だけど、あの出不精の兄さんが、よくここに来る気になったね。ここは小さい頃、夏休みにみんなで海水浴で来てたけど、兄さんが来たのあれ以来かな。
母さんが、嫁入り道具の一つに持ってきたこの土地と家が、僕の名義になってたとは知らなかったよ。父さんが死んで財産を整理した時、残しておいてくれたんだ。おかげで引退した今も、僕には住める家があったわけだ。
ライヘンバッハの滝で行方をくらましてからも、僕の生存を信じて、ベイカー街のアパートをそのまま残しておいてくれたし(*注2)身を隠して逃げ回っていた時も、生活費を送り続けてくれた。兄さん、ちょっと弟を甘やかし過ぎだよ」
「そうかもしれんな。だが父さんと母さんが死んでから、家族と呼べるのはおまえひとりだ。今の私に守るべきものは、国家とお前しかいない。国家の方はもう引退したがな」
「ぶっ、国と同等に扱われるとは思わなかった。本当に地球が軌道を外れて、太陽ににぶつかりそうな気がしてきた」
「人間が空を飛ぶ時代だ、何が起きても不思議じゃないさ。自転車屋のライト兄弟(*注3)が、グライダーで12秒間・37m空を飛んだと大騒ぎしたのは、確かお前の引退の前年の1903年の12月17日だったな。その五年後の今年の8月8日、ついに操縦可能なフライトに成功したニュースを見て、自由党のチャーチル(*注4)が『軍隊は将来、戦争に飛行機を使う時が来る』と言い出して、彼らとコンタクトを取るべきだと騒いでいたよ」
「でもあれは、自動車と同じで、動力源は石油だ。英国は石炭は豊富に取れるが、石油は数ある植民地からもまだ出ていない。飛行機を作っても、動力源を絶たれて動けなくなったらお終いじゃないか?」
「だから『それなら石油を押さえておけ』と助言しておいた。ちょうどペルシャ(現・イラン)から石油が出たからな。彼は将来あそこを手に入れる気でいる。海軍の全ての戦艦を石炭から石油に切り変えたいとも言っていた。そうすれば戦艦のノット数(*注5)を飛躍的に上げられるからとね」
「しかし、チャーチルは、元軍人のせいもあるが、いささか好戦的すぎるね。今のヨーロッパの王室は、ビクトリア女王の血縁で占められている(*注6)。日英同盟・英仏協商・英露協商が結ばれ、女王陛下のご子息で現国王のエドワード七世は、ピースメーカーと呼ばれて平和が続いているのに」
「いつかは終わりが来る。どんな時代にも、誰にでもな……」
マイクロフトの顔色、痩せた体。自分のことを言っているように聞こえた。
「ブルース・パーティントン(潜水艦)設計書事件を思い出すね。
兄さんと一緒に解いた最後の事件だ。
犯人のオーバーシュタインの家に忍び込むのに、『裏口の柵を越えるのなんか嫌だ』って兄さんが我儘言うから、裏口から僕が先に入ってわざわざ玄関のドアを開けたんだよ。あの頃は、兄さん凄く太ってたから」
「仕方あるまい、骨みたいに細いお前とは違うんだ。ホームズ家の活動担当はお前に任せた。あの事件で定期叙勲にお前の名前を載せるつもりだったのに、お前と来たら、『いらない』と来た。
そういえば、あの事件で女王陛下から頂いたエメラルド(*注7)のタイピンは気に入っていたな。今でも着けるのか?」
「蜂を相手の隠居暮らしだからねぇ。あ、でもこの前友人の結婚式に出たとき、久しぶりに着けた。『あの事件の時のタイピンか』と、花婿介添人に聞かれたよ」
「友人の結婚式? あのワトソン氏以外に、お前にそんな友達がいたとは驚いたな」
「いや、ワトソンくんの遠縁の子なんだ。取り巻きが騒がしい奴等で、まとわりつかれていささか困っているんだがね」
食器の上を滑る、肉を切る銀のナイフの立てる音。赤ワインとオレンジソースの匂い。マイクロフトの低い声。暖炉で薪がはぜる。窓の外は雪景色。
“暖炉の前で過ごす安らかな日々。外は大雪が降っている”
ヴィバルディの四季に添えられた
冬の第二楽章のラルゴのような優しい時間だった。
*******
(*注1)デキャンタージュ。長期熟成ワインをガラスの容器に移して澱を取り除き、香おりをひらかせ、味を均一にします。赤ワインのヴィンテージものは、酸化が一気に進むので、香りが飛ぶ前に早く飲みましょう。
(*注2)「空き家の冒険」ホームズが、ライヘンバッハの滝から生還し、ワトソン君と再会した事件。モリアーティの残党と、空き家で死闘を繰り広げる話。
話の中で、マイクロフトが「ベイカー街のアパートを維持し、身を隠したホームズに活動資金を送り続けていた」とある。
(*注3)ウィルバー・オーヴィルのライト兄弟は、アメリカの動力飛行機の発明者。 1903年12月17日、グライダーによる世界初の有人動力飛行に成功。
1908年8月8日、操縦可能な動力飛行に成功。現在の飛行機の基礎を作る。
1909年ライト社を創業するも、1912年ウィルバーが病で死去。1915年オーヴィルは会社を売却。その後会社は合併、今のロッキード・マーティンとなる。
(*注4)ウィンストン・チャーチルはイギリスの政治家、軍人。1904年、保守党から自由党員になり、1924年また保守党に戻る。二度の大戦を、勝利に導いた戦争首相。1908年ライト兄弟のニュースを聞き、将来の戦争には、航空機が重要になると直感する。同年ペルシャ(今のイラン)で中東初の巨大な油田が掘り出される。
1908年2月独帝国議会で、海軍海法修正法可決。弩級戦艦の58艦保有を計画。
1911年36歳で海軍大臣になったチャーチルは、独の建艦増設・潜水艦Uボートの脅威に備え、英国海軍改造計画のもと、戦艦の原動力を、石炭から石油に替えることを提案。是により、航行スピードは、21ノット(39km/h)から、24ノッ(45km/h)
となり、独の戦艦を振り切る。チャーチルの提案は議会を通過。1914年6月18日、英国は中東の油田を手に入れる。第一次世界大戦の開始一カ月前だった。動力源を石油にしたことにより、機動力が飛躍的に向上。潜水艦・戦車・飛行機が初めて、戦争で使用された。チャーチルの予言はまさに的中したのだ。
(*注5)ノットは、1時間に1海里(マイル)進む速さ。1ノット=1.852m毎時。
(*注6)ビクトリア女王は九人の子どもがいて、子供たちはヨーロッパ各地に子孫を残し「ヨーロッパの祖母」と言われた。しかし、女王は、血友病の遺伝子を持っていたため、結果としてヨーロッパ中の王室に、その遺伝子をばら撒いてしまった。
ヴィクトリアの娘・三子アリスにより持ち込まれた、ロシア皇帝ニコライ二世の息子アレクセイの血友病は有名。末子ベアトリスも、スペイン王室に血友病をもたらす。長女ヴィクトリアは独最後の皇帝・ヴィルヘルム二世の母となり、長男エドワード7世(在位1901〜1910年)はイギリス国王即位。その息子、のちの英国王ジョージ五世は、従兄弟のヴィルヘルム二世と敵対。英独二人の従兄弟同士は、敵として第一次世界大戦を戦う事になるのです。
(*注7)エメラルドの宝石言葉は「明晰」です。
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