第一章 魔法の国のシャーロック・ホームズ

第1話 1904年1月6日イギリス・招かれざる客


「お誕生日おめでとう、ホームズ。プレゼントの銀のシガレットケースだ。今使ってるのは古くなってたからね。

 それと女房の焼いたガレット・デ・ロワだ。

 彼女フランス生まれだから、1月6日のエピファニー(公現祭、東方三賢人がキリストに挨拶した日)には必ず焼くんだよ。味は保証する」


 ジョン・ワトソン君の楽しげな声が響く。

 シガレットケースは喜んでもらっておこう。

 だが、薔薇の花束とケーキはどうかと思う。


 ワトソン君は若い奥さんにデレデレで、すっかり趣味が悪くなったようだ。

 腹回りがパンパンなのは幸せ太りと言う奴か。医者の不養生そのものだな。

 女は男を簡単に堕落させふりまわす、結婚なんてする奴の気がしれない。


 ふと、ミス・ファーガソンこと、サンドリヨンのことを思い出した。

 純朴そうだった彼女も今頃、王子をふりまわしているのだろうか。

 そして私に引退を決心させた、あの不条理を絵に描いたようなフェアリー・ゴッド・マザー。あの女にだけは二度と関わりたくない。


 私、シャーロック・ホームズは昨年探偵業から引退した。

 馬車の馬糞と車の煤煙だらけのロンドンを離れ、かねてからの念願だった蜜蜂を飼いながら、書物と大自然の懐に抱かれた、穏やかな暮らしに浸りきっていた。

 住まいはサセックス州のイーストボーンから五マイル離れた、サウス・ダウンズの小さな農場。英仏海峡が一望に見渡せるポツンと一軒家だ。


「ありがとう。だがもう五十歳だ。

 持病のリウマチの外に、去年はぎっくり腰をやった。

 体を冷やさないよう、生姜とカモミールティーが欠かせない。

 全く歳はとりたくないよ」


「何言ってんだよ、僕より二つも若いくせに。

 まだ遅くない、いっそ結婚しないか? 料理はうまいし、子供は可愛いぞー」


 ワトソン君は前妻との死別、その後の再婚と離婚にめげずに、三度目の結婚をし、昨年五十一歳にして初めての男の子を授かった。

 年をとってから授かった子は可愛いというが、今は、ジョン・ワトソンJr.に夢中の親バカである。そして、しきりに僕に結婚を勧めてくるのには困っている。

 自分の信じる幸せが、相手にとっても幸せとは限らないのだよ、ワトソン君。


「うちで取れた蜂蜜を、奥さんのお土産に帰りに持って行けよ。頑張って、二人目は娘が授かるといいな。吹雪いてきたから今夜は泊まっていくといい」


 その時、ノックの音がした。

「こんな吹雪の夜に誰だ?」私がドアを開けると、そこには――


 バタン! 私は慌ててドアを閉めた。急いで鍵をかけ、椅子を持ってきてドアを押さえる。


「ちょっと! ホームズさん開けて。急いでるのよ、助けて欲しいの」

 ノックの音と女の声が響く。私は無視して、さらにテーブルを運んでドアを塞いだ。


「ホームズさん、開けて」

 ノックの音は叩きつける拳の音に変わり、騒ぎに驚いたワトソン君

 が慌ててやってきた。


「どうしたんだホームズ?」


「ワトソン君、手伝ってくれ! 絶対にドアを開けてはダメだ、棚を運ぶのを手伝っ――」


 バタン! 裏口のドアが開いた。雷と突風と滝のような雨の中、フードを被ったずぶ濡れの小柄な女が一人立っていた。後ろの景色は、何故か熱帯のジャングルだった。


「急いでるっていうのに……とんだ遠回りさせられたわ。失礼でしょホームズさん! わたし、ちゃんと忘れずにノックしましたわよ」


 そういうと杖を一振り。ずぶ濡れの彼女の体から、水滴が杖の先に集まり、シャボン玉のような丸い形になり、ふわふわと浮かんだ。

 すっかり乾いた見覚えのあるその姿に、ワトソンが悲鳴をあげる。


「フェアリー・ゴッド・マザー!」


「あら、いらしたのワトソンさん、ごきげんよう。でも、ホームズさんにはお仕置き」

 そういうと杖を一振り。水の玉は、杖の先から私の上に飛んで、パチンと弾けた。


「どう? レディを締め出したりすると、こういう目にあうのよ。反省なさい、お返事は?」


「ですがマダム、訪問の際には事前に連絡を頂きませんと、こちらにも都合が……」


「マダムじゃなくてレディです。わたしは独身よ! それにアポなんて取ったら、あなた逃げたわ。そうは行きませんよ」


 図星だった、女の勘は侮れない。しかし、男たるもの紳士であらねばなるまい。 


「はい。失礼いたしました、レディ」

 ずぶ濡れの私は謝った。


「よろしい。許して差し上げます」


 マザーは杖を一振り。私を濡らしていた水は、私の体を離れてたくさんの水滴となり、宙を飛んで裏口のドアの外の嵐の中へ消えた。

 水たちが出てしまうと、バタンとドアは閉まった。裏口のドアの横の窓の景色は、終始変わらず吹雪だった。


「さてホームズさん、急いでるから用件だけ言いますよ。八代目のアンデルさんの靴屋から『時戻しの水薬』と『時進みの水薬』の瓶を受け取ったわね、あれが入り用なの」


 私は急いで仕舞いっぱなしだった青と赤の瓶を持ってきた。


「どっちが『時戻しの水薬』なの」

 マザーの言葉に私は焦った、まだ調べていないのだ。


 私は慌てて部屋の中を見回した。

 ワトソンのプレゼントの薔薇の花が目についた。

 私は、赤い瓶の中身を一滴、薔薇にかけた。

 薔薇はみるみる枯れて、蕾の先に、薔薇の実であるローズヒップが実った。


「赤い瓶は『時進みの水薬』。だから残った青い瓶が、『時戻しの水薬』です」


「本当に、こんな薬があったのね」

 食い入るように見ていたマザーがため息をついた。


「どういう事です?」

 私は戸惑って聞いた。


「ホームズさん、わたしが急いでここにきたわけはね、ジェイムズ・モリアーティと名乗る男がこの『時進みの水薬』を王子にかけて老人にし、サンドリヨンを人質にとって、お城に立てこもったからなの。そして『シャーロック・ホームズを呼んでこい』と要求してるのよ」


 モリアーティ。その名を聞いた途端、私は緊張し、顔が引き締まり、手足は武者震いをし始めた。久しく忘れていた感覚だった。だが――


「待ってくれマダム、いや、レディ。モリアーティ教授は十二年前、ライヘンバッハの滝に落ちて死んだ。彼であるはずはない。そいつは、彼の名を語る別人です」


「だったら会って確認して! 王子は衰弱して、死にそうだし、あなたを連れてかないと、サンドリヨンは解放してもらえない。二人を救うには、貴方が必要なのよホームズさん」


 モリアーティであるはずはない。だが万が一本物だったら、確かに凡人に扱える相手ではない。それに事は急を要するようだ。


「マダム、いえレディ……ええと、フェアリー・ゴッド・マザー?」


「面倒ね! マザーでいいわ」

 独身なのにマザー? いや、突っ込むのはやめよう。


「わかりました。モリアーティである筈はないが、私を名指しで呼んでいる以上、確認しなくてはなりませんな。すぐに支度をしますので、少しお時間を頂きたい」


「急ぐって言ってるでしょう! 必要なものは、なんでも魔法で出してあげるから来て!」


 そういうと杖を一振り。ドアを押さえていた椅子とテーブルがふきとび、ドアが開いた。ドアの向こうは何もない黒い空間だった。


「飛ぶわよ!」


 一声叫ぶとマザーは大鷹に変身し、私を鷲掴みにしてドアの向こうへ飛んだ。


「待ってくれ、ホームズ」

 ワトソン君が私の足に縋りつく。


「ちょっと離して、重い。きゃー!」


 私達は結構なスピードで暗い空間を落下し……

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