スポット・ライト

Shiromfly

しるべなるひかり しらべたることば

 隣ですやすやと眠る彼女を起こさないように、僕はそっと部屋を出た。


 僅かに軋んだベッドから起き出して、まるで泥棒さながらの忍び足で。

 

 慎重に着替え終えると、何の変哲もないアパートの、青いスチールの扉を抜け、深夜二時の世界へと、逃げ出した。



 冷たく乾いたにおい。冬の気配を帯び始めた空気が心地いい。


 都市の外れで交わる県道を、時折猛烈な速度で走り過ぎていくトラックの音や圧さえも、吹き抜ける風となって、頬を撫でてくれる。


 眠る街の消えゆく光よりもずっと明るい満月に照らされる道を十数分も歩くと、僕はいつもの場所へ辿り着いた。


 田と山の間を貫くバイパスの外れ。淡いオレンジ色で照らす街灯たちが立ち並ぶ、街と街の間の、単なる通過点だ。


 僕は、深夜に佇むこのが好きだった。


 誰かが通る暗闇を、誰でも分け隔てなく、しかし誰にも鑑みられることもなく、ただひたすらに照らして立ち続ける。誰かの為に誰かに作られ、ただ役割を全うしていくだけに在る彼らを眺めていると、なぜか気持ちが落ち着いた。


 周囲の闇から隔絶された、オレンジ色の光の下。

 

 冷たい支柱にもたれて、弱々しくも強かなともしびに浸っていると、携帯電話が鳴った。


 着信名を見て、少し迷った僕は、大きく息を吸ってから。


「もしも――」

『何処に居るの』


 電話に出るなり、彼女の怒ったような、呆れたような声が遮った。


「外」

『何処?』

「ええと、外……コンビニ……」——なんてもんは、近くにない。

『……』


 次を探り合う無言が、少し気まずい。


 ――同い年の彼女とは友人を介して知り合った。酒の席でひょんなことから、好きな映画や俳優の話で意気投合し、一緒に映画に出かけるようになったのが切っ掛けで、ごくありふれた成り行きで、なんとなく付き合い出してから約一年。幾つかのトラブルはあったが、それも過ぎたこととして、半ば儀礼的な会話とキスとセックスを繰り返す間柄が、続いている。


『……あのさ』

 先に沈黙を破ったのは、彼女。

『そんなに私と一緒に寝るの、嫌なの』


「いいや、違うよ」

『じゃあ、なんで?泊まりに行く度に、夜中に抜け出してるよね』

「バレてた?ごめんごめん」

『嫌いになられたのかな、って不安になるじゃん』


 てへぺろ風を装った冗談は通用しそうもない。彼女の声に僅かの震えを感じた僕は、とりあえず妥当であろう答えを返す。


「そんなことないよ、ごめん。すぐ帰る。戻ってから訳を話す――」

『駄目です。今、話して』


『どうせ戻って来る間に、私が納得しそうな言い訳を考えて来るんでしょ。そういうとこあるの知ってるもん。だから今すぐに、今の気持ちをそのまんま話してください』

  

 寝起きにしては驚くほどに論理的な物言いに、僕は降参する。


「……街灯を観に来た。それは……街灯を眺めるのが好きだから」

『……それは、私と一緒に寝てる時に抜け出してまで見なくちゃいけないもの?』


 僕は声を詰まらせる。

 

 街灯が観たくなったから出て行ったのではなく、彼女と一緒に眠るのが、時々辛くなる。それが深夜の散歩の本当の意味であることを、彼女は判っていると感じた。


 自分なりに納得している理屈はいくつかある。ただ、それを今すぐに言葉にして、声に出して、理解してもらえるように伝えるのは、僕にはとても難しい。


 それでも何かを語らないといけないと思った僕は、思い浮かぶままを伝えようと決めた。


「……昔さ、映画の感想を言い合った時に、ちょっとした口論なったじゃん?」

『うん』

「その時は、その程度で全部終わったつもりでいたんだけど、あとでSNSで友達に、すげえ愚痴ってたの、知ってるんだ。それで、時々、その事を思い出して」

『……は?』

 

 ―—なに一人で勝手に、そんな小さな事を蒸し返して、うだうだ言ってんの?


 そう言われた気がした僕は、取り留めのない言葉で、取り繕う。


「続きを聞いて。それが全部じゃない。確かにあの時の俺は変だった。怒られても仕方ないと思う。けどそれも、それまでもずっと、思ってたことなんだ。何度も。それをちゃんと伝えられない様な気がして、情けなくなる。怒ったり嫌ったりしてる訳じゃない。でも、伝わるように努力しようとして、何度も挫けるのが、どんどん辛くなってくるから」


『……それは、その時は怒ってたけど、それも、それで終わりじゃん。結局、私に酷いことを言われたから傷付いた、私のせいだ。って言いたいだけに聞こえる』

「違うよ、違う」


 上手く言葉にできない。好きな人だからこそ、ちゃんと説明したい。それには言葉が足りなくても、多すぎても、間違ってもいけない、と考えてしまう。


 彼女は賢い。常に合理的で才能に溢れていて、年収も上。彼女に見合う男になろうと躍起になっても、その度に挫折する。何の取り柄もない僕と過ごしているのは、ただ共通の映画趣味で話が合うからだけに過ぎないとも、薄々思い始めてもいた。


『……きみさ。いっつも、自分の苦労話ばかりだよね』

 彼女の冷静な呟きで、血の気が引いた。


『最初は可愛いものだと思ってたけど、自分ばかりが辛いって言うだけで、他人や、私の話を聞かないよね』


 完璧な図星だ。

「…………」

 だけどそれは。

 話せることしか話してない、と判ってほしかった。話せるのは、話せるようになったことだけ。―—……そう自分では、思い込んでるだけ?


 それが彼女に対して、どう捉えられるかなんて全く考えてなった。


「……本当にごめん、その通りだと思う」

 ぐうの音も出ない。申し開きのしようもない。ただ謝るしかない。

 やはり、結局、こういう形で見限られて、終わりなのかな、とも思った。

 

「…………」

『…………』

 別れの言葉を覚悟して、押し黙る。

 腹の底に嫌なものが溜まっていく重圧に耐える。


 やがて僕がそれ以上を言わないと悟ったのだろう彼女の声が、振り絞るように。


『……起きたら、きみが隣から居なくなってるの、怖いんだよ』

『びっくりして、泣きたくなるんだよ』

『お父さんが、出てった時の事、思い出すから……!』


 微かな震えが、やがて嗚咽混じりになっていった。


『私も、話したいこと、話さなくちゃいけないこと、沢山あるの……!』

「……ごめん」

 僕は目を強く瞑って、震えた。


 彼女がまだ小さい時、父親が突然、蒸発したという話は聞いていた。ただ、その事を話す彼女はあっけらかんとしていて、冗談めかしていて。だから、きちんとその経緯を訊ねたことはなかった。


『起きたら、お父さんが居なくなってた。何日も待っても帰って来なかった。だから目が覚めた時、隣に誰かが居ないと、胸が苦しくなる』


『だから、色んな人と寝てきた。浮気したのも、それ』

「…………」

『言い訳だよね。でも、浮気しても、怒らなかったの、きみだけだった』

「だから、俺と付き合い続けてるの?罪悪感を感じるから、罪滅ぼしのつもりで俺と」

『ううん、そうじゃない……』

「俺は怒ってないよ。ただ悲しかっただけ。そういう事もあるだろうなって」


『……そうやって言ってくれる人を、裏切りたくないもん』

 


 彼女がそれだけをぽつりと呟いて。そこでまた、会話は途切れた。


 その時、県道の向こうから、一台のトラックが凄まじいスピードでやって来るのが見えた。

 今時珍しいデコトラで、運転席からは、爆音で鳴らしている演歌と、絶唱しているおっさんの大音声がだだ漏れで。


 ――男と女のオオオオ!なみだァざけええエェェェ!!………ェェェェ


 通り過ぎる音は、些かのドップラー効果と共に、通話中の彼女にも届いたようだ。


『……!?……ッ、何、今の』

 それまでのトーンを吹き飛ばされたように、彼女が笑った。

「……!も、もしせ、正解したら、寿司か何かご馳走したげるよ」

 僕も、腹を抱えて笑う。

 

 何処かすっきりした気分になった。まだ何も解決してないはずなのに。

 

 だけど。それはこれから。たった今から。


『……私たち、ちゃんと話してこなかったね』

「思い出したら辛いかなって思うと、聞けないしね」

『普通、そうだもんね。皆が、そう。でも、お互い、話したら辛くなるって判ってても、やっぱりいつかは、話したくなっちゃう』

「それが、今なのかも」

『そうだね……』


『私はもっと話したいよ。別に何かしてほしいなんて言わない。何が出来るかなんて判んない。でも、ただ、話をする。それから一緒に何かを考える。それでいいよね』


「うん、俺も話したい。君が好きなことも、嫌いなことも、家族のことも。全部聞いて、俺も全部話す。今なら、ぜんぶ話せると思う。そのあとのことは、そのあとで考える。一緒に……」


 僕は、街灯の光を見上げた。眩しくて、涙が溢れた。

 ただそこに立って、例え応えてくれなくとも、投げかける灯は、優しいから。

  

 でも、僕は、その淡く柔らかい、オレンジ色の光の円から歩み出る。

  

『……うん、ちゃんと向かい合って、話そう』

 今は、電話越しの灯が、僕の帰り道を導いてくれる。

『だから、そろそろ帰ってきなよ。風邪ひくよ、バカ』


 僕はもう、きっと、街灯を眺めには来ることはない。

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