乱反射する光と夜の距離
水長テトラ
乱反射する光と夜の距離
妻が交通事故で死んだ。何を考えたらいいか分からない。
何も考えられないまま時間は過ぎていき、ぼんやりと終わった休暇からぼんやりと職場に復帰し、ぼんやりと働き続けた。
何も考えられないというのは不正確で、仕事で頭を埋め尽くしたかった。
感情が止まっても、思考は止まらない。この止まった感情はきっと不発弾で、ちょっとした拍子に爆発するだろう。だから感情の上に仕事とか他のものをどさどさ積み重ねて、思考が感情を引きずり出さないように深く深く沈めた。
早く何も感じないロボットになりたい、頭の中で同じ言葉を毎日呪詛のように呟きながら、ある日郵便ポストを開けると手のひらの上に乗る程度の白い小さな箱が入っていた。
箱の隅には試験体2173年製と書かれている。
開けてみると折りたたまれた紙の説明書、それをどけるとプラスチックケースの凹んだ部分に謎のスイッチとピンセットと、遠心管に似た蓋のついたガラスの容器があった。
説明書を開く。
『人類再生計画実験用、持ち出し不可。データ不足のため、実験時は複数人とカメラによる厳重な監視を行うこと』
そう書かれた日本語と英語と多分……エスペラント語?の下に、棒人間等の簡単な絵が添えられている。
爪や髪を容器に入れてスイッチを押すと、スイッチから出る特別な電波が作用して全く同じ人間が出来る……らしい。
ふざけてる、バカバカしい、悪質な迷惑行為だ。
妻はもう誰の手も届かないところに行った。もし俺がとち狂って遺髪から妻のクローンを作ったところで、それは全くの別人であり、一緒の日々を過ごした妻ではない。
落ち着け、怒りを鎮めて早く寝ろ。
冷静になれ──。
そして朝。
「うー、ううー」
違う。これはスマホの目覚ましの音ではない。
時間を知りたくて、目を閉じたまま枕元のスマホに手を伸ばす。
「うー?」
吸い込まれるように柔らかい。これもスマホではない。
観念して俺は起き上がり、異音の正体に向き直った。
黒く流れる長髪に、くりっと光る瞳と、艶々とした唇が、生きていると主張してくる。
つむじから足の爪先まで、妻そっくりの全裸の女がそこにいた。
そうだ、結局俺はあの装置に手を出した。生命倫理とか道徳とか、とっくにとち狂っていた心の弱い俺には無価値だった。
ただ妻に似たぬくもりを感じて、現実をいっとき忘れられたら、というエゴと欲望だけが俺を突き動かした。
スイッチを押しても何も起きなかったから、やっぱり悪質ないたずらだと我にかえって布団に潜って、朝になったらこれだ。あの装置は一晩がかりで妻に似た女を作り出したらしい。よく見ると、割れた容器の破片が転がっていた。
「あー、あー」
「喋れないのか、お前」
外見は妻そっくりだったが、中身は聡明な妻とは程遠かった。
「んー?」
「ああ、危ないから動くな」
とりあえず破片を片付けてから、残していた妻の服を着せる。
女は従順で、無邪気で、好奇心旺盛で積極的に俺を触りたがる。テーブルに置きっぱなしだったハサミ等にも興味を示したが、持ち方すら理解できず手が拙かったので強引に没収した。
「あーたん、いや、いやいや」
「これは触っちゃダメ!分かった?」
「ううー、はいー、わかったー」
少しずつ話せる言葉が増えてきた気がする。
表情も幼く、身体さえ意識しなければ2~3歳ぐらいの女の子と喋ってる錯覚に陥る。トイレはすぐ一人で行けるようになったが、夜中は怖いらしくて俺を揺さぶって起こしてくる。
俺は仕事をやめて女とひきこもる道を選んだ。
「きらきら、きらきら」
女が日差しを浴びたグラスの反射で、壁に色模様ができているのを見て笑う。
日中に女と寝転がっていると、この部屋の日当たりの良さに驚く。
『この部屋にしよ!』
『眩しすぎないか?』
『いいじゃん、ここならお寝坊さんも私なしで朝起きれるでしょ?』
笑い声が上手く思い出せなくて、頭が痛む。
「あーたん、よしよし、よしよし」
呆然としていた俺の頭を、女がぎこちない手つきで撫でてくる。
妻と過ごした日々の記憶が、女といる日々に蝕まれていく。
たまに真夜中、女と散歩に出る。深夜なら暗くて目立ちにくいし、女がおかしな言動をしても酔っ払いと思われるだけで済む。
最初は少し怯えてずっと俺にしがみついていた女も、この頃は目を輝かせて街灯、車、公園の猫を見つめている。たまには外出も悪くない気がする。
今日は星がよく見える。
「あーたん、見て、きらきら」
女が星をつかもうと夜空に向かって腕を伸ばす。距離が理解できていないらしい。
昼間の光とは大違いの小さな光も、女は平等にきらきらと呼ぶ。
星を見ていると頭が冷えていく。見えるのに永遠に会えない。いつまでも遠い。
“人類再生計画実験体”の寿命は何年か。2173年にはデータは取れているだろうか。
今のうちに俺は死ぬべきかもしれない。この女まで失うなんて想像もしたくない。
俺が先に死んだら女はどうなる。全てを白状して引き取ってくれる人を探すべきか。そんなことが果たして可能なのか。
この先、生きている限り妻の記憶は失われていく。どれだけ必死に忘れまいとしがみついたところで、記憶の複製は過去の一瞬一瞬にはなれない。
今目の前ではしゃいでいる女も、いずれ遠くに消えてしまう。俺が勝手に作って、俺が勝手に離れて。記憶と、女。
俺は妻を二回殺すんだ。
俺は泣いた。自分の泣き声が聞きたくなくて、歯を食いしばって、それでも不細工な音が静かな夜道に響き続けた。
「あーたん、どしたの?よしよし」
涙越しに星空を見上げると歪んだ視界で光の束が無数に生まれて、きらきらと眩しかった。
乱反射する光と夜の距離 水長テトラ @tentrancee
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