遠い歩道、遠い声
かのん
真夜中の歩道
彼に声をかけられた時。私は歩道に寝転がっていた。
三月と思えない陽気。金曜日の夜。マンションの入り口で。
「お前。こんなとこで何してんの?」
聞かれなくても分かっていた。私のような二十三歳の会社員は、誰かと過ごすべきなのだ。悩みを話せる上司。共にいて息苦しくない彼氏。夢を語り合う友達。そんな類の知人は、持ち合わせていなかった。私にあるのは朝までの時間と、静かな歩道だけだった。
「あんたこそ、こんな時間に何してるんだ」と喉から出かけたが、舌の上で溶かしておいた。それは二人の間の溝を広げてしまう気がした。彼に頭を向けると、異星人を発見した時のような表情をした。私は共に過ごした最後の日であり、溝がうまれた最初の日である、小学校の卒業式を思い出していた。
式では多くの涙が流れていた。それは容姿を誇る女の子を可憐にさせ、そうでない子たちの顔をひどいものにしていた。私は横に座る男子を見た。彼は私立の男子中学に進む予定だった。県内一の進学校へ入学を許されたのは、この学校では彼だけだった。私を含むほとんどは、地元の公立中学に進むのだ。彼は泣かなかった。泣きたいのを堪えている男の子の顔だった。泣くことは私たちと同じ世界に属することを意味して、頑なに拒否しているようにも見えた。私は思った。彼とは二度と会うことはないだろう。きっと違う世界に行ってしまう。
あの予想は、半分当たることになる。こうして深夜の歩道で再会しているからだ。そして私は普通の大学を出ていて、彼は少年院を出ていた。
「ここ、私の家だよ」
私はマンションに親指を向けた。
「知ってるけどさ。そういうことじゃなくて」
「仕事に疲れて、人間関係に疲れて、人生に疲れてる。そんな気持ちを抱えたまま、家に帰りたくないんだよ」
自分の耳にも、小学生が駄々をこねているようにしか聞こえなかった。
「……昔から変な奴だと思ってたけど。そういう奴って、大人になっても変なままなんだな」
彼の声からは、何の感情も読み取れなかった。それは私の頭の横を通り過ぎ、アスファルトに打ち付けれられて、夜の闇に消えていった。
私は起き上がって、スーツについた砂埃を払った。彼の身長は160cmほどだ。それは私とほぼ同じで、見つめ合うかたちとなった。褐色の肌。ハッとするほど大きくて黒い目。一般の基準からするとハンサムなのだろう。しかし、その美貌は両親からの借り物だった。これ以上ひどいことがあると、年月を待たずに崩れてしまいそうな気がした。
その両親にも災難が起きているのは、有名な話だった。噂を何より好む人間が集まる、退屈な地方都市では、 プライバシーなんて概念は『いつまでも親友だよ』という、卒業アルバムの寄せ書き程度の意味しか持っていなかった。
「少年院。どんなとこだったか、聞きたいか?」
私のためらいは、頷くよりも明らかな答えを示していた。
「あそこでも、俺はケンカにあけくれてた」
彼はマンションの生け垣に座った。私も横に並んだ。咲き乱れたツツジが風に吹かれ、甘い匂いを発していた。
「舐められまくってたからな。開業医でT中出身のボンボンって。ある日、水泳の授業があったんだ。プールを見て、ハッとしたんだよ。そこでは鯉やら龍やらが、うようよ泳いでたんだ」
「入れ墨ね」
彼は頷いた。
「俺くらいの年の奴らだぜ。どんな世界にいるか、痛感したよ。ここにいつまでもいちゃだめだと思った。でも、どうすれば良いか分からなかった。しばらくそこに立ち尽くしてた。そしたら授業の後、ある職員に呼び出されたんだ。で、こう言われた」
彼は少し緊張しているように見えた。ひと呼吸おいて、ゆっくりと続けた。
「その痛みを経験した奴にしか治せない種類の傷が、世の中にはある。だから君の痛みは、決して無駄にならない。それが、どんな経験であったとしても。人生は、いつだってやり直せるんだから」
「良い言葉だね」
「だろ?」
彼の声はいくぶん弾んでいた。お気に入りのアーティストの曲を流し、相手の反応が良かった時のような顔をしていた。
「その人から、ここを出たら弁護士になったらどうだ?って言われたんだ。これだ!と思ったね。俺みたいなバカなガキを救えるしな」
彼は熱心に、少年院で出会った人間について語り始めた。それは法の助けも大人の助けも受けてこなかった、子どもたちの話だった。私はシャーマンの小説のようだと思った。そこには、こんな一文がある。
『これまでの人生で、本当に良かったと思えるようなことは片手だけで充分数えられる。しかし、片手分の幸せすらない人間だっていっぱいいるのだ』
「この年齢で大学通うのはハズいけど、C大学なら通信で学位が取れるんだ。この前、大検に受かったんだ。これからは受験生だぜ。この響き、懐かしいだろ?」
彼は微笑んだ。私も笑みを返した。心からの笑みだった。そこに、もう溝はなかった。名前も知らない少年院の職員が、私たちの世界を繋いでくれていた。くつろいで打ち解けた雰囲気が、そこにはあった。私は十数年前の、小学四年生の教室に入っていった。
彼とは隣の席だった。二人して教科書を忘れ、便覧を熱心に読んでいる振りをしていた。真面目くさって授業をする担任をちらちらと見て、笑いをこえらえるのに必死だった。メンデルの法則だのインゲン豆だの知らないけど、小学生が教科書を忘れたことも気付けないなんて、大人はバカだと思った。そうしているうちに、いつの間にか大人になっていた。
私は目を閉じた。彼の手によって開かれている便覧は大検の参考書になり、赤本に代わり、やがて六法全書になっていった。目を開けると、彼はいなかった。残されたのは背中の痛みと、真夜中の歩道。それだけだった。
遠い歩道、遠い声 かのん @izumiaya
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