【KAC深夜の散歩】弱い男と強い女

葦空 翼

弱い男と強い女

 じっとりと湿気った感覚。平らな胸元を汗が流れていく。……暑い。非常に不愉快だ。彼はうぅん、と唸りながら薄く目を開いた。目に映る世界は真っ暗だ。

 なんだ、まだ真夜中じゃないか。

 イライラしながら布団を蹴飛ばし、もう一度寝ようとしたが、ふいに覚醒した意識は彼に喉の乾きを気づかせてしまった。


 どうしよう。眠い。まだ寝たい。でも喉乾いた。水飲みたい。……あぁもう。


「……わぁったよ、起きりゃいいんだろ、起きりゃ」


 誰にともなく悪態を付き、渋々だがベッドを降りる。鈍い音と共に寝台が軋み、軽く弾む。ったく、水飲んだらすぐ寝てやるからな。すぐ。


 寝室の扉を静かに潜り、リビングに出たのち勘を頼りに手探りで台所に向かおうとして──気づいた。こちらの部屋はうっすらだが明かりがついている。


「おはようサイモン」


 ふいに背後から小さく声が聞こえたもんだから、ぎょっとして振り返った。台所と丁度真逆の方向。大窓のすぐ前、ソファセットにほっそりした女のシルエットが腰掛けている。長い黒い尾、セミロングの黒髪、大きな猫耳。金と赤に凛と光る、薄闇の中浮かび上がる白い肌。彼女はここらではとても珍しい猫獣人だ。


「ビッグケット、だよな。おはようじゃねーよ、びっくりさせんなよ。お前も起きたのか」

「ああ、今日なんか暑くてな。お前もだろ? しゃーないからちょっと水飲んで涼もうと思ってさ」

「俺も〜。今日妙に暑いよな。まだ春なのに、こんなに気温上がるもんかね」


 サイモンと呼ばれた男は真っ直ぐ大窓に近寄り、バタンと窓を開けた。そより。涼しい風が心地よく室内に吹き込み、サイモンの伸ばした金髪を揺らす。ビッグケットは長い脚を組み替え、唇を笑みの形にした。


「でさぁ、水飲んでちょっと落ち着いたと思ったらお前が起きてきたわけ。そしたらもう、寝るわけにはいかないじゃん」

「…………と、言いますと?」

「散歩。行こうよ。せっかくまた二人になったんだからさ、いいじゃん? 昔みたいにさぁ」

「…………昔みたいに、ねぇ」


 この二人は何を隠そう、夫婦でも恋人同士でもない。ただ縁あって一緒に暮らすようになり、「ちょっとした大冒険をした」後、二人の家であるここに戻ってきた。

 

 当時の仲間たちは彼ら同様、それぞれの故郷へと帰った。二人で一つの場所に帰ったのはサイモンとビッグケット、この二人だけ。それがどうにも気恥ずかしいような、当然のような。サイモンは落ちた金髪をかき上げ、はぁとため息をついた。


「……あのな、昔と今は違うんだよ。そうそう二人で出歩くわけにもいかないだろ」

「どうして? 恋人と見間違えられるのが嫌なのか?」

「…………お前、ホント嫌な女だな」


 真っ直ぐに、本当に無邪気に。サイモンを見つめて放たれる黒猫の言葉は、いつだって凶器のように鋭い。思わず二の句に困ってしまう。閉口するのは大概サイモンの方だ。

 

 別に正直な話、「それが嫌なわけじゃない」。ただあまりにも。ものすごく。気まずいのだ。恋人でなく、結婚してるわけでもない若い女を、いつまでも自分の元に縛り付けているのが。それ故、彼女との距離感にはなんだかナイーブになってしまう。

 

 サイモン19歳。ビッグケットは16歳。

 

 「冒険者の仲間だから、パーティーの一員だから一緒にいるんだ」と言い訳するのも、いい加減限界な気がしていた。

 なんでもないふりをすればいつまでも気にならないことだとしても。彼女の人生に、俺がきちんと門出を迎えさせてやらねば。

 最近は特にそう思っていて。


「……………………わかった。わかったよ。行こう、散歩」


 よし決めた。そう覚悟を決めたら、言葉を舌に乗せるのは早かった。渋い表情ではあるが、彼女の申し出を了承する。すると黒猫は即座に笑顔を浮かべた。


「え〜〜、いいの?! やったぁ!」

「じゃ、服着ろ。たまには外でもスカート履いたらどうだ」

「ヤだね! 動きにくいから嫌い!」


 そう言って大胆に寝間着のワンピースを脱ぎ捨てたビッグケットは、嬉しそうにノンスリーブの上着と超ミニ丈のズボンを身に着けた。彼女はおおよそ1年前、二人が出会った時と何も変わらない。いつまでもいつまでも、サイモンのことを異性と意識しようとしない。


「よーし、今日はどこ行こうかな!」


 だからほら。平気で男の手を取ってくる。











「おや、サイモンさん。夜中にこの辺にいるなんて珍しいですね」

「ああ、今日やたらに暑いだろ?目が覚めちまってさ。林檎酒シードルくれる?」

「はい、じゃあ……」

「あと。あいつにブランデーやって」

「えっ! あ、はい!」

「……………………その顔。マジでやめろ」

「いやぁ、だって! 黒猫さんを酔わせてどうするのかなぁ? と思ったらつい!」


 春の夜風が木々を渡る繁華街。サイモンとビッグケットは連れ立って屋外のアルコールスタンドにやってきた。昼間いつもここにいる顔馴染みは、さすがに夜中故店番から離れている。それでもこの街に二人を知らない者はいない。下世話な笑みを浮かべた魚人アプカルルがいそいそとコップにアルコールを注いでいく。


「やっぱソウイウことですよね? ついに二人は今夜、うふふ!!」

「違う。黙れ。あのな、あいつ糞ほど酒強いんだよ。だから一回くらい、あいつの酔ったところを見てみたいっつー。それだけ」

「えええそう言わず。商店街の皆でお二人がいつくっつくか賭けてるんですぅ、だから極力早くお願いしますよぉ。自分、絶対帰って来てから一年以内でゴールインすると思ってるんです」

「はーもーうるさい。酒寄越せ、酒」

「むしろ! これはビッグケットさんに発破かけるべきですかね?! 酔った勢いと称してぜひ今夜サイモンさんを、」

「商売しろよ魚ッおい!!」


 小振りな机をダン! と叩くと、店員は渋々といった顔で酒入りのコップを差し出した。イライラしたサイモンが投げるように銅貨を支払う。それを見た魚人の店員は、てへ! と舌を出した。


「やぁすみません、つい」

「あんまくだらないこと言ってるとこのスタンド燃やすからな……!」

「ご勘弁。出過ぎた真似をして申し訳ないです」

「ったく、冗談はほどほどにな!」


 これでようやく相棒の元に戻れる。しかしただでさえ気が重いのに……なんて言葉をかけてくれたんだ。サイモンは肩を竦め、ビッグケットの待つベンチへと急ぐ。


「お、やっと来た」

「はい、これお前の分」

「…………何これ? 少なくない?」


 サイモンがさっとビッグケットの分を渡すと、黒猫は小さなショットグラスを摘んできょとんとした。そりゃそうだ、子供でも飲む林檎酒シードルとこれは違う。正真正銘、大人が酔うために飲む強い酒なんだから、大きなコップになみなみ注がれてるわけがない。

 

 正直な話、これはただの悪戯イタズラ。ただの好奇心だ。

 かつて飲み比べをして完敗した過去を振り返り、二人が過ごした時を思い、一回くらい。この女をギャフンと言わせたい。ただその一心で。


「それ、林檎酒シードルよりずっと強いブランデーって酒なんだけどさ。

 今は春。もう少ししたら、丁度俺たちが出会って1年経つだろ。せっかくいつもと違う時間に外出たし、ちょっと早いけどお祝いでもしようかなと思って。駄目か?」


 嘘。ウソ。大嘘だ。

 騙す気満々で口からでまかせもいいところの言い訳を並べる。そしたら誰より素直で誰より純真なビッグケットは、

 

「ううん。へぇ〜〜、ありがとう!」


 実に嬉しそうに破顔した。

 かかった。サイモンもにんまり笑い、自分のコップを掲げる。


「そんじゃ、俺たちの出会いに乾杯」

「乾杯!」


 二人それぞれコップを煽る。先に飲み終わったのはビッグケットだった。


「ひゃあ〜〜〜〜、強い! ホントに酔うッ、酔うわ〜〜〜〜」

「お前酔うとどうなるの? 俺見たことないからさ」

「え〜〜?? 私も知らなぁい、えへへ!」


 いつもの凛とした声音とまるで違う、ふやけたパンのような声。サイモンが慌てて横を見ると、にこにことろける笑顔のビッグケットがこちらを見ていた。


「わぁ〜〜、なんか楽しい! 楽しいねぇ!」

「……そうか、お前楽しくなるタイプだったのか……。平和な酔い方しやがって」

「よぉし、楽しくなったとこで深夜の散歩行くぞ! ほらサイモン、来いっ」

「はいはい」


 ぐっと残りを飲み干し、二人分のコップを店に返す。そのかんいつにも増して自由人ぶりを発揮したビッグケットは、勝手に街の灯りから離れていってしまった。慌ててそれを追いかけるサイモン。暗闇に消えそうになる黒猫の横に並び、なんとか見失わないよう一緒に歩いていく。






 


 ビッグケットは酔っていても比較的機敏に動けるようだ。多少蛇行こそしているが、ずんずん進んでいく。これ、散歩っていうんだろうか。もはや競歩の域なのでは。勝手気ままな猫を追って西へ歩き続けると、やがて街の中央広場に差し掛かった。ここから西へさらに行けば国軍の駐屯地、北へ行けば二人の家、南へ行けば2つ目の商店街と教会がある。


「おい、今更だけどどこ行くんだ? 帰るならここで曲がらないと駄目だぞ」

「え〜〜、まだ帰らないよぉ。なんかこう、楽しいところに行きたい!」

「楽しい所ぉ? そんなんこの街にないよ。ったく、つくづくお前はノープランで生きてるよな」

「も〜〜、サイモンは理屈っぽい! 女にモテないぞ!」


 きゃはは!

 彼女が口にしたのはまるで意味をなさない戯言だったが。あんまり無邪気に笑うもんだから、思わず本音が口をついて出た。

 

「…………今更お前以外の女にモテてどうすんだ」

「えっ」


 ぽつりと零れた言葉。昨日までなら、テキトーに誤魔化していただろうが。今日はいいや。こいつもすこぶる酔ってるし。 

 夜風にサイモンの金髪が閃く。両目をまん丸にしたビッグケットと見つめ合う。生温い春の夜の空気が二人の肌を撫でて、沈黙が落ちて、サイモンは小さく唇を噛んだ。


 この世に生を受けてからこの子に出会うまで、「強さ」を手にしたことのない人生を送ってきた。この子に出会って初めて、「強くなりたい」と願った。なんだかんだで伸ばしたこの髪は、それだけの時間は、俺を君にふさわしい男にしてくれただろうか。


 

 ずっと逃げ続けていたこの気持ちを伝えても、許されるだろうか。



「えっ。じゃねーよ。今更これから他の女にモテようとか考えてると思われてた? こんだけ一緒に居たのに?」

「…………だって、私達は、」


 いちねんしかいっしょにいなかったのに。

 彼女の唇が小さくそう言ったのを見て、サイモンは大きく頷く。

  

「ああ、そうだな。時間に直すとたった一年。でも、二人でいっぱい色んな冒険した。湖も滝も川も平野も山も砂漠も森も空も雪原も、大陸中。苦しいときも楽しいときもずっとお前と一緒だった」

「…………うん」

「…………お前と二人でこの街に帰ってきた時点で、他の選択肢はないって。気づけよ」

「あっ」


 そこでふとビッグケットが視線を上げる。なんだよ、今めちゃくちゃ勇気振り絞って大事な話してるのに。サイモンが眉根を寄せつつ彼女の視線を追うと、


「あっ」


 先程の黒猫と全く同じ言葉が口から飛び出した。

 二人の視線の先にあったのは、



 漆黒の夜空を切り裂いて落ちる流星だった。



「流れ星! 天然物は初めて見た! ……あっまた!」

「わぁ……こりゃ流星群だな。春に来るのはこと座流星群。今年はいつもよりちょっと早く来たのか」

「ねぇ、サイモン見て! あんなにいっぱい……お願い事たくさん出来るね!」

「そうだな……」


 最初の一筋を皮切りに、パラパラと雨が降るように星が落ちていく。先程までの会話などすっかり忘れたサイモンが、思わず「お前は何を願うんだ?」と聞こうと隣を見ると。


「サイモンと、ずっと一緒に居られますように。私の願いは貴方に出会ってからずっとこれだけだよ。ねぇ神様、今度こそ叶えてくれるよね? こんなにたくさん星を降らせる力があるなら」


 一心不乱に空を眺めるビッグケット。今年の冬17歳になる彼女の瞳は、しかしまるで無垢な幼子のようだった。たくさんの人と出会い、そして別れた黒猫が、数奇な運命に導かれて共に戦い生き延びた二人が、今こうして並んで美しい流星群を眺められている。これが幸福じゃなくて何が幸福なんだろう。


 胸が苦しくなる。これが、愛おしいという気持ちなのか。


「ねぇサイモン、」


 ビッグケットが何か言おうとしているが、その続きを聞く気にはなれなかった。


「」


 流星群を背に、サイモンがビッグケットに口づける。

 この1年、ずっと一緒だった。

 最初は俺より君の方が遥かに強かった。

 今、俺は君に追いつけてる?


 ものの数秒の出来事。

 ぎゅうと合わせていた唇を離し、サイモンが間近で話しかける。


「俺の願いは、いつも強くて自由な君に追いつくことだった。弱い自分と決別して、君の相棒に相応しい男になることだった。ねぇ、今。俺はそうなれてる?」

「……………………あの、その」


 まぁ想定内だけど。ビッグケットは真っ赤になって口をぱくぱくさせていた。サイモンはふ、と微笑んで黒猫の手を握りしめる。



「俺と、結婚してくれ」


 

「えっ!!!!!!」

 

「一生離さないって約束しただろ?

 まぁ、結婚云々は勢いで唐突に言ってるから、指輪は用意出来なかったけど。気持ちだけは本物だよ。ほら」


 指輪の代わりになればいいと、ビッグケットの左薬指にも口づけを落とす。戦闘ではすこぶる頼りになる彼女の、驚きすぎて阿呆面になってる様が。困ったように両耳を下げて挙動不審になってる様が。酷く可笑しい。……我慢できない。


「……ふっふふ……ふふ、ははは!!

 すげー顔! なんだそれ!!」

「だ、だってだって! こんなとこでそんなこと言われると思わなくて……!」


「あっ。」


 ふと気づけば、周りを人だかりに囲まれていた。忘れてた。ここは深夜とはいえ、街のど真ん中だ。遅れてサイモンもきゅぅうと赤面する。……やっちまった。


 おめでとう! おめでとう!! とよくわからない人たちに囲まれ、やんやと拍手された。でもまぁ、いっか。偶然もまた神の思し召し。流星群に背中を押されたのも神のお導きだ。


 ……そう思っておこう。

 


 

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