犬と私の夜中の散歩

坂水

真夜中の散歩は何も起きない

 犬は人の顔を見るたびに散歩を要求してきた。

 朝も昼も夜も、ランドセルを背負っていようが、セーラー服を着ていようが、芋ジャー履いていようが、飲み会帰りで酒気を帯びていようがお構いなしに。

 要求の仕方はこうだ。器用に後ろ脚だけて立ち、壁やらドアやらひたすら引っ掻く。がりがりがりがり。けれど決して吠えず、対象のみに圧を与えるこの技。ぎりぎり叱られない絶妙な線を狙ってくる策士であった(ドアや壁の傷に翌日怒られるのだが。人が)。

 中学以降、テスト勉強や課題で夜更かしすることが増えた。喉の渇きや空腹を覚えてキッチンへ降り、うっかり目が合ってしまったなら、もう手遅れ。シャープペンシルとノートはスコップと折り畳んだ新聞紙に成り変わり、犬と人は真夜中へと繰り出すのだった。


 深夜の散歩は嫌いじゃない。少なくとも、テスト勉強や課題をうっちゃらかすぐらいには。

 かといって面白味のある何かが起きるわけでもない。同じく散歩中の美丈夫に会ったり、分厚い財布を拾ったり、真夜中開店のケーキ屋さんを見つけたり、そんな素敵なことが起きるはずもなく。

 真夜中の散歩は坦々と歩みを進めるのみ。月が出ていれば、犬と人、意外にもくっきり濃い影が連れ合いとなる。

 台形型に区切られた住宅街を抜けると田んぼが広がり、農道をさんさん歩くと小学生のみぎりから『くそ川』と揶揄っていた二級河川に突き当たる。昔は異臭を放っていたが、昨今は浄化機能が良くなったのか、人々の意識が変わったのかさほど気にならなくなっていた。

 フェンスで仕切られた川沿いを歩く。

 日中は灰色の川面は、夜は磨き上げた黒曜石。わずかな月明かりをぎらりぎらりと反射させる。

 亀でも落ちたか、ぼちゃん、と水音がした刹那。

 何十羽という水鳥が飛び立ち、連なった影が真上を通り、無数の羽根を落としていく。それを寝静まっていたはずの魚が餌と間違え飛び跳ねて、飛沫は月光の小さな虹を幾重にも産み出す。

 昼間にはない光景ではあったが、何年も続けていれば見慣れたもので、犬も人も歩き続ける。

 強いて他に深夜の散歩の魅力を挙げるとすれば、季節の移ろいをより濃やかに感じられることだろうか。

 春は桜、白くけぶる花には妖しく、呼ばれるのは人だけではない。毎年、川岸の桜並木の下には一匹の鬼が現れる。その彼岸には女の人が立っていて、二人は桜の下、見つめ合っているようでも、睨み合っているようでもあり、散り頃になると二人そろって音もなく消える。

 また、春の花は桜のみにあらず。雑草と呼ばれる野花は一晩に幾度も咲いては枯れ、咲いては枯れ、冬の間止めていた生命の営みをいまぞとばかり繰り返す。時折、犬は足元で旺盛に繰り返される春に、くすぐったそうに前脚をこすりつけていた。

 夏は緑一面の田んぼを透明な獣を象った青嵐が駆け抜ける。それまだ子どもで、よく悪戯をしてきた。こちらに突進してきて犬のくるりと丸まった尻尾と人の髪をぐちゃまぜにしたり、黄緑の尾を曳いて乱舞する蛍の群れにじゃれついて恋路を邪魔したり。ある時、仔青嵐が一匹の蛍をぱっくり呑み込み、腹を光らせたまま彼方へと走り去ってしまった。その年の夏の大三角形が歪な四角形になっていたのは、夜の彼方に連れ去られたあの一匹ではないかと思う。

 秋は目よりも耳にふれる。湿度が少なくなった空気に、透き通った虫の音が美しい。が細い何千何百の音が紡がれ、編まれ、重なり、響き合い、いつしか壮大な交響曲シンフォニーとなる。スコップも新聞紙もなく手ぶらだったら、曲の終わりに拍手をしたいところだけれど、燕尾服の指揮者には会釈をするにいつも留めた。

 冬の到来は人に空を仰がせる。紺碧色に鼓星を拾い上げ、次に大きな五角形。それらを覆い隠す分厚い雲が広がると、ちらちら白い礫がゆっくりと降りてきて、人の肩や犬の耳に砂糖粒じみて引っ付く。もしも雪が積もったなら、その晩は幻燈が上映されるかもしれない。夜に浸した薄紫色のカシミアのような雪原に、雪幻が映し出される。長く旅経た雪の記憶を映すそれ。運が良ければ懐かしいシーンと再会することもある。

 

 犬は散歩から帰ると満足して気に入りのクッションに丸くなって、己が人に散歩を強請ったことなど忘れて眠りにつく。

 人は新聞紙に包まれたブツを処分して、手を洗い、犬の寝息を恨めしく聞きながら自室へ戻る。

 

 社会人となり数年、犬は散歩を強請らなくなった。散歩紐を振っても、クッションに身を埋めたままじろりとこちらを見て、排泄の時に重い腰を上げるのみ。

 散歩に代わり、本やノートパソコンを携え、人が犬に侍る時間が増えた。

 真夜中の散歩にはもう行かない。黒い鼻は少し乾いて、寝息を漏らすたびにぴすぴすと鳴る。

 眠る犬に寄り添う時、犬は何も起きない真夜中の散歩の夢を見ているのではないかと思う。

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