第4話 ※

 朝はせっかくの快晴だったが、天気が崩れて秋雨に見舞われた。ぽつぽつと降り始めた雨が次第に激しさを増し、窓や車体を打ち付ける。雨嫌いの奏さんはマリンノートの香りを漂わせながら残念そうにしている。私も昔は雨が嫌いだったが、湿気が多いと香りの密度が濃くなると知ってから、雨の日が好きになった。


 知り合いに遭遇しないよう二時間以上かけて、シャチのショーを目玉にしている海沿いの水族館までやってきた。

 車から降り、彼の持つ黒い無地の傘の中で身体を寄せ合いながらメインゲートに向かう。周辺には館名が彫られた看板とシャチの像が飾られている。


「シャチが観賞できるなんて珍しいね」

「シャチに会える水族館は日本で二箇所しかないそうよ。前から来てみたいって思ってたの。都内の水族館にしか行く機会がなかったから、一緒に来れて嬉しいわ」

「僕も嬉しいよ」


 彼のいつもより明るく弾んだ声に安心したが、それも束の間だった。

 どうしても周囲を警戒するいつもの癖が出てしまうのだ。知人と似た背格好の人はいないか辺りの物陰にまで視線を巡らせたり。人の話し声に過敏に耳をそば立てたり。誰かがスマートフォンを構えているだけで写真や動画を撮られていないか不安に思ったり。


 受付でチケットを購入し、マップをもらって施設内の構造を確認する。腕を絡めて歩くカップルや家族連れを横目に、まずは『海の王者』と名高いシャチのショーが開演されるスタジアムに直行した。

 滅多にない機会だから雨合羽を買って前列でショーを観たいと伝えたが、奏さんは後方から全景を観たいと言って意見が分かれてしまった。


「美月は前列で観ておいで。ショーが終わったらまた合流しよう」

「……ううん。やっぱり後ろで一緒に観るわ。傘もあるし、雨合羽も邪魔になりそうだもの」


 事前に動画投稿サイトで観た、シャチが水面を優雅に泳ぎ回る姿や、豪快な水飛沫をあげての大胆なパフォーマンスを間近で堪能したかったが、諦めて彼と同じ場所で観ることにした。

 前列に座って雨合羽を着ていた親子達は、シャチに盛大に水をかけられて、楽しそうに悲鳴をあげていた。


 時間差で行われたイルカやアシカのショーも観賞してから、『海のカナリア』と呼ばれる全身が真っ白のイルカ──ベルーガの展示スペースに向かった。館内の巨大な水槽の中で五匹のベルーガが体を捻りながら自由に泳ぎ回っている。私がカメラを向けると二匹のベルーガが鳴き声を上げて近づいて来た。


「このベルーガ、人にずいぶん慣れているのね。可愛い!」

「カメラ目線の子が多いね。自分が見世物だって自覚があるのかな」


 奏さんの冷淡な声で我に返る。はしゃいだ自分が恥ずかしく思えてきて、結局写真は削除した。


 今度はクラゲのエリアにやって来た。都内の水族館の特設コーナーより規模は小さいが、水槽のライトアップはここでもやっているようだ。


 子どもの頃と同じ期待を抱きながら、奏さんと一緒に水槽の前に立った。赤、ピンク、黄色の三種類の照明が、ミズクラゲ達を照らしていく。


(あれ……?)


 だがあの頃のような感動は訪れなかった。水中を照らす光の粒は安っぽいおもちゃのようにしか思えなかった。展示の規模が小さいからなのか。照明設備が古いからなのか。ミズクラゲの数が少ないからなのか。理由は分からないが、なんだか肩透かしを食った気分だった。

 隣にいたはずの奏さんは、白いLEDライトに照らされたミズクラゲの水槽の前に移動していた。


「こっちの水槽のクラゲのほうが綺麗だね。照明の色まで変えられると、人工物というか、偽物っぽい気がするから僕はちょっと苦手だな」


 彼の声は今日聞いた中で一番弾んでいた。私は味気なくてつまらないと感じたのだが、あえて口には出さなかった。

 奏さんはクラゲの成長過程や生態に関する映像付きの解説コーナーに入っていった。


 仕方なく他の水槽を眺めていると、ある家族連れが近くにやって来た。父親の胸元に抱っこ紐で固定された赤ちゃんが水槽の中を見てぐずり出し、弱々しい泣き声をフロア内に響かせた。父親がおろおろしながら身体を上下に揺らして落ち着かせようとする。母親が声をかけてあやすと、赤ちゃんはすぐに泣き止んで笑顔を浮かべた。


 怖い生物でもいたのだろうか。水槽の中を覗き込んだ私は、衝撃的な光景に言葉を失った。


 尾の肉を噛みちぎられたエイの骨が剥き出しになっていたのだ。傷口から血が流れて水槽内の水と混ざり合い、少しずつ濁っていく。痛みを堪えているのか、エイの泳ぎ方はぎこちなかった。どの生物の仕業だろう。私は水槽内に目を凝らしたが、名前が分かる生物はウツボとアカウミガメぐらいだった。


「窮屈だったのか、慣れない環境に強いストレスを感じたのか……どっちも可哀想だね」


 シダーウッドとアンバームスクの微かな香りと共に戻ってきた奏さんが、私の傍に立った。魂が抜けたような声。憂いに沈んだ眼差し。覇気のない横顔。彼の姿は、巨大なトンネル型の水槽を見上げていた、かつてのお父さんと同じだった。


 その時、夜を揺蕩う夢を見る理由が、心にくっきりと浮かび上がってきた──



「もう終わりにしましょう」



 思わず零した別れの言葉。息を飲んだ奏さんは身体を震わせ、水槽の中で鈍く泳ぎ続けるエイから目を逸らさなかった。水を打ったような静寂が広がっていく。


「…………どうして? 僕は美月と一緒になりたいって本気で思ってるんだよ」

「もう上手くやっていけないと思うの。たぶん私は奏さんの事が本当に好きなわけじゃなかったのよ……私の欲を満たしてくれるから居心地がよかっただけなんだわ。利用してしまってごめんなさい」

「まっ、待って……! 妻と別れたら考え直してもらえるのかな?」


 以前の私なら何も疑わずに喜んでいたであろう言葉も、上澄みを掬ったような物言いにしか思えなかった。


「答えは変わらないわ。奥さんも私達のことを勘づいていると思う。もし何か聞かれた時は、奏さんからも正直に伝えてほしいし、奥さんが大丈夫なら私も会わせてほしいの。ちゃんと話をして責任を取りたいから」


 私が自分の意思を淀みなく、はっきりと伝えられたのはこの時が初めてだった。昏い夜の水底に、ついに一筋の光が差し込んだのだ。

 私は目を瞬かせている奏さんに問いかけた。


「……幻滅した?」

「ううん。びっくりしたけど、素敵だなって思ったよ。美月は僕が思ってた以上に、ずっと強い人だったんだね」


 奏さんは一つずつ噛み締めるように言葉を紡いでから、目を伏せ、口を噤んだ。訪れた長い沈黙に、私達の息遣いだけが漂っていた。


「僕も逃げてばかりいないで、妻と向き合うよ」


 やがて奏さんは春の淡い日差しめいた笑顔を向けてくれた。彼と一緒に過ごしてきたどの時間よりも、私は穏やかな気持ちになれた。


 外に出ると、空には晴れ間が覗き、水溜りに反射した光が煌めいていた。マリンノートの香りはいつしか、凪のような静けさに溶けて、消え去っていた。




─・─・─・─・─・─・─・─・─


 本作の修正前からご存知の方も、今回がはじめましての方も、ここまで読んでくださってありがとうございます! 作者のすずくらげです。


 最終話に出てきた生物たちの写真を近況ノートに載せてあるので、よろしければご覧ください。

https://kakuyomu.jp/users/suzukurage/news/16817330660232394471


 お話はここで終わりですが、後日改めて、あとがき的なページを載せようと思っています。

 もしご興味がおありの方は、小説のフォローをそのままにしておいていただけると嬉しいです。


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