第3話 ※

 私は今の職場の最寄り駅より十駅離れた場所に住んでいる。徒歩で約二十分、築年数十年のアパート。荷物の少なさに反して部屋は広めのワンルームだ。


 秋といっても夜はまだ蒸し暑い。ハンカチで汗を拭いながら、街灯がぼんやり照らす道を駆けていく。帰ってすぐに部屋を軽く整えた。

 奏さんが来るまであと二十分弱。お風呂に入って化粧を直す時間はない。無香料の汗拭きシートで身体を拭いていく。丈の長いピンクのチュールスカートと胸元にレースが施された半袖の白いブラウスに着替えて、化粧が崩れていないか確認した。


 インターホンが鳴ってすぐに玄関へ向かった。脱ぎっぱなしにしていたパンプスを揃える。扉を薄く開けて顔を覗かせると、息を切らせた奏さんが扉を掴んで押し開いた。


「美月、振り回してごめん……! 調整してくれてありがとう」

「奥さんは大丈夫なの?」

「ああ。さっき会社から電話した時は落ち着いてたから、しばらくは大丈夫だと思うよ。先にシャワー借りてもいい?」

「ええ、どうぞ」


 革靴を並べた奏さんは荷物を置き、ネクタイを緩めながら脱衣所に向かった。


 奏さんは私より三歳年上の男性社員だ。端正な面立ち。気配り上手。清潔感の溢れる身だしなみ。完璧な容姿や性格に加えて優れた業績を収めている、非の打ちどころのない存在だ。当然周囲からも高い評価を得ている。自分の力で泳いで輝ける彼に、私は淡い好意を寄せていた。


 ──清瀬さんはお名前の通り、慎み深くて、聡明で素敵な女性ですね。お気づきではないと思いますが、僕はいつも貴女に救われています。


 奏さんと出会って一ヶ月が過ぎた頃、彼から交際の申し込みをされた私はかつてないほどに胸が高鳴った。誰もが認める奏さんが私を求めてくれているのだ。誰かに必要とされる心地良さが、私の渇いた心に潤いを与えてくれた。私は二つ返事で了承した。顔も知らない奥さんへの後ろめたさや罪悪感は、心の片隅に追いやった。


 うつ病を患っている奥さんは服薬もしていて、日常生活を送るのも困難な状態だ。彼女の看病に疲弊しきっていた奏さんは、私のさりげない気遣いだけが僕を救ってくれると、そう話してくれた。当人である私の記憶は曖昧だったが、彼の救いになりたくて身も心も喜んで差し出した。


 でも私はちゃんと奏さんの望む通りの人間になれているのだろうか。疑問と不安を拭えないまま、彼との関係は四ヶ月を迎えようとしていた。


「もっと早く会えていたらよかったのに」


 奏さんは私の身体を愛撫しながら、雫のような呟きを落とした。



 密やかに逢瀬と肌を重ねる日々の中で、私はある夢を見るようになった。

 水槽の中に広がる昏い紺色の夜。水は温かくて、水中でも呼吸ができる。足首が隠れる丈の白いワンピースに身を包んだ私は、次第に差し込む色とりどりの光を浴びながら、ミズクラゲ達と一緒に夜を揺蕩う。

 夜に広がっていくマリンノートの香り。香りの漂う方向へ泳ごうとすると決まって息が苦しくなる。水を掻く腕を掴んで引き上げて欲しいのに、誰にも気づいてもらえず、昏い夜の底へと沈んでいく──


 そして目が覚めた私はいつも底知れない恐怖に襲われるのだ。

 互いに気をつけてはいるが、もし子どもを授かってしまったらこの関係はどうなるのだろうと。奏さんは優しいけど、信頼やお金を引き換えにしてまで私を本当に選んでくれるだろうか。選んでくれたとしても無価値な私ではなく、子どものためでしかないはず。私のような人間が立派な母親になれるとは思えない──


 情交の余韻に似つかわしくない考えを巡らせながら、私は深い溜め息と共にいつもの言葉を吐き出していた。


「私は……いつまで待てばいいの……?」

「…………症状がいつ不安定になるか分からないから、タイミングが掴みづらいんだ。離婚の件はお義母さんに話を通してからどう伝えるか、一緒に相談しようと思ってる」


 奏さんの言葉に一喜一憂してしまう。喜びと悲しみ、期待と落胆、高揚感と罪悪感の激流に心が削られる。私はもう限界だった。


「ねえ、明日も会えない? 気分転換に一度遠出してみましょうよ」

「土曜日か」

「やっぱり休日だとまずいかしら?」

「いや……休日出勤だって言えばいけるかもしれない。妻の実家も遠くはないし、お義母さまに頼めると思う」


 奏さんはスマートフォンを手に取り、電源を入れた。いつもは怪しまれないよう電源を切っていないはずなのにどうしてだろう。症状は落ち着いていると話していたが、不在着信の履歴は五十件近く溜まっていた。


 奏さんは顔を引き攣らせながら奥さんとお義母さんそれぞれにメッセージを送った。引き続き納品トラブルの対応をするため休日出勤になったと。『娘の事は任せてください。いつも迷惑をかけてごめんなさい』とお義母さんから返信の通知がきたが、奥さんからの電話ですぐに掻き消された。


 数回の着信が途切れた合間に奏さんが送った「仕事だから理解してほしい。出来るだけ早く終わらせて帰るから」という文面が目に入る。今度は問い詰めるように一行ずつ連続で送られてくるメッセージに、彼は慎重に返信していった。


 十数分後。やりとりを終えた奏さんは、奥さんと共有しているというスケジュール管理のアプリを開いて、約束の日に『休日出勤』と入力した。その無機質な文字を見て、私の中の何かが、泡のようにすっと消え去ったような気がした。


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