第2話 ※
「清瀬くん! これはいったいどういう事だ⁉︎」
業務の打ち合わせをする社員達の声やキーボードを叩く音が響くオフィス内に、営業部長の怒号が撒き散らされた。
印刷会社で派遣社員として働く私の仕事は、受発注以外の営業事務と庶務事務(データ入力、資料作成、郵便物の送付業務、電話応対など)だ。今日もいつものように淡々と業務をこなすだけのはずだったのにと内心で頭を抱える。
今日中に必要な資料作成が終わっていないとご立腹なのだが、これは営業担当の男性社員の伝達ミスが引き起こした事態だ。納期と仕様を記した付箋のメモを机に貼っていたのに、席を外した間に捨てられていた。派遣社員のミスにしたほうが波風を立てずに済むから反論するなと言われた。
だが容疑を晴らさなければ派遣会社からの評価が下がるし、次の職場への斡旋にも支障をきたすかもしれない。
部長に説明しようとしたが聞く耳を持ってもらえず、挙句、強引に話の論点をすり替えられた。
「学校のお勉強だけできても社会に出たら何の役にも立たないってことだ。高学歴なのに派遣社員だなんて、学費も無駄だし親御さんも気の毒だな」
「………………」
「若いうちにさっさと結婚したほうが幸せなんじゃないか? 最近の若者は善意だって分からずにセクハラだってすぐ騒ぎ立てるがな。君のためを思って言ってるんだぞ」
差別と各種ハラスメントの濁流だ。時代が変わっても人間は簡単に変われない。少なくとも部長は古い価値観を矯正する機会を得られなかったようだ。
他人の尊厳を傷つけるのに必死で、唾まで飛ばして熱弁する部長の姿が滑稽だった。芸人の滑り続けるコントを見せつけられているような、羞恥心に近い感覚に陥る。
「何をにやけているんだ!」
憐れみや侮蔑が顔に出てしまったか。濡れ衣の件はもうどうでもいい。何を言っても無駄だからさっさと終わらせて帰りたい。何より手の甲に飛ばされた唾を一刻も早く洗い流したい。
「申し訳ございませんでした。小石部長」
「大石だ! 馬鹿にしてるのかあ⁉︎」
この会社で本当に犯した初めてのミスだった。激昂した部長が机を叩きつけて立ち上がり、顔を近付けてくる。臭い。うるさい。鬱陶しい。私は堪らず息を止めた。オフィス内の凍りついた空気がじくじくと私を責め立てる。渋々、申し訳なさそうな声で謝罪した。
定時まで一時間も残っていない。急いで資料作成に取り掛かった。
どうにか仕事を終わらせた私は終業時刻になったと同時に退社の準備をした。挨拶を済ませ、タイムカードを切る。「もう帰るのか」と責める周囲の視線を尻目に、早々に職場から避難した。
黒い革製の手提げ鞄からiPhoneを取り出す。奏さんからの連絡はまだだ。次に母からの連絡がないか確認しようとLINEアプリを開いたが、期間限定の無料スタンプを入手するために登録した公式アカウントからのメッセージ以外、何も届いていなかった。
現在の時刻は十八時過ぎ。十九時に五駅先で待ち合わせの約束をしている。三十分もあれば間に合う場所だ。まずは近くの商業施設のお手洗いに直行し、化粧台の鏡の前に立った。
油取り紙で顔の皮脂を軽く取ってからファンデーションとチークを薄付し、アイシャドウ、アイライン、マスカラ、ハイライトを塗り直していく。最後にコーラルピンクのリップティントを唇に塗ってティッシュオフ。仕上げに髪を櫛で整えた。
逸る気持ちで笑みを溢した時、iPhoneのバイブ音が鳴った。奏さんからの連絡だ──私はすぐに応答したが、納品トラブルが発生したから今日の約束をキャンセルさせてほしいと、沈んだ声で告げられた。
「今度必ず埋め合わせするから。本当にごめんね」
「……大丈夫。無理しないで」
せっかくの金曜日なのに──渦巻く暗然とした気持ちを持て余したまま、通話を終えた。
私は近くのファーストフード店に入り、てりやきチキンフィレオのハンバーガー、ポテト、コーラのセットを注文した。商品を受け取り、大通りに面した窓側のカウンター席に腰を下ろす。
街を行き交う人達やビルの明かりを眺めているうちに、かつての苦い記憶の海へと沈み込んでいった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
──美月。私達ね、離婚することになったの。これからはお母さんと二人で暮らしましょう。今後はお父さんと会わないで。私達との関わりをすべて絶つって念書も書いてもらったから。中学校を卒業するまで苗字は今のままで、高校に進学したら『蒼井』から『清瀬』に戻しましょうね。
紅く染まった葉やイチョウが散り始めた頃。淀みなく告げられた決定事項に私は愕然とした。ついに危惧していた事態になってしまったからだ。二人の間に漂う険悪な雰囲気にも、夜中に繰り広げられる激しい口論にも、私は幼い頃からずっと怯えていた。
(私の存在は離婚を思い留まる理由にはならなかったのね)
離婚届は押印済みで、氏名、住所、本籍、離婚の種別、未成年の子の氏名、同居の期間などのすべての項目が端正な字で埋められていた。
父の名前の横に母印を押された念書が、無慈悲な現実を突きつけてくる。
責任を負うべき立場だが親も一人の人間だ。子どものために自分を犠牲にしたり、聖母や菩薩のようになる必要などない。どうしても耐えられない、譲れない事はあるだろう。
でもそれは子どもだって同じだ。決心が揺るがないのなら、決定が覆らないのなら、せめて両親のどちらと一緒に生活したいのか、確認してほしかった。
──どうして? もう一緒にいられないの……?
お父さんは顔を手で覆った。涙を零し、謝罪の言葉を重ねるだけで、肝心の理由は何も話してくれなかった。
離れ離れになるなんて嫌だ。みんなで一緒にいたい──絞り出そうとした言葉は嗚咽になって、海の底のように冷え切った台所で、虚しく響いただけだった。
経済的な負担を少しでも減らしたくて、私は公立高校、国公立大学へと進学した。家庭教師と塾講師のアルバイトを掛け持ちして学費を稼ぎ、勉学に励む多忙な生活を送った。サークル活動もやってみたかったが、要領の悪い私にそんな余裕は無かった。一流の企業にさえ就職できれば、すべての努力は報われるはずだった。だがどの企業からも内定はもらえなかった。
──せっかくいい大学に進学できたのに……素行も成績も良かったのに……
落胆と失望を滲ませたお母さんの言葉が忘れられない。期待に応えて喜ばせてあげたかったのに、私はどこで間違えてしまったのだろう。
だがいつまでも悩んでいられない。就職活動は継続しつつ、職種に対するこだわりは一旦捨てて、繋ぎの職を得るために急いで派遣会社に登録した。そして斡旋された今の職場で小鳥遊奏と出会ったのだ。
しなしなになって冷えたポテトを口に含む。ぼそぼそした食感が口の中で纏わりつく。コーラで流し込もうとした時、再び奏さんから連絡がきた。想定よりも早く解決してどうにか時間が作れそうだから、家に行きたいと──
私はすぐに承諾し、急いで食事を済ませて帰路についた。
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