夜に揺蕩う海月たち【修正版】

すずくらげ(公募作品執筆中)

第1話 ※

 無気力。無意味。無価値──現在いまの私を表現するならこれほど最適な言葉はない。

 自分の夢を持てないまま、母親の期待にも応えられず、何の面白みのない平凡な大人になってしまった。

 そんな私でも十数年、ずっと大切にしている想い出がある。それは小学生高学年の頃、都内のある水族館に家族で訪れた時のことだ。


 川のせせらぎを連想させるゆったりした曲調のピアノ曲が流れる館内は、多くの人でごった返していた。休日の混雑と重なったことに顰めっ面で不満をこぼすお母さんと、貼り付けたような笑顔で宥めるお父さんを交互に見つめながら、私は小走りで二人の後についていった。


(水族館に行ってみたいって言わなきゃよかったな……)


 早くも押し寄せる後悔と気まずさに蓋をして、薄暗い館内を順路に沿って進んでいく。巣穴から顔を出しているチンアナゴや珊瑚礁の周りを泳ぎ回るクマノミの水槽も、よちよち歩くペンギン達の愛らしいパレードも、結局落ち着いて観賞できなかった。


 ずっと両親の顔色を窺っていた。臆病な私の心が強烈に惹きつけられたのは、特設コーナーに展示された豊富な種類のクラゲ達の水槽だった。巨大な水槽だけでなく、円柱型の小さな水槽が広い空間にいくつも設置されている。中でも水槽の数が多いのは一番有名なミズクラゲだ。生態に関する説明書きに目を通す。


 ◇ ◇ ◇


【ミズクラゲ】

 クラゲの中で最も有名な種。傘の中心に四つの生殖線があるため『ヨツメクラゲ』と呼ばれることもある。体長は十五センチから三十センチにまで成長する。生息地は世界中の沿岸近くの温暖な海。

 触手にある刺胞から射出される針で、獲物を毒で痺れさせて捕食する。毒性は弱く、人間にほとんど影響はない。

 クラゲはプランクトン(遊泳能力が弱くて水流に逆らえず、水中で浮遊生活を送る生物)であるため、傘を開閉して水流に沿って漂っている。


 ◇ ◇ ◇


 一定の時間が経つと、降り注ぐLED照明が赤、橙、黄、緑、青、紫、ピンクなどの色彩に切り替わり、ミズクラゲ達を照らし出す。照らされたミズクラゲ達の白い体が色を変え、水中に陰影を刻んでいく。水槽に反射した光の粒は宝石が散りばめられたような幻想的な光景で、この空間全体が芸術作品のようだと錯覚を覚えるほどだった。


(私もこんな風になれたらいいのにな)


 クラゲは脳を持たない。人間ヒトと違って将来への不安を抱くことも無ければ、生命の危機に直面しない限り相手を傷つけたりもしないだろう。水族館で飼育されている個体なら、適度な水質と水温の下で管理され、適量の餌を与えられる。身の安全を保証された水中をゆらゆらと漂っているだけで、色とりどりの光や賞賛を浴びられるのだ。


 客の多くが「きれいだね」と月並みな感想を口にしながら写真を撮っている。


 自分自身が輝けなくても誰かに輝かせてもらえる。そんな彼らのことが、私は妬ましくて、羨ましくて堪らなかった。

 その時、強く握り締めた手をお母さんに強く引かれた。


 ──美月ったらいつまで見てるの? そろそろイルカのショーの時間よ。

 ──まっ……待って! もうちょっと見たい……

 ──クラゲはいつでも見られるわ。ショーの時間は決まっているんだから早くしなさい。まったく……お父さんはどこに行ったのかしら? 美月がぐずぐずしてる間にいなくなっちゃったのよ。一緒に捜してちょうだい。


 お母さんは呆れた様子で辺りを見渡した。イルカのショーの案内放送が館内に響く。巨大なトンネル型の水槽からショーが始まるホールへ移動する人の波の中で、微動だにしない人影を発見した。


 ──お父さん!


 呼びかけても返事は無かった。


 体の先に角のようなひれを持つナンヨウマンタや、頭部にのこぎり状のふんを持つノコギリエイ、他にも名前の分からない小さな魚の群れが泳ぎ回る姿を、お父さんは広い通路の真ん中に立ったまま、ずっと目で追っていた。


 トンネルの上部から降り注ぐ自然光で、空間全体がベールに包まれたような、神秘的な雰囲気を醸し出している。柔らかな光に照らされたお父さんの横顔は憂いを帯びていた。もう一度呼びかけるのを躊躇ったその時、お母さんの鋭い一声で、お父さんははっとしたようにこちらを振り返った。



 ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎



「──美月。どうしたの?」


 記憶の水底に沈んでいた意識は、私の名前を遠慮がちに呼ぶ彼の声で打ち上げられた。私に覆い被さり、腰を動かしていた彼──小鳥遊たかなしかなでは眉尻を下げて、色素の薄い瞳を細めている。


「疲れているなら今日はもうやめておこうか」

「……ぼんやりしてごめんなさい。大丈夫よ」


 白い関節照明に照らされた、クラゲのように色白な彼の痩躯を撫でる。互いに指を絡ませ、唇を重ねようとしたその時、無機質なバイブ音が部屋を圧迫した。私のスマホは電源を切ってある。彼の帰りが遅いと不安に駆られた奥さんからの着信だろう。これから何度も連絡が来るはずだ。


「……やっぱり今日はもうやめておきましょう」

「うん……」


 奏さんは名残り惜しそうに私の中から出て行った。


「シャワーだけ借りていい?」

「ええ。でも今日は石鹸とシャンプーは使わないで。お湯だけにしてね」

「大丈夫。解ってるから」


 奏さんは脱衣所に駆け込んで行った。慌ただしい物音に続き、シャワーの水音が響いてくる。


「はあ…………」


 重い身体を引きずりながらベッドから這い出る。肌寒さに身体を震わせた私は、拾った下着に足を通してブラウスだけ羽織った。部屋の電気を点け、彼の衣類を軽く整える。タオルとドライヤーの準備をしている間も、奥さんからの着信は止まなかった。

 程なくして奏さんが戻ってきた。


「こっちに来て。髪は私が乾かすから」

「ありがとう。助かるよ」

「早く奥さんにメッセージだけでも送った方がいいと思うわ」

「……そうだね」


 手早く着替えた彼は床に、私はベッドに座った。ドライヤーの電源を入れ、奏さんの栗色の髪を根元から掬って熱風を当てていく。彼のスマートフォンの画面を覗くと二十件以上の着信履歴が表示されていた。髪を乾かしている間にももう一件着信が入ったが、彼は出先だから電話は出来ないというメッセージを手短に送った。



「またね、美月。落ち着いたら電話するから」

「ええ。気をつけて帰ってね」


 奏さんは硝子細工に触れるような繊細な手つきで私の髪と頬を撫でてから、そっと抱き締めてきた。

私も背中に腕を回して力を込める。


 今度はいつ会えるのだろう。証拠が残らないようメッセージのやり取りは一切していない。彼から連絡が来るまで待つしかないのだ。


 いつどこで誰に見られるか分からないからと、外に出て、彼の姿が見えなくなるまで見送ることも出来ない。悪い事だと解ってはいるが、制限だらけの関係性にもどかしくなる。


 玄関の扉が閉められる。足早に遠ざかっていく靴音が聞こえなくなってから、私は再びベッドに潜り込んだ。シーツに顔を埋めると、彼の香りが残っていた。海や大地などの自然物を表現した香調マリンノート──彼の誕生日に贈った特注の香水の香りだ。


 トップノート(香水をつけて最初に感じる香りで、香水の第一印象を決めるもの)の、アップルやレモンの瑞々しい果実を連想させる爽やかな香りで、初めての水族館に期待を膨らませていた子どもの頃の自分を。


 ミドルノート(数時間かけて展開していく、香りの核となる香り)の、濃厚な甘さと華やかさを持つジャスミンや、瑞々しさと上品さを纏うホワイトローズで、光を浴びたミズクラゲ達の美しい姿を。


 ラストノート(香りが消えるまでの残り香)の、森林の温かみを帯びたシダーウッドと、魅惑的な甘さを感じさせるアンバームスクで、小鳥遊奏という愛する人を──


 大切にしたい想い出や心が強く惹きつけられたものを香りで表現したものだ。

 香水なら自分で購入したと誤魔化せるだろうし、どうしても一緒に過ごせない時も私を身近に感じてくれるだろうと思ったのだが、


「いつになったら別れてくれるのよ……奥さんのことなんて、もう愛してないくせに……」


 無気力。無意味。無価値──そんな私の呟きを包み込んでくれたのは、情事の残り香だけだった。


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