番外編.美しい夢
「…………ちゃん」
「……いちゃん、起きて」
「ねえ明お兄ちゃん、起きてってば!」
身体を揺すられながら、小さく囁くような言葉で名前を呼ばれた俺は、眼を少しだけ開けた。
真っ暗な部屋の中に、人影のシルエットがぼんやりと確認できる。眼を擦り、パチパチと瞬きをすると、眼が暗闇に慣れてきたのか、その人影の詳細が朧気ながらに見え出した。
それは、女の子であった。
ふわりとしたピンクのボブヘヤに、子猫のような愛らしいつり目、そして時折見えるチャームポイントの八重歯……。
『幼馴染み』の、長谷川 美結だった。
「ふああ……。なんだよ美結?そんなに慌ててさ」
俺が目を擦りながらそう言うと、彼女は頬を膨らませた。
「もう!何寝ぼけたこと言ってるの!?早く起きてよ、明お兄ちゃん!」
「まあまあ、そう急かすなって。人生ってな、落ち着いて行動してこそ……むにゃむにゃ……さ。分かるかい?」
「もー!バカバカバカ!早く起きてよ!遅刻しちゃうよ!」
「遅刻~?遅刻って……なにに?」
「えー!?あ、明お兄ちゃん!今日は月曜日だよ!?」
「うん?月曜日?」
「そうだよ!学校に行かなきゃ!」
「…………………」
美結の必死の形相を見て、霞みがかっていた頭が、だんだんとクリアーになってきた。
そして、ふと枕元にある目覚まし時計へと目を向けた。もう既に、時刻は7時50分をさしていた。
ちなみに朝のホームルームは、8時30分である。学校に行くまでには、30分以上はかかる。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
家中に、俺の悲鳴が響き渡った。
「……おんあにおおうなうなあ、あいにいってうええあよあっあのい!」
俺はおにぎりを頬張りながら、美結と共に学校に向かって爆走していた。
美結は息を切らしながら、「え!?なに!?なんて言ったの!?」と言う。俺はおにぎりを飲み込んで、また同じ言葉を口にした。
「こんなに遅くなるなら、先に行ってくれればよかったのに!」
「えー!やだよ!」
「なんで!」
「だって!明お兄ちゃんと一緒がいい!」
「なんだとー!?全く!可愛いことを言うんだな君は!照れちまうぜ!」
そうして俺たちは、とにかくがむしゃらに学校へ走っていた。
もしも俺たちがハムスターだったら、あの輪っかのやつはさぞや激しく、くるくる回っていただろう。
「……しゃっー!学校到着ー!」
爆走すること35分。俺と美結は背中に汗をぐっしょりかきながら、学校の正門を潜った。
ホームルームが始まるまで、あと5分を切っていた。
「あ、あ、危なかった~……」
美結の口から、弱々しい呟きが漏れる。
「すまんかったなあ、美結。俺に付き合わせちまってよ」
「ほんとだよー!明日からは、ちゃんと起きてよね!」
美結が膨れっ面で、俺をそう叱った。むーん、叱る顔も可愛いですなあ。俺の幼馴染みは、いつになく最高ですわ。
「明お兄ちゃん、なにニヤニヤしてるの?」
「うん?いやー、美結は怒ってる顔も可愛いなと思ってね」
「も、もう!ずるい!反省してよね!明お兄ちゃんたら!」
「はははは!」
頬を赤らめるかわゆい美結とともに、俺は下駄箱へと向かう。外靴から、上履きへと履き替えていたその時。
「おーい!二人ともー!」
俺たちの背後から誰かを呼ぶ声がした。振り返ってみると、そこにはこっちに向かって走ってくるメグちゃんがいた。
「やあメグちゃん、おはよう!」
「おはよーメグ!」
「おはよう、美結!おはようございます、明さん!」
メグちゃんの明るい笑顔が、眩しく光っている。美結もメグちゃんに会えて、すごく嬉しそうに頬を緩めている。
「二人とも、今日はいつもより遅いね。何かあったの?」
「それが、明お兄ちゃんが全然起きてくれなくて……。朝ごはん咥えながら、慌てて出てきたの」
「いやー、美結のぷんぷん怒る様子が可愛くてね?また寝坊しようかなって思ったよ」
「もー!明お兄ちゃん、またおかしなこと言ってる!」
「ははは!そっかー!朝から二人とも大変だったね~。じゃあ今度は、私が明さんを起こしに行こうかな?」
「お?メグちゃんが?」
「私も、明さんに可愛いって言われたいですから」
「メ、メグ!?ちょ、ちょっとダメ!そんなのずるい!」
朝早くから、賑やかに談笑する俺たち三人だった。
廊下を進んでいき、それぞれのクラスへと別れることになった。美結とメグちゃんは一年生なので、一階の教室。俺は三年生なので、三階の教室になる。
「じゃあ、またね二人とも」
「うん、またね明お兄ちゃん」
「明さん、またお昼休みにでも~」
そうして、俺は階段をてくてく登っていく。ふあ~、なんか学校に着いたお陰か、すっかり緊張の糸が切れちゃって、眠くなってきたなあ。
キーンコーン カーンコーン
「うわっ!?やっべ!もうホームルーム始まるじゃん!」
呑気にしていたのもつかの間、俺は直ぐ様階段をかけ登って、自分の教室へと向かった。
「すんません!遅れました!」
教室の扉を勢いよく開けて、汗だくになりながら叫んだ。
「おはよう、明くん。今日はずいぶんギリギリだったね」
教卓の前に立つ『城谷 楓先生』が、俺へそう告げた。
「申し訳ないです。ね、寝坊しちゃって……」
「大丈夫大丈夫、ホームルームはまだ始まってないよ」
「あ、ありがとうございます……」
俺はぜーぜーと息をつきながら、自分の席へとついた。鞄を机の上に置き、教科書とかを出していく。
「さて、みなさん。おはようございます」
爽やかな城谷先生の挨拶が、俺たち生徒へと告げられる。口元には優しい笑みを湛えていて、先生一人一人の顔を柔らかい眼差しで見つめている。
「連休明けの月曜日は、いつもよりちょっとやる気が出にくい日だよね。無理せずゆっくり、頑張ってね」
「「はーい」」
生徒たちの返事を聞いて、城谷先生は目を細め、ニッコリと笑った。
「……えー、今から授業やります」
一時間目の授業は、国語。これは副担任の『柊 千秋先生』が担当だった。
ボサボサの長い髪に、よれよれのスーツを着ている柊先生は、気だるそうに頭をボリボリ掻いていた。
「えー、今日の授業は、『将来の夢』というタイトルの作文を書いていただきます」
柊先生は教卓の前に立つや否や、スーツの懐からバナナを取り出して、おもむろに皮ごと齧り始めた。
あまりにも自由すぎる彼女の授業スタイルに、俺たち生徒は苦笑する他なかった。
「もぐもぐ、もぐもぐ……うん、やはり有機バナナこそ至高」
柊先生は満足そうにうんうんと頷きながら、頬をバナナで膨らませながら言った。
「いいですかみなさん、作文のコツは、冒頭に結論を述べることです。最初に何を言いたい文章なのかをはっきりさせておくと、読む側のストレスが減り、かつ文章がまとまっている印象を与えます」
先生はごくりと全部飲み干して、ふーと息を吐いた。
「国語はね、みなさん。必ず高得点を取れるようにしてください。なぜなら、国語を極めたら他の教科の点数も伸びるからです。だって、他の教科の問題文も、全て日本語で書かれていますでしょう?国語がダメだと、他の教科でも問題文が何を言っているか理解できません。簡単なはずの問題を、読解力がないせいで落としてしまうのは非常にもったいない。国語はまさに、成績の要なのです」
ふああ……と欠伸をしながら、先生は俺たち生徒へそう語った。
柊先生は、一見気だるそうでやる気なさげに見えるけど、言ってることがすごく分かりやすくてめちゃくちゃタメになるので、密かに人気を博している。
キーンコーン カーンコーン
平和な時間はゆったりと過ぎ去っていき、お昼休みとなった。
俺は友人の圭とともに、屋上の床に腰を下ろして、弁当を食べていた。清々しいほどに晴れ渡った空が、どこまでも天高く続いていた。
「なあ、明」
「なんだよ圭」
「二年の後輩に、藤田っているだろ?あいつ、彼女ができたらしいぜ」
「お!?マジで!?」
「相手は同じクラスの、日髙 葵ってやつらしい」
「そうか、そいつぁよかった!実は前々から相談を受けてたんだよ」
「相談を受けてた?」
「ああ、藤田くんからも、葵ちゃんからもな」
「ほう」
「今度、二人を祝ってやらねえとな」
「ああ、そうだな」
俺は最後の卵焼きを頬張りながら、顔をしかめた。
「はー、いいなあ。青春してるなあ藤田くんは」
「おいおい明、お前がそれを言うか?」
「なに?」
「お前は青春どころか、ラブコメ主人公をやってるだろ?彼女候補だって何人もいやがってよお」
「候補?もしかして、美結のことか?」
「幼馴染みの長谷川もそうだが、その友だちの平田もそうだろう?」
「メグちゃんか」
「ああ、それから、あともう一人厄介なのが……」
バンッ!!
圭の言葉を遮るようなタイミングで、屋上の扉が勢いよく開かれた。
そこには、腰に手を当てて、長い黒髪をなびかせた、ふてぶてしく笑う少女……湯水 舞がいた。
「やっぱり、ここにいたわね!」
彼女はツカツカと歩いてくると、俺のすぐ目の前に立ち止まった。そして、すとんと俺の隣に座った。彼女の胸には、小さなお弁当箱を抱かれていた。
「アキラ!今日も一緒に、お弁当食べましょ!」
「ちっ、噂をすればなんとやらか」
圭がうざったそうにそう呟いた。目ざとい湯水は、俺を挟んで向かい側にいる圭へ直ぐ様言い返した。
「何よ佐藤、あなたを誘ってるわけじゃないんだから、黙ってなさい!」
「けっ、相変わらずふてぶてしい野郎だぜ。仮にも俺、先輩だぞ。敬語くらい使えっての」
「ふん!あなたみたいなボンクラには、タメ語で十分よ!」
「なんだとお!?この腹黒女が!」
湯水と圭は、バチバチに睨み合っていた。それこそ、二人の間に火花でも散っているのかと思うほどに。
「まあまあ二人とも、仲良くしようぜ。湯水、腹減ってるだろ?そのお弁当食べなよ」
「ええ!そうさせてもらうわ!」
湯水は嬉しそうに微笑むと、お弁当箱を開けた。中には卵焼きにミートボール、そしてプチトマトと、THE お弁当的ラインナップが勢揃いしていた。
「美味そうなお弁当だな。それは、湯水のお母さんが作ったのかい?」
「そうよ!ママの手作り!」
湯水は箸で卵焼きを一切れ掴むと、俺の方へと持ってきた。
「はいアキラ、あ~ん♡」
「え、ええ?な、なんだ湯水?」
「ママの卵焼き、めちゃくちゃ美味しいのよ!だから、アキラにもあげたいの!」
「い、いやいや!俺はいいよ!お前の分のお弁当だろう?」
「もう!バカねえ!だからあげるんじゃないの!さ!ほら!」
「うう……」
とんでもない圧をかけて食べさせようとしてくる湯水に、俺はとうとう根負けした。湯水から差し出された卵焼きを、ぱくっと一口で食べた。
お、甘い。そこまで砂糖をまぶしてないはずなのに、めちゃくちゃ甘く感じる。卵の香りがすごく強くて、舌触りもふわふわだ。
「どう?アキラ。美味しいでしょ?」
「あ、ああ、びっくりした。本当に美味いな」
「ふふふ、よかった!私も嬉しいわ、ママの卵焼きがアキラに褒めてもらえて」
「湯水は相変わらず、お母さんと仲良しなんだな」
「ええ!もちろん!今度ママとパパと私の三人で、水族館に行くんだから!」
「へえ、いいじゃないか。絵に描いたような仲良し家族だな」
「うん!」
湯水はぱあっと、花が咲いたような満面の笑みを浮かべていた。それを見ていると、なんだか俺も喜ばしい気持ちになってくる。
……チクリ
その時だった。なぜか不意に、胸の奥が痛くなった。
原因は分からない。だが間違いなく、俺は一抹の“悲しみ”を抱いていた。
そして、さらに不思議なことに、俺の脳裏に……何やらおかしな記憶が過っていた。
(湯水の家族って、本当に仲良しだったっけ……?)
自分でも、なぜそんなことを思ったのか分からない。だって、湯水は前にも仲良し家族であることを嬉しそうに話していた。だから間違いないはずなのだが……。
本来あるはずの記憶と、また別の記憶が混在している。何やら気味の悪い感覚だった。
「……………………」
「ア~キ~ラ♡」
そんな時、湯水は自分の肩を俺へともたれかかった。ずしっと重みを感じたことで、俺は彼女がもたれたことに気がついたのだった。
「な、なんだよ湯水、猫なで声をあげて」
「アキラも、嬉しかったんでしょ?」
「嬉しかった?」
「ええ」
「なにがだ?」
湯水はニッと含みのある笑みを浮かべた後、俺の耳元に口を当てて、こそばゆく囁いた。
「私と、間接キスできたこと♡」
「……!」
「私のお箸で卵焼き食べたの、アキラも嬉しかったんでしょ?」
「な、なな、何を言うんだよ湯水!」
「やーん!照れてるのねアキラ!嬉しいわ!もっと私で照れてちょうだい!私のせいで心揺さぶられてちょうだい!」
ぐいぐいと力強く肩を押し付けてくる彼女に、俺はすっかり気圧されていた。
バンッ!!
屋上の扉が、またもや勢いよく開かれた。そこには、美結とメグちゃんが立っていた。
「あーーー!どこにもいないと思って探してみれば!舞!やっぱりまた明お兄ちゃんとお弁当食べてる!」
「湯水ー!あんた抜け駆けはもうしないって言ってたじゃん!嘘つきー!」
「抜け駆けだなんて人聞きの悪い!私はただ屋上に来て、お弁当を食べているだけ!お弁当をどこで食べようが、私の自由でしょう!?」
「「またそんな屁理屈言ってー!」」
気持ちよく言葉がハモった美結とメグちゃんは、目くじらを立てて湯水の前までやって来ると、俺のそばから引き離そうとした。
「ほら!舞!明お兄ちゃんに近すぎだって!肩触れまくってるもん!」
「やだー!止めなさいよミユー!だいたいあなたこそズルいじゃないの!朝はアキラと一緒なんでしょー!?お昼で私がアキラと一緒でも、全然問題ないじゃないー!」
「ダーメ!湯水は目を離すとすーぐ過激なことするんだから!」
「ふんっ!何よ!メグミがチキンなだけでしょう!?私の勇猛果敢な努力を僻んでちゃ、いつまで経ってもアキラは振り向いてくれないわよ!」
「ばか!湯水のは勇猛果敢じゃなくて、“はしたない”って言うの!」
やいのやいのと騒ぐ彼女たちを、俺は遠巻きに眺めていた。すると、ポンッと肩に手が置かれる感触があった。
それは、圭の手だった。奴はニヤニヤと口角を上げながら、「どうだい?明」と問いかけてきた。
「どう、ってのはなんだよ?」
「くくく、いい眺めか?ってことだよ」
「こ、この、何を言うんだよ。こちとら照れ臭いんだぜ?」
「いよっ!主人公くん!」
「ちぇ、他人事だなあ」
俺はふうとため息をついて、空を見上げた。
鮮やかな空の青さが、どこまでも果てしなく広がっていた。
「……全くもう、舞ってば遠慮がないんだから」
放課後、俺は美結と並んで歩いていた。彼女はむくっと膨れた顔をして、湯水のことを話していた。
「ちょっと目を離したら、すぐ明お兄ちゃんのところに飛んで行くんだもん。磁石じゃないんだから」
「ははは」
彼女の磁石という表現に、俺は思わず笑ってしまった。
「ん?」
そんな時、ふと前の方を見てみると、藤田くんと葵ちゃんが歩いていた。
「なあ葵!この漫画知ってっか!?嘲笑のフリーレンってやつ!」
「うん、嘲笑じゃないやつなら知ってるよ」
二人とも仲良さそうに、和気あいあいとしながら喋っている。
美結も二人のことに気がついたらしく、「あ、藤田さんと葵さんがいる」と呟いた。俺も「うん、二人がいるな」と小さな声で返した。
しばらく俺たちは、前にいる二人の背中を眺めていた。
「「……あっ」」
その時、俺と美結の声がハモった。藤田くんと葵ちゃんが、手を繋いだからだ。
「……圭の言ってた通りだな。あの二人、無事付き合えたらしい」
「え!?あっ!そうだったの!?」
美結は藤田くんたちに気を使って、声を大きくし過ぎないように、なんとかトーンを落としながらそう言った。
「よかった……!私、葵さんから相談受けてたの。藤田さんのこと」
「ああ、両片思いだったもんな。実ってよかった」
「うん!」
俺と美結はお互いに顔を見合わせて、にっこりと笑いあった。
そして美結は、少しだけ顔をうつむかせると、「いいなあ、手」と呟いた。
俺はハッキリと聞き取っていたのだが、ちょっと美結を困らせたいと思い、わざと「何か言ったかい?美結」と訊いた。美結はパッと顔を上げて、頬を紅潮させながら「う、ううん!何でもない!」と言った。むーん、かわいいなあもう。
そして、俺はすっと、彼女の手を握った。
「え……?あ、明お兄……ちゃん?」
「ごめん、ちょっと繋ぎたくなってさ」
「……………………」
「手、嫌かい?」
「……ううん」
美結は恥ずかしそうに、でも……本当に嬉しそうに微笑んだ。
……俺たちはいつものように、他愛ない話を交わしながら、家の近くまで歩いてきた。この辺になって、ようやく俺たちは手を離した。
美結の家は、俺の家から200メートルほどしか離れていない。だからほとんど帰り道が一緒なのだ。
「あら!美結に明くんじゃない!お帰りなさい!」
美結の家の前には、美喜子さんと結喜ちゃんがいた。
「ただいま、ママ」
「こんにちは、美喜子さん」
「ねーね、あーき、おかえりー!」
「うん、ただいま結喜」
「やあ結喜ちゃん、こんにちは」
結喜ちゃんはまだ三歳で、俺のことは「あきら」と言えず、「あーき」と言っている。それが何とも微笑ましくて可愛かった。
「ちょっとちょっとー!美結も明くんも、いい感じの雰囲気だったじゃなーい!」
「え?どういうこと?ママ」
「手ぇ繋いでたでしょ!?もう二人ってばそこまで進展してたのねえ!」
「えええ!?い、いや、その……!」
どうやら、美喜子さんには俺と美結が手を繋いでたところを見られてしまったらしい。俺も美結も照れ臭くなって、顔を赤く染めていた。
「記念に一枚撮りましょ!さあ二人とも!そこに並んで!」
「や、止めてよママー!恥ずかしいよー!」
「えー!?いいじゃないのー!大人になって見返したら、絶対懐かしい写真になってるわよ!さあさ!美結!もっと明くんに近寄って!」
「……………………」
ハイテンションな美喜子さんに圧されて、俺と美結は二人真っ赤になりながら横に並んだ。美喜子さんはスマホをポケットから取り出して、パシャパシャと写真を撮っていった。
「やーん!初々しいわねー!最高!最高よー!」
美喜子さんはまるで子どものように、無邪気にはしゃいでいた。美結は「もう、ママったら」と困った声で呟きながらも、口許は嬉しそうに緩んでいた。
「ままー!ゆきもしゃしんー!」
「あら!いいじゃない!美結!結喜を抱っこしてあげて!」
「うんっしょっと」
「きゃー!結喜がまるで二人の子どもみたいねー!新婚さんのオーラ出てるわよー!」
美喜子さんの言葉に、俺も美結も苦笑していた。美喜子さんの気が済むまで、しばらく撮影会は続いた。
「ふー!たくさん撮れたわ!二人の結婚式の時に、ぜひこれを流しましょ!」
「もー!ママってば気が早いんだから」
美結が結喜ちゃんを下ろすと、「ままー、おなかすいたー」と言って美喜子さんの元へ走っていった。
「あらあら、そうだったわね!ご飯の支度をしなくっちゃ!」
そうして、美喜子さんと結喜ちゃんは家の中へと入っていった。
嵐が過ぎ去ったかのような感覚に襲われた俺たちは、お互いに顔を見合わせて、くすっと笑った。
「ごめんね、明お兄ちゃん」
「ははは、いいよいいよ」
「まったく、ママってば変わらないなあ」
美結はそう言って、微笑みをたたえながら呟いた。
……チクリ
ああ、まただ。またこの感覚だ。
本来あるはずのない記憶が、頭の中に涌き出てくる。
(美結って、こんなに美喜子さんと仲良かったっけ?)
なぜそんなことを思うのか、本当に不思議でならない。昔から美喜子さんと美結は、こうして仲良く写真を撮っていたじゃないか。
おかしい、何かがおかしい。
「……明お兄ちゃん?」
「え?」
「どうしたの?何か考え込んでたみたいだけど」
「あ、ああ、いや……何でもないよ」
「そう?」
「うん」
「そっか、それならいいけど」
美結は自分の家の玄関前まで行って、扉の取手に手をかけた。
「じゃあ明お兄ちゃん、また明日ね」
「ああ、またな美結」
「……明お兄ちゃん」
「うん?」
「手、繋いでくれてありがと。嬉しかった」
「……うん」
美結はにこっと柔らかく微笑んで、俺に手を振った。そして、玄関の扉を開けて、中へと入っていった。
「……………………」
俺は自分の家に向かって歩きながら、今日の違和感について考えていた。
湯水の家族、そして美結と美喜子さん。
なぜこの二つに、俺は違和感を覚えているんだ?どちらも、疑いようもないほどに仲良しだというのに。
喉の奥に何かがつっかえているような、そんな感覚に陥った。
「おお、明か」
ふと気がつくと、俺は家の前に着いていた。玄関前には、父さんがタバコを吸っていた。
「ただいま、父さん」
「ああ、お帰り」
「またタバコかい?もう辞めたはずだったのに」
「ははは、耳の痛いことを言われたな」
父さんは苦笑しながら、ふうと白い煙を口から吐いた。
「そうだ、明。今日の夕飯はハヤシライスだってさ」
「ハヤシライス?」
「ああ」
──今台所で、博美が作っているよ。
「……………………」
「……ん?どうした明?」
「……………………」
「何を固まってるんだ?家、入らないのか?」
「え?あ……ああ、入るよ」
俺はそう言って、玄関の扉をおそるおそる開けた。
台所から、確かにハヤシライスの匂いがする。俺はバクバクと鳴る心臓を押さえながら、ゆっくりと歩いていった。
食卓には、花が飾られていた。たんぽぽの花だった。
「……………………」
俺は、すっと顔を上げた。台所で、こちらを背にして立っている人影が見えた。
その人影は、ゆっくりとこちらへ振り向いてきた。髪が長くて、綺麗で……でもどこか幸薄そうな、儚げな女性だった。
───紛れもなく、その人は母さんだった。
「お帰り、明」
……母さんは柔らかく微笑んでいた。透明な声が、俺の耳にすっと届いていた。
この瞬間、俺はすべてを悟った。
これは、夢だ。
夢を見ているんだ。
湯水の家族が優しくて、美喜子さんと美結の仲が上手くいっていて、そして……母さんが生きている夢。
すべてのことが上手くいった世界の夢なんだ。
「……………………」
「……明?」
「え?」
「明、どうしたの?」
「あ、ああ……いや、へへ、なんでもないよ」
俺は母さんに心配かけまいと思って、無理やり自分を笑わせた。
「なあ母さん。今日さ、美結と一緒に遅刻しそうになったんだよ。美結ってば自分一人で行っちゃえばいいのに、俺を待っててくれてさ」
「あら、そう」
「でね、お昼休みになるとさ、美結とメグちゃんと湯水がやってきてさ、俺のことで揉めてるんだ。モテ期なのかな?嬉しいやら照れ臭いやらって感じだよ」
「ふふふ、そうなのね」
「そうだ、それからね、後輩に藤田くんっているんだけど、好きな子と付き合えたんだ。嬉しかったよ、二人とも幸せそうでさ」
「あらあら、よかったわね」
「……そう、そうなんだ」
俺はぎゅーっと拳を握り締めた。ぶるぶると、その拳は小刻みに震えていた。
「それから、それから……なんだっけ」
「……………………」
「いろいろ、いろいろあるんだよ母さん」
「……………………」
「母さんに、母さんにさ……」
──たくさん、話したいことがあってさあ……。
俺の眼から、止めどなく涙が溢れた。長年かけて積もり積もった俺の想いが、今涙となって溶け出した。
母さんはそんな俺を、ぎゅっと抱き締めてくれた。あたたかった。このあたたかさにまた触れられるなんて、思いもしなかった。
「……明は、幸せ?」
「……………………」
「あなたは、幸せになれたのね?」
「……うん」
「……………………」
「今俺の心の中には、たくさんの人がいる。美結に、メグちゃん、湯水、藤田くん、葵ちゃん、圭、柊さん、城谷さん、美喜子さん、そして父さんに……母さん」
「……………………」
「この人たちがみんな、幸せでいてくれるこの夢の中を、美しいと感じられた。俺はそれが、嬉しかった」
「……………………」
「何もかもが上手くいったから、幸せになれたんじゃない。この人たちの幸せを祈れたから、俺も幸せだと思えた」
「……そう。明、あなたは強くなったのね」
「……………………」
母さんは俺からゆっくりと離れていった。本当に綺麗な微笑みを浮かべて、俺を優しく見つめていた。
ひゅううう……
風が吹いていた。周りを見渡してみると、いつの間にか一面たんぽぽの花畑になっていた。
黄色の小さな花たちが、どこまでも果てしなく見えていた。
「明、忘れないで」
「……………………」
「この世で優しい人は、あなた一人だけよ」
「……………………」
「この世のすべてを信じられなくても構わない。自分の愛だけを、信じ続けて。どんな時も、あなたの胸には愛の花が咲いていることを忘れないで」
「……………………」
「そうしたら、あなたの目に映る世界は、いつだって愛で満ちているわ」
「……母さん」
ひゅううう……
風が、母さんの髪をふわりと靡かせる。そして、今にも消え入りそうな声で、母さんは言った。
「さようなら、明」
「……………………」
母さんはくるりと背を向けて、一歩を踏み出した。一歩一歩を踏み出す度に、母さんはまるで見えない階段を登るかのように、空中を歩いていた。
その母さんの足跡が、キラキラと虹色に輝いていた。母さんが空へと上がっていくごとに、虹の橋が出来上がっていった。
ふわあっ……
花畑のたんぽぽが、すべて綿毛へと変わった。強い風に乗せられて、その綿毛がたくさん空へと飛んでいった。
母さんの姿はもう見えなくなっていて、遥か遠くの空へと消えていった。
「……さようなら、母さん」
俺はこの時、ようやく……ようやく母さんに、別れの言葉を告げられた。
俺の流した涙が、風に拭われて飛び散った。
「……………………」
俺は、朝の五時に目が覚めた。
日はまだ昇っていなかったけど、ぼんやりと空が赤みがかっていた。
隣には、美結と結喜ちゃんがすやすやと眠っていた。みんなで床に布団を敷いて、川の字になって寝ていたのだ。
「……ふふふ」
俺は優しく、美結の頭を撫でた。すると美結が、「ん……」と言って反応した。
「お兄ちゃん……どうしたの?」
「ああ、ごめん。起こしちゃったね。美結の寝顔があんまりにも可愛かったから、つい撫でちゃったよ」
「ええ?もう……」
美結は寝ぼけた眼をしながら、嬉しそうに口許を緩ませた。
「お兄ちゃん……」
「うん?」
「キス、して……?」
「ふふ、うん」
俺はすっと、彼女に口づけをした。
「うーん、お兄ちゃん……好き」
「うん、俺もだよ美結。君が好きだ」
「えへへ、嬉し……。幸せ……」
「幸せかい?」
「うん……」
俺は嬉しくなって、また彼女にキスをした。
「ふあ……。俺もまだ寝ようかな」
「うん、一緒に寝よ?」
「ああ、そうするよ」
そして、俺はまた布団を被って、目を閉じた。
きっとまた、美しい夢を見られるだろう。
俺はそれを、信じて疑わなかった。
──────────────────
後書き
第二部の構想について
https://kakuyomu.jp/users/gentlemenofgakenoue/news/16818093081489514958
【完結】生意気な義妹がいじめで引きこもりになったので優しくしたら激甘ブラコン化した話 崖の上のジェントルメン @gentlemenofgakenoue
★で称える
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